第80話
『ミドリさん』
(挿絵:パープル隊員)
愛とは何かを考えたとき、彼女はとてつもない虚無感に襲われる。
それは、性生活の不満といった類の粗雑な物ではなく、もっと精神的な部分での愛についての虚無だった。
考えるだけで、今の生活が、人生が、自分が愛と言う物の前ではちっぽけな存在に思え、そして愛すらも無意味な物に感じてしまうのだった。
「行って来る」
彼女は一人、台所で夫の声に口の動きだけで見送ると、もう何度見たか解らない鏡に映った自分の顔を見つめていた。
まもなく40に入る彼女の顔には、10年以上前にあった若さも、夢も希望も存在していなかった。
疲労が、哀愁が、老いが、虚無が、そして悲哀が、染み込むように、まとわり付くかのようにそこにあるだけだった。
彼女の精神は、意識せずとも既に自分の人生を終わらせるための準備に入っていた。
それは、生きている理由等ではない。ただ日々の何も無い日常の中で風に吹かれた砂が、
古い遺跡の礎をゆっくりゆっくり人知れず埋没されせていく様に、彼女は自分が消え去るのをただ待っているのだった。
『お母さん。毎日、美味しいご飯を作ってくれたお母さん。毎日、寝る前に絵本を読んでくれたお母さん。
時には一緒に眠ったこともありました。お母さん。お母さん。僕は今日、お嫁に行きます』
TVを見ていて何だか膝が冷たいなとタイガが思ったら、その冷たさの正体はエコの大粒の涙だった。
「うぅ……せ、せんぱぁい……い、良い話ですねぇ……」
「そうかぁ?」
丸っこい目を涙でいっぱいにして、タイガにはまるで目玉それ自身が泣いているように思えた。
たかがテレビドラマにここまで感情移入できるエコがある意味羨ましく思えた。
『お母さん、僕はいつしか子供を産むでしょう。可愛い男の子でしょうか。女の子でしょうか。
僕は最初の子供は女が良い。きっとお母さんに良く似た可愛い女の子になるでしょう。必ずなるでしょう』
タイガは、再びエコを見た。泣きすぎて少し赤くなった目からはまだまだ涙が出ていた。
『そして、彼女もいつしかお嫁に行ったら子供産むでしょう。女の子を産むでしょう。その子もお母さんに似ているでしょう。
だから僕は寂しくありません。これからもお母さんは生まれて行くのです。僕がお母さんを愛するようにお母さんも時代を流れ愛され続けるのです』
右腕に変な感触を感じた。エコがギュッとタイガの腕を掴んでいた。
声を出して泣きたいのを我慢しているのかぷるぷるしながらもなお目線はTVに釘付けだった。
『智司は、純白のウエディングドレスを今は亡き母に見せたかった。式場の扉が開かれた時、智司には母の姿が見えたような気がした。
次回、『涙がいつしか真珠に変わる時、白いキャンドルから現れた愛の人! 光の向こうに智司は何を見るか。嗚呼、母よ永遠なれ!』お楽しみに』
壮大なナレーションが終わり、突然ドラマの感動をぶち壊すかのようなサラ金のCMが流れ出すと、
エコはそっとタイガから手を離し、ゴシゴシと目をこすった。
「あぁー……お、オレ、すっごく感動しちゃいましたぁ……。明日も絶対見なきゃ……」
「そんなに泣ける話だったかぁ?」
エコの腕は涙に濡れてびしょびしょになっていた。一体どこにそんなに水分があるのかタイガには不思議だった。
「とっても良い話だったじゃないですかー。智司とお母さんの思い出を語るところとか……うぅ、また泣けてきちゃいましたぁ……」
「むー? そんなに良い話だったのか?」
「うーん。ママの事ちょーっと思い出しちゃったからかもしれません。ママの話はカンドーしちゃいます」
「オイ、お母さんって良い物なのか?」
「んーと……ハイ、良いですよ。オレ、グレちゃいましたけどパパとママの事は今でもまだちょっとだけ好きです」
「ふーん」
エコの楽しげな口ぶりの原因がタイガには全く理解できなかった。
そもそも、自分には母親がいないのだから無理も無かった。タイガにとって母親とは面倒を見てくれる年上の女ぐらいの認識しかなかった。
「ママのエビピラフまた食べたいなぁー」
「フン! オレは強い虎だからそんなの全然平気だぜっ! お前も独り立ちしろよ」
「は、はぁーい」
それからタイガとエコは、お昼の再放送を全て見終え、しばらくしてどの局もニュース番組をする様になるとエコはアジトへと帰っていった。
その日は隊員達が一向に現れないので一人きりの部屋で少し仮眠のつもりでタイガは眠ったが、
起きた時には既に時計は午後7時を回って、リビングに隊員達が数名集まって談笑をしていた。
「あっ、ホワイトちゃん♪ ピンクちゃん♪ おはよー♪」
タイガは、寝起きでも元気に女子達の輪の中に飛び込んだ。女子達も慣れているのか普通にそれを受け入れていた。
「あれ、タイガくんやっと起きたの?」
「ホント、タイガくんは一日中ゴロゴロしてて良いねぇー」
「にゃははw オレってゴロゴロしててもカッコイイんだー♪」
「私がタイガくんのお母さんだったら絶対、『ダラダラすんな!』って怒鳴ってるな」
「にゃはw ホワイトちゃんがオレのお母さんだったらオレも嬉しいかも!」
ホワイトに寄り付きながら、タイガはにゃはにゃはと笑っていた。
調子に乗ってタイガは腰周りに手をかけようとしたが、ホワイトにピシャリと叩かれてしまった。
「そういえば、タイガくん親も兄弟もいないし、一応は天涯孤独だよね」
「うん。オレって孤独なんだ……だからピンクちゃんオレのお母さんになってくれる?」
「えっ……」
今度はピンクに飛びついて、タイガはヘラヘラと笑った。顔で笑って心で泣いて……。
ピンクは冗談だと気づかずに、タイガに同情してしまいそうになった。
「うん……私でよかったらタイガくんの母親代わりになっても」
「ピンク。これ冗談。タイガくんの常套手段じゃん」
「ちぇ、残念! じゃぁ、やっぱりホワイトちゃんにしようかなぁ~♪」
「私は子供には厳しいぞ?」
リアルな意味を含みながらホワイトは苦笑していた。
「じゃー決まりっ! オレ、お母さんがいたらやってもらいたい事あったんだー!」
「何々? 掃除?洗濯?」
「え、えーっとね……」
タイガはいつにも無く顔を赤くしてもじもじし始めた。
女子達は「あぁ、甘えてみたいけどちょっと照れくさいのだろうな」と思った。
「いいよ。遠慮しなくて」
ホワイトは、優しい顔を作ってタイガを受け入れてやる準備をした。
タイガもそれを見て頼みやすくなったのかニコッと笑って嬉しそうに言った。
「母乳ちょうだい!」
彼女はいつもの様に、日常的にいつの間にか形作られた流れ作業の様に買物に出かけていた。
ベージュ色の塀の電信柱。そこから5歩先にある郵便ポスト。下校途中の小学生。自転車のベルの音。
いつも通る道は、彼女に何の新鮮味も与えてはくれない。いや、彼女にはもう感受性と呼べるようなそれは無くなっていた。
彼女の目の前に、音は、匂いは無い。ただベッドリとそこにいつもの風景が写真の様に立体を持たず張り付いているだけだ。
彼女は、スーパーで適当に惣菜や果物を買うと店を出た。店を出るとレジや、店内の様子やそんな記憶はすぐに彼女から切り離される。
店を出たときにあるのはただ、買物袋を持って立っている彼女の身体がポツンと一つそこにあるだけ。寂しさがあるだけ。
後は家の玄関で鍵を開けている自分と、食事をしている自分と、寝ている自分と。大雑把な区切りごとに自分の存在を確認して、
そして、その度にその前の自分を忘れて。過去も未来も無い、彼女には、ただ現在がそこにあるだけだった。
「あっ」
ふと、彼女は足に違和感を感じた。アスファルトの裂け目につま先を引っ掛けていた。
夏のアスファルトは夕方とは言え彼女の素肌には少し熱かった。影が長く延びていた。
彼女は、苛立ちやそんな消極的な感情よりもむしろいつも平凡なこの道に新しい区切りが出来た事に戸惑いと新鮮味を感じていた。
「オイ、これ落ちたぞ」

聞き覚えの無い声に彼女は顔を上げた。あまりに突然で一瞬、それが声なのかすら彼女には解らなかった。
目の前に少年が一人立っていた。目が綺麗だった。もっと色々と思った所はあったのかもしれない。
だけど、彼女はその目だけが一番強く印象づいていた。
「落ちたってば」
少年はリンゴを彼女に見せていた。
少年は夕陽に染まったリンゴを再び差し出した。彼女は、首を振った。
「ありがとう。でも、いらないの」
「いらないって、そっちが転んで落としたんだろ?」
「え」
右手に持っていた買物袋は確かに道路に向って口を開いて、中からはコロッケの袋が飛び出していた。
彼女はリンゴを買った覚えは無かった。いや、忘れていたのかもしれない。食物を運ぶだけのプログラムの中で──。
「いい、貴方に、あげる」
彼女はそれだけ言うと、買物袋から落ちたコロッケの袋をしまい、立ち上がった。
足に痛みが走って私は再びよろけた。アスファルトの熱にまた触れるのかと少しヒリヒリとした私の肌が痛んだ。
だけど、肉体が思っていたよりもそれは遅かった。
「お、オイ! 何だよもう。危ねぇなぁ」
彼女の視線が宙に制止したまま浮かんでいるように見えた。肩や胸の中に違う温度が流れてきた。
少年の瞳が近かった。彼女はその時、やっと彼女は彼が自分を支えてくれている事に気づいた。
「……あ、あぁ、あ、足……足が」
彼女の声は震えていた。その根源となっていたのは恐怖では無かった。
もっと高い所にある、誰にでもあって、そして自分にもかつてあった物だ。
「足?」
「い、痛かったの」
少年は彼女の足元を見て、一言「赤いな」と言って彼女の腫れた場所に触れた。
ヒンヤリとした感触が伝わってきた。彼女は、始めて安堵した様に息を吐いた。
それは、自分の存在が痛みや感触によって確実に存在している事を再認識した安心感だったのかもしれない。
「何とか言えよ。歩けないのか? 帰れないんならオレが連れて行ってやるぞ?」
「あ、あぁ……」
彼女は上手く少年の言葉に応える事はできなかった。
戸惑ったような呻き声が二言三言出てきた。
少年は、黙って彼女の腕を肩に廻し歩き始めた。
彼女が歩いていた方向に進み四つ角まで来ると、少年はどこに進むのかと言う風に彼女を見つめた。
ただ顎で合図する事しか彼女は出来なかった。だが、少年は何も言わずにその方向へと進んでくれていた。
彼女はまだ混乱していた。無人島の動物が始めて人間と言う物に出会った衝撃に似た何か揺さぶられるような妙な感覚。彼女は嗚咽を漏らし初めた。
「ど、どうしたんだ? 痛いのか?」
「ち、違、違うの。ごめんなさい……ごめんなさい……」
彼女は止め処なくあふれ出す感情をむき出しにしたまま謝る事しか出来なかった。
彼女は自覚してしまったのだ。殺してきた心が再び鼓動を始めた今、かつての自分の寂しさや虚しさや哀れさが。
それは家に着くまで続いた。少年は何も言わずに玄関まで入ってくれた。
「じゃ、じゃぁオレ、帰るからな」
「ま、待って」
少年は彼女が靴箱に捕まりながら歩き出したのを見届けるとそう言って背中を向けた。
その姿が遠く感じた。自分がまた寂しい世界の中に置いて行かれる様に感じ呼び止めたのだった。
「お、お礼に、ば、晩御飯でも、食べて、いかない」
「ホントか? じゃぁ、食う!」
嬉しそうに少年は家に上がりこんだ。彼女は、その時、笑顔がどんな物なのか思い出した。
それと同時に、薄手のシルクに包み込まれたような安心感が彼女を包んでいた。
少年の後から台所に入ると少年は買物袋の中にあったイカの刺身のパックを手にしていた
「にゃはw 実はこのイカの刺身、食いたかったんだー」
「好きなもの、何でも、食べて、良いから」
少年はそれを聞くと耳をピクピクとさせた。
それから買物袋の中を探り始め、コロッケとエビフライのパックを取り出した。
「ご飯、いる?」
「いる! あ、でもオレ、太らないように気をつけてるから少なめで良い」
彼女は真新しい茶碗にご飯をよそぎながら、自分が微笑しているのに気が付いた。
無音の食卓に、温度が加えられた事を、土に雨が染み込むようにじわりじわりと感じている事が嬉しかった。
少年に茶碗を渡し、よく冷えた麦茶を注ぎ、そして真新しい箸を渡すと美味しそうに少年はそれらを食べ始めた
「美味しい?」
「うん、結構うまいぞ」
彼女は少年が食べている最中に一言も話しかけなかった。
少年の食べっぷりに見とれて、それを邪魔するのは何か大切な物を消してしまいそうな心持がしていたからだった。
それから少年はコロッケを食べ、エビフライを食べ、そして大事そうに刺身を食べ終えた。
そして、最後の締めの麦茶を飲み干し、大きな息を吐いたとき彼女は自分が求めていた物の片鱗が垣間見えたような気がした。
「美味かったぜ! それじゃなー!」
少年が椅子から降りて玄関に向おうとしたとき、彼女の中にあの不安感が蘇ってきた。
それはただ漠然とした不安だった。辞書に書いてある通りのような、良く出来た「不安」と言う型にはまった概念。
「ま、待って!」
少年に彼女は大きな声で呼び止めた。それはこの生活から助けて欲しいという彼女の叫びではなかったか。
玄関の脇の小窓から漏れる逆光が少年を黒く浮き上がらせていたが、あの目は彼女自身を見ていた。
「き、気が向いたときで、良いの。いつでも。と、時々、御飯、ご、ご馳走させて、欲しいの、迷惑、で、なければ……」
少年は黙っていた。表情が読み取れず、迷惑がっているのかすら知ることは出来なかった。
しばらくして、躊躇した様に少年は言った。
「……金取らないよな?」
「え……えぇ」
「じゃぁ、腹が減った時、たまに来させてもらうぜ!」
少年が玄関を開けたとき、彼女はまたあの日々に戻るのだと思っていた。
しかし、奥底で温まった水が少しずつ氷を解かしていっている事に気づき、安堵していた。
翌日、タイガは女子(特にホワイト)からの冷たい視線を浴びながらエコと雑談していた。
「それで、上手くいけば刺身くれるかなーとか思って連れて行ってやったんだけどさ。
そしたら、いつでもタダで飯食わしてくれるって言ってくれたんだぞ。羨ましいだろ!」
「わぁー、先輩やりましたねー」
「へっへーん。オレってカッコイイからなぁ~。今日にでも行くか?」
「あ、すいません先輩。今日ボスがラーメン食べに連れてってくれるらしいんですよー」
タイガはエコが少し羨ましく思った。
タダ飯とはいえスーパーの品物だったし、ラーメン屋の方が誰だって良いのだ。
「だからまた今度連れて行ってくださいね」
「ちぇっ、お前がラーメンならオレ行く気なーくした!」
「せ、せんぱぁーい」
ソファの横でごろんと横になったタイガをエコはしばらくなだめていたが、
その後すぐにドラマが始まり、感動のシーンに散々泣いた後エコはラーメンを食べに帰っていった。
そんなタイガに残っているのは小さな寂しさと小さな虚しさとあまりにも大きな暇だけだった。
「ねーホワイトちゃぁーん?」
女子に満面の笑顔を見せてみても、露骨にフンと口に出して言われてしまった。
自分のせいなのにタイガは反省と言う事を全くしないまま、リビングを後にし、部屋へ戻った。
「あーあ。つまんねーの」
ベッドの上に横になって雑誌を手に取るものの、飽きてしまってつまらない。
AVも新しい物が届くまでまだ日がある。静かな部屋の中でお腹がタイガに声をかける。
「むー。やっぱり飯食いにいくかなぁ……」
タイガは、勢い良く起き上がると、あの女性の家に向った。
ラーメンがあれば良いなと少しだけ期待しながら、タイガの足取りは軽かった。
途中、道に迷いそうになったがわずかに覚えている家の屋根の色や、ポストを頼りに歩いた。
しばらく歩ければ確実な記憶がその風景によって引き出され、タイガはあの家の前に着き、そしてインターホンを押した。
辺りはしんとして、誰も居ないのかと思ったが小さな足音が聞こえ、ドアが開いた。
「あ、いらっしゃい」
「飯食いに来たぞ!」
「どうぞ。あがって」
女性はうっすら顔が綻んでいたのにタイガは気づかなかった。
ラーメンに勝てる食べ物が無いか。それだけを考えていた。
黙々と台所に向うとタイガはダイニングテーブルに向い、椅子に座った。
「今日のメニューは何だー?」
「あ、ごめんなさい、ま、まさかこんな早く、また来てくれるとは、思ってなくて、余り物で良かったらすぐ作るから」
「(ちぇっ……)」
女性は冷蔵庫から卵やキャベツなんかを取り出していた。
もちろん期待はしてなかったが焼肉やステーキの準備をしている様には見えなかった。
「何作ってるんだ?」
「キャベツと、ベーコンをね。卵で合えて、塩コショウ、で、炒めるの」
「ふーん」
さすがにラーメンには勝てないなとタイガは思った。
どうせなら前もって来る事を知らせておいた方が良いかもしれないなとも思った。
そして今頃エコはラーメンを食べながら、きっとボスからギョウザを2つくらい貰っているんだろうな等と思っていた。
「ハイ、お待たせ」
そんな事を考えているとあっと言う間に出来上がったあり合わせの料理がタイガの前に置かれた。
説明どおり、キャベツにベーコンに卵を合えてコショウもしっかり付いている。色合いは良かった。
「……いただきまーす」
つくづくエコを羨みながらタイガは料理を口に運んだ。
しかし、思っていたよりそれは美味しかった。ラーメンほどでは無かったが。
「美味しい?」
「うん、思ってたより美味いぞ」
「良かった」
ほどほどにご飯をよそった茶碗と、湯のみを置きながら嬉しそうに女性はタイガの向かい側に座った。
「えーと……」
「何?」
タイガは、女性の顔を見て何か言おうと思ったが言葉が出てこなかった。肯定的な言葉である事だけしか解らなかった。
とりあえず当たり障りの無い言葉を口に出した。
「一人で住んでるのか?」
タイガは一瞬、女性の顔が強張った気がした。
「ううん……もう一人住んでるの。えぇと……貴方は」
「オレ、タイガ! そっちは?」
「……ミドリ。カタカナね」
「ふーん。ミドリちゃ、いや、ミドリさ、さん?」
ぎこちない呼び方にミドリは表情が少し硬く見えたが目の奥はどこか嬉しそうだった。
「ちゃん、なんて歳じゃ、ないけどね。もう、39だし」
「え、39? オレ、28ぐらいだと思ってた」
年齢を聞けばいい歳の取り方をしているなとタイガは思った。
若すぎず老けすぎず。よく見れば顔も悪くは無い。でも、20以上歳が離れているので付き合おうとは思わない。
「私ね、若い頃に良く田中美佐子に似てるって言われてたの」
「むー……オレ、知らない」
「そう。若い子はあんまり、知らないかな」
そんな事を話しながらタイガはご飯をきれいに平らげ、そそくさと帰る素振りをし始めた。
別にミドリとの会話が嫌なわけでもなく、特に居たいわけでもなかったからだった。
「ねぇ、タイガくんは、学生みたいだけど、一人暮らし?」
「……むー。一応一人暮らしみたいなもんかな」
「そう、じゃぁ、ご飯とか、大変でしょう」
「まぁなー」
「また今度来た時の為に、美味しい物買い込んでおくね」
愁いを含んだ微笑みを見せるとミドリは玄関に向っていくタイガの後を付いていった。
玄関を開けると外は雨が降っていた。風も出ていて、荒れた天気だった。
困ったようにタイガはミドリを見た。ミドリは一瞬、戸惑うような表情を見せ、小さな声で言った。
「私は良いから、もう少し、あがっていって」
「……お、おぅ」
ミドリは、タイガが家にとどまる事になった数時間の間、彼をどうもてなすかを考えていた。
子供が居るわけでもないこの家で、しかも精神的にも肉体的にも大人に近い少年が楽しむような物は何も無いのだ。
タイガもそれに気づいたのか、台所の反対側にある居間にある座敷に何をするでも無く、ただ寝転んだ。
「あの、ごめんなさい。タイガくんぐらいの子は、TVゲームとかして遊ぶのかな」
「……別に良い。オレ、タダで飯食わせてもらったし」
タイガの一言があった物の、ミドリはどこか不安定な椅子に座っているような気持ち悪さを感じていた。
ミドリはいつの間にか自分が他人に対する対応能力が消耗していることに気づいた。
つまらない日用品のガラクタばかりの空間を見つめ、ミドリは混乱していた。
「本当に良いんだぞ」
タイガにもそれは伝わったようで、ミドリは自分を落ち着かせる為にタイガの側に座った。
タイガもそれに気づき、見られていると感じると何だか居心地が悪くなってきた。
「……あ、タイガくん。耳アカがちょっと溜まってる」
「にゃ? 耳アカ?」
「耳掃除してあげる。えぇと、耳かき……どこにやったかしら」
ミドリは、やっとキッカケが見つかったのが嬉しいのか微笑を浮かべながら耳かきを探し始めた。
耳掃除と言う単語を始めて聞いたタイガは耳をほじくってみたが、良く解らなかった。
「横になって」
正座したミドリは、膝をトントンと叩いた。膝枕と言う事なのだろう。
タイガは、耳掃除なる物に言い知れぬ警戒心を持っており、恐る恐るヒザの上に頭を置いた。
「横向いて、そう、痛かったら、言ってね」
痛いのかとタイガは恐怖を感じた。耳に何かが突っ込まれたのに気づき思わずビクッと体を逸らした。
「にゃっ!」
「大丈夫、じっとしてて」
しかし、耳の中の痒みが薄れ、何か小さな固まりの様な物が取れたような感触があった。
ストレートな表現をすれば、それは気持ち良かった。心地よかったとも言えた。
「何年ぶりかしら、耳掃除を、誰かに、してあげるなんて」
「…………」
「私、遠くから引っ越してきてね、こっちに誰も、お友達がいないの」
「…………」
タイガは、ミドリの言葉はほぼ耳に入っていなかった。
初めての感覚はタイガに優しく、気づけばウトウトしはじめ文字通り夢心地だった。
「タイガくんと、少しだけでも、こうしていられると、なんだかちょっぴり、心強いの、ねぇ、タイガくん」
ミドリが耳掃除を終えると、タイガは静かに寝息を立てていた。
小さな子供の様に可愛らしい寝顔だとミドリは思った。
子供は天使だと言うが、子供の居ないミドリにとってもそれは例外ではなかった。
タイガの頭を撫でると毛並みが手でなぞった方向へ流れていく。
それに気づいたとき、ミドリは自分がタイガの頭を撫でているのに気づいたのだ。
「帰ったぞ」
玄関の方をミドリは向かなかった。それは、この家ではごく当たり前の事だった。
だが、ミドリはその行為を一種の反抗だと捕らえていた。これは、この家では今まであり得ない事であった。
「誰だその子は」
ミドリの膝の上で寝ている少年に気づいた夫は、対して興味もなさそうな調子を含み言った。
「近所の、子」
「そうか」
「今日は、早いのね」
夫は、ミドリの発言に驚いたように一瞬、立ち止まると、
「忘れ物を取りに来ただけだ」
と、再びリビングに置かれたタンスの中を探り出した。その動きがとても小さくミドリは見えた。
「今日も、遅くなるの」
「……俺が定時に帰ったことがあるか」
「一度だけでも早く、帰ってきて、もらえないかしら、私」
「何だ。今日はやけにしつこいな。俺の立場を支えるのがお前の仕事だろう」
夫は、ミドリの言葉にイライラしていた。ミドリは自分がどうしてここまで夫にここまで言うのか、
不思議であり、心強くもあった。だが、それは彼女が彼の妻と言う身分になってから初めてのことだった。
「明日、ご馳走、作るわ。貴方、何が好きなの?」
「帰りは遅くなる」
夫は、ミドリに最後まで目も向けずに玄関へ向った。
思わずミドリは夫を追いかけ、腕を掴んだ。振り向いた夫の顔は驚きに満ちていた。
ミドリは、賭けのつもりだった。自分の中の何かが外れないようにしたかった。
「お願い、明日じゃ、なくても良いの。いつか、いつか早く帰ってくるって、言って」
「…………」
夫は何も言わず、ミドリの手を振りほどいた。広い空間に突き放された気がした。もう、閉まった扉の音だけが耳に響いていた。
哀しくても今まで流す事の無かった涙が何故か溢れていた。
ぬかるんだ道を歩くかの様に、ミドリはリビングへと戻っていった。雨の音が強くなった。
「大丈夫……か?」
寝転んだまま、うっすらと目を開けたタイガがミドリを見ていた。
慌てて涙を拭くが、ミドリの涙は何度拭っても拭いきれない様な気さえした。
「大丈夫。ごめんなさい。起こしちゃって」
「……結婚、してたんだな」
タイガは、慎重な表情と口ぶりでミドリに聞いた。
ミドリは、見せ掛けの笑顔さえ作れなかった。顔の筋肉が疲れてしまっていた。
「15年になるかな」
「長いんだな」
「そう、長い。とても長かった。けど、今覚えば、本当に15年も経ったのかさえ……」
「でもさ、喧嘩なんて良くある事だろ。夫婦ってのはそんなもんだってテレビでもやってるしな!」
タイガは、明るく笑って再び寝転んだ。
頭がちょうどミドリのヒザの上に載った。あ、と小さい声でタイガが気づいたが、結局は膝の上に頭を置いた。
「オレさ、オレさぁ。ひざまくらって言うのしてもらった事なかったんだ」
「お母さんはやってくれなかったの?」
「オレ、お母さんって言うの居ないんだー」
タイガの調子が特に暗くない明るい調子だった為、ミドリの後悔は深いものではなかった。
さっきの発言の後すら引かずに、タイガは膝の上でゴロゴロと頭を左右に動かしていたのにミドリは不思議な気持ちがした。
「あーあ。目が覚めちゃって暇だなー」
「雨、当分止みそうにないね」
「あっ、なーなー。何か面白い話してくれよ」
膝の上で自分の顔を覗き込むタイガの顔は端整で、思わずミドリは目を逸らしてしまった。
こんなに近くで男性(少年とは言え)の顔を見た事はこれまでの人生の記憶から途切れてしまっていた。
「お、面白い話かぁ」
「オレ、暇になってなーんにもする事が無くなったら面白い話してくれって言う様にしてるんだー。
あ、でもさぁ、オレの子分のエコって奴はずーっと考え込んだままで話さないからソイツは例外かなぁ」
ミドリは、タイガに聞かせるような面白い話が何も思い浮かばなかった。
それと同時に、自分がどれだけつまらない日常を過ごしてきたのかを再認識した。
この日常に埋没する事だけを考えていたのに、何故か、今、ミドリの心はそれに恐怖心を抱いていた。
「……別に無いんだったら良いぞ?」
「ごめんなさい。その代わりに何か、別な話をしてあげる」
「別な話?」
「小さなウサギのお話。子供の頃に、お母さんが良く話してくれていたの。知ってる?」
「むー。知らない!」
タイガはにゃはと笑った。
ミドリはわずかに開いた窓から漏れる微風に揺れるレースのカーテンの向こうを見つめながら自然とタイガの頭を撫でていた。
意図した訳ではなかった。その行動がその場では至極当然の様に思えたのだ。その証拠にタイガは何も言わなかった。
タイガは気持ち良さそうにあくびをすると、うっすらと目を閉じて耳を澄ましていた。
「小さな小さなウサギは、毎日、満月の夜にぴょんと飛び跳ねます。小さなウサギは、お月様に行きたいのです。
お月様では、ウサギたちがぺたん、ぺたんとお餅を突いています。小さなウサギは、お月様に行きたいのです」
タイガの耳がピクピクと動くのを手で感じながらミドリは話を続けた。
「今日は、ぴょん、次の日もぴょんぴょん、その次の日もぴょんぴょんぴょん。
来る日も来る日も、ウサギは飛び続けました。でも全然、お月様には行けません」
あんなに強かった雨はしとしと降る静かな雨に変わっているようだった。
「だけど、ある日ウサギがぴょんと跳ねるとふわふわと体が浮いてウサギはお月様に飛んでいきました。
黄色い月を近くで見るととても綺麗でした。小さくウサギ達が見えました。ウサギ達はウサギに向って手を振っています」
ふっと、カーテンが風にゆれ大きく膨らむと、そこから一筋の明るい細い光が部屋の中に差し込んできた。
「ウサギは嬉しくてまたぴょんと跳ねると、お月様の手前でパチンとはじけてしまいました。
すると、地面にもっと小さなウサギが落ちてきて、とっても小さなウサギはとっても哀しくてお月様に向って再び、ぴょんと跳ねました」
光は、なだらかな坂道の上を転がるようにして、タイガの顔の上で止まった。
眩しそうに目を開け、タイガはゴロンと顔をミドリのお腹の方へ向けて呟いた。
「……何か、かわいそうな話だな」
「うん、哀しいお話だけど、でも何だか面白い話でしょ。ウサギはもっと小さくなって今もどこかで跳ねてるのかもね」
「何でそのウサギは月に行きたがるんだろうな」
ミドリはカーテンに透けた雨の雫がツーっと滑っていく外の景色を見た。
「寂しいからじゃないかな。一人ぼっちで……」
翌日、OFFレンジャーでは、ギョウザパーティを開いていた。
夏休みももう終わりに近づく頃で集まりは悪かった。隊員の数とギョウザの数は反比例だった。
「せんっ、せんぱぁいっ……もうっ、もう食べられないですよぉ~!」
山盛りになったギョウザの皿にさらにギョウザを乗せているタイガは悲痛なエコの叫びに我を取り戻した。
お腹がパンパンに膨らんで苦しそうなエコは同じく山盛りになったギョウザの皿の前で泣いていた。
「お前、何やってるんだ?」
「先輩、酷いですよぉ~……オレがギョウザくださいって言ったら次から次へとギョウザ盛ってきてぇ……」
「お、そうか。じゃぁ、これも食え」
「うわああああああん! 先輩ひどいよぉー!」
手に持った皿をエコの前に置くと、エコは火が付いたように泣き出した。タイガの頭はミドリの事を考えていた。
耳掃除や膝枕の感触がまだタイガの体の回りにふわふわと浮かんでいるような気がしていた。
「結構残っちゃいましたねぇ……げぷ。どうしましょうか」
隊員達もすっかり満腹状態でまだまだその存在を誇示している大量のギョウザを嫌な物を見るような目で見ていた。
「エコに持ってかえらせましょう。オオカミはたくさんいますからね」
「うわあああああん。もう、ギョウザ食べたくないよぉー!」
「貴方は十分食べました。オオカミにあげるんです。うるさいから泣かないで下さい」
タッパーに隊員達が総出でギョウザを詰め始めているのをタイガはぼーっと見ていた。
ギョウザの入ったタッパーのフタがパチンと閉められた音と同時にタイガは良い事を考えた。
「オイ、それオレにも一個くれ」
「はぁ?ギョウザ臭くて女子に嫌われるんじゃなかったんですか?」
「オレが食べるんじゃねーんだよ」
「じゃぁ、誰ですかぁ」
「……ちょーっとな」
有無も言わさずグリーンの手からタッパーを奪い取るとタイガは冷蔵庫にそれを締まった。
このまま持っていくのも良かったが、もう日も暮れてしまっていた為に遠慮する事にした。
そのままタイガは、ソファに座った
「もー片付けてくれれば良いのに。ま、期待してませんがね」
「ほっとこほっとこ」
タイガの隣ではまだヒクヒク言っている赤い目のエコがドラマを見ていた。相変わらずお腹は膨らんだままだ。
このドラマは初めて見るドラマだった。時間からして多分特番だろうと思った。
『愛における喜びとは何だと思う? それは誕生だ。こみ上げる感情の発芽だ。だが、それは一方では永続性はない。
ただその瞬間におけるプラスの感情であり、そこからマイナスのエネルギーへとなだらかに広がっていく……』
見たところ、ドロドロとしたドラマのようだが言っている事がサッパリ解らなかった。
エコは解るのだろうかと少し焦燥感を感じながらタイガはエコの顔を覗き込んだ。
エコは首をかしげたまま、ぽかーんとしていた。少し安心してタイガは画面に再び目を向けた。
『キミの母が君を愛している。僕がさっき言った事と当てはまらないようにも思えるね。
だが、それはお母様がキミを息子だと認識していると仮定した場合の話だ。キミを一人の異性として
意識を始めた瞬間にその仮説は音を立てて崩れる。キミの母親は異常だ。狂っている』
花瓶が割れたり、爪でガラスを引っかいたりとなんだか画は凄くてひきつけられるのだが、
タイガもエコも全然、話は全く見えてきていなかった。
『キミは、お母様を愛する気持ちはあると言ったね。それは異性としてではなく母親としてだろう。
母子愛は誰にでもある。ある程度以上の愛情までに昇華させる事も、もちろん可能だろう』
『違う、ボクは、お母様を……』
『ならば何故、あの嵐の晩、お母様を抱かなかったのだ。叔父様にボロ切れのように醜い扱いを受けたお母様を、
どうしてキミは抱いてやらなかったのだ。お母様のあの瞳から、どうして目を逸らしたのだ!』
タイガはつまらなくなってエコの頬をちょんと突いた。
エコは、動けないのか首をちょっとだけタイガに向けて「何ですか」と言った。
「オイ、明日お前、暇か? 例の家に連れて行ってやるぞ」
「えー。ホントですかぁ。じゃぁ、明日も来ますね」
「おぅ! あ、でも……」
言いかけた所で、TVから物凄い爆発音が聞こえて二人は思わず画面に眼を向けた。
古い洋館から真っ黒な煙が上がり、それを呆然と見ているさっきの男の片方が映っていた。
『愛は一種類だと錯覚したがる人間の哀しさか……』
その日の晩、夫は帰ってこなかった。この家にとってそれは別段珍しい事ではなかった。
それなのに、何故か眠れなくなってミドリは布団に入ったまま、小さな電気スタンドの灯りを頼りに
古いアルバムを開いていた。実家から一冊だけ持ってきたアルバムは、もうすっかりホコリをかぶって押入れの奥に眠っていた。
初めて家のお風呂に入った時の写真、七五三の時の写真、小学校入学の写真、卒業の写真……。
モノクロ写真からは、ミドリの懐かしい思い出の情景が活き活きとした色が付いて蘇ってきた。
海水浴の写真、誕生日の日の写真、小さい頃、父親と一緒にとった写真。父親の笑顔がミドリは好きだった。
最後のページは短大を卒業した後と、結婚前の家族との写真の2枚だけが貼り付けられていた。
自分の人生の時計はここからバラバラになってしまったのだとミドリは胸が締め付けられるような心持がした。
こんな胸の痛みはもう何十年も感じていない気がした。タイガの顔がふっとミドリの脳裏に過ぎった。
さび付いた時計が金属音を立てながら動いているのをミドリは感じた。自分の人生が再び動き出している。
タイガの事を思いながら次のページを捲った。ミドリの目には空白のページに色鮮やかな写真が浮かんでいた。
ミドリの心の中は一人しかいなかった。
翌日、いいともが終わってごきげんようが終わっても、昼ドラが終わってもエコは来なかった。
ドラマの再放送が終わるまで待ったがエコは来なかった。痺れを切らしてタイガが電話をかけるとエコはまたもや泣いていた。
「ふぁぁぁぁん。せんぱぁぁぁい」
「お前、何やってるんだよ。オレとの約束忘れたんじゃないだろうな?」
「違いますっ、お、オレっ、他の事は忘れても、先輩との事は忘れません! うぁぁぁぁん!」
電話の向こうでキーンと言う高音が聞こえて思わずタイガは携帯から耳を遠ざけた。
「何だ何だっ! お前今、どこにいるんだ?」
「あっ、アジトの研究室ですっ」
「はー? 何やってんだよっ!」
「き、昨日のギョウザ食べ過ぎで10個くらいが回路の中に落ちてそれでショートしちゃったんですよぉ……」
再び高い機械音が聞こえてタイガは耳から携帯を離した。
「何やってんだよ。ったく。すぐ治るのか?」
「ダメですー……腰から下が動かなくなっちゃったんですよー……ピリピリするんですよー……うぁぁぁぁん」
「馬鹿! だったら早く連絡しろよっ!」
「先輩ごめんなさぁい。うぁぁぁぁぁぁぁぁん」
ブツンと電話を切るとタイガはソファに携帯を放り投げた。
時間はすっかり昼の3時を過ぎてしまっていた。無駄な時間を過ごしたと舌打ちをしながらタイガは冷蔵庫に向った。
冷えて冷たくなったギョウザのタッパーを抱え、タイガはリビングでコーヒーを飲んでいるグリーンに行った。
「ちょっと出かけてくるからな!」
「あーハイハイ」
目も合わさずに本を読んでいるグリーンに少しイラついたりしたが、タイガはすぐに家を出た。
ミドリの家に向うと思うといつのまにか早足になっていた。あっと言う間に家に付いた。
タイガは、ミドリに会いたかった。いつもとは違う不思議な気持ちがタイガをそうさせていたのだ。
「オーイ、ミドリ! 来たぞー!」
タイガが家にあがると、すぐにキッチンに向ったがミドリは、居なかった。
急に、不安な気がしてタイガは始めてキッチンとそれに繋がっているリビング以外の部屋に行く廊下に向った。
ギシギシと鳴る廊下。どこ側から、別な軋みが聞こえてきて、タイガは立ち止まった。
「タイガくん、いらっしゃい」
廊下の隣の階段から、淡いレモンの香りがして思わずタイガは見上げた。
白い服を来たミドリが一段一段、ゆっくり確かめるように降りてきた。タイガには、ミドリが段に素足を乗せるたび、
その一つ一つが鍵盤の様に綺麗な音を奏でているかのような。そんな風に思えた。
「お洒落してみたの。タイガくんがいつ来ても良いように毎日……と言っても昨日から、だけど」
ミドリは、綺麗だなとタイガは思った。若々しさもそうなのだが、何か違う魅力がミドリの綺麗さを補っていた。
「……どうかな、私、お姉さんぐらいに見えるかな?」
「う、うん」
タイガの目は、ミドリの照れたような長い年月を経て洗練された微笑に吸い込まれていた。
ドキドキするような可愛さではなかった。興奮するようなセクシーさでも無かった。
暖かい毛布がふわっとタイガの頭の上から突然被さってきた様な、そんな感じだった。
「ねぇ、それなぁに?」
長い間、見惚れたまま黙っているタイガをからかう様な口ぶりでミドリはタッパーを指差した。
「あ、こ、これ、ギョウザ、いっぱい作ったから……」
「私に?」
「う、うん。……お、オレからの、ほんの、キモチ……だ、だぞっ!」
押し付けるようにタッパーをミドリに渡してタイガはキッチンに向った。
後からすぐにミドリが入ってきて、すぐに冷蔵庫を開けてラップに包まれた皿を4,5枚机の上に置いた。
「昨日、作っておいたの。ギョウザと一緒に食べようか」
お皿の中には、から揚げや、えびピラフや、ポテトサラダといった食べ物が入っていた。
どれも綺麗に彩られていて、タイガは思わず唾を飲んだ。
「暖めるまでちょっと待ってね。すぐだから」
「お、おう」
レンジの音が部屋に響いていた。タイガは、そんな音が鳴って、暑い夏の空気があって、
麦茶のビンに付いた水滴がビンの表面を滑って、蝉の声が遠くから聞こえて、すりガラスの向こうの白くぼかされた景色があって、ミドリがいる。
そんなこの一瞬一瞬がタイガの心に強く焼き付けられていたのと同時に、何だか懐かしいような嬉しいような気がした。
「さぁ、出来た出来た。ご飯、すぐよそうから」
逆光のミドリと炊飯器。フタを開けたときのふわっとした白い湯気と少しこちらを向いた逆光で真っ黒なミドリ……。
その時、タイガは初めてミドリが好きだなと思った。だが、今までの好きとはどこか違う、深い物であるような気もした。
「タイガくん、どうぞ」
「う、うん。じゃ、いただきまーす」
向かいに座ったミドリはご飯を食べているタイガを相変わらず見ていた。
タイガは、から揚げをほお張るとすぐにピラフを食べた。一日経っていたが十分美味しかった。
エコはえびピラフが大好きだと言っていたからこんなに美味しいのを食べたと知ると悔しがるだろうなと思った。
「どう? 一日経っちゃってるから味が落ちてないか心配なんだけど」
「うん、美味い!」
「……そう。私の料理を、誰かが美味しく食べてくれるって、やっぱり嬉しいね」
ミドリは心の底からそう言っているように笑った。タイガもそういわれて嬉しかった。
「アイツは食べないのか?」
「……アイツって?」
ミドリの顔は一見何も変わっていなかったが、タイガにはミドリの顔に薄っすらと影が出てきたのが解った。
「あの男だよ。やっぱり、ご飯を作ったり食べたりするだろ?」
ミドリは力なく笑って首を振った。タイガにはミドリがそんな顔をするのか意味が解らなかった。
「だ、だって結婚してるんだろ?」
「形だけはね」
「?」
ミドリは、指からそっと銀色の指環を抜いてテーブルの上に置いて、ふっとため息を付いた。

「……結婚指環って、好きな人にタイガくんはどうやってあげたい?」
「むー? よ、良くわかんないな。でも、ロマンチックな場所とか、すげー良い雰囲気でとかかな」
「郵送なの」
タイガはミドリの言っている意味が解らず、箸をおいてまじまじとミドリを見た。
ミドリの表情からは諦観の境地が垣間見えた。もちろん、タイガにしてみればそれは感覚的な印象しかなかった。
「付けとけ、って走り書きのメモと一緒に封筒で送られてきたんだ。コレ」
「な、何でそんな事するんだ? 結婚指輪って高いし、大事な物出し、アイツ、ミドリの事好きじゃないのか?」
「彼、頭が良いの。いわゆるエリートでね。初めだけは優しかったよ」
ミドリは、髪をかきあげながらため息交じりの笑顔を見せた。
タイガの目はミドリの仕草一つ一つに反応して目を反らせられなかった。
「結婚して彼から最初に言われた言葉。身の回りの世話だけしてくれれば良い。時々、家には眠りに帰ってくる」
「…………」
「子供はいらない。お互いの生活には必要以上に干渉しない。僕の妻を演じてくれれば良い」
ミドリの声が震え始めたのを聞くとタイガは込み上げてくる物があった。
「な、何でそんな事言うのに結婚するんだっ! ソイツ頭おかしいぞ!」
ミドリは、何も応えないまま微笑を浮かべて椅子から立ち上がった。
タイガはそれを目で追うと、ミドリはそのまま冷蔵庫を開け、取り出した白い箱をテーブルに置いた。
「だからね。お祝いしようか」
「え?」
ミドリは、引き出しを開けてマッチ箱を取り出すと謎の箱を開けた。
中からはバースデーケーキよりも一回り小さいケーキが入っていた。二人分ぐらいだろう。
「なぁ、何のお祝いだ? 急にさぁ」
ミドリは、何も言わずにケーキに15本のローソクを差すと一個ずつ火をつけた。
タイガは、その様子を見ていることしか出来なかった。赤々とした炎は真夏の中に光っていた。
「我侭言っても良い?」
「?」
「タイガくん、私と、ずっと一緒に、いて欲しいな」
ロウソクの炎がミドリの最後の息と共に大きく揺れた。
タイガは、自分の気持ちがごちゃごちゃと散らばって、でも大雑把には気づいている気持ちを感じていた。
「もし、ね。こんなオバサンの言う事、万が一、聞いてくれるなら……タイガくん、ロウソクを、消して」
「……オレ」
「私、大人すぎるからそれなりの思慮分別はあるつもり。タイガくんにそう言う感情は無くても、
良いし、当たり前だと思ってる。だから、ずっと、良いお友達でいましょ」
タイガは、ミドリがロウソクに向って顔を近づけたのに気づくと、勢いをつけてロウソクを吹き消した。
気が付けば、上にずれたミドリの前髪が元の位置に落ちた。タイガは何故か苦しくて息が荒くなっていた。
「お、オレっ、ミドリの事好きだぞっ」
「……タイガくん」
「飯も美味いし、耳そーじも上手だし、年上だけど綺麗、だしっ。お、オレ、好きだぞっ!」
言い終えた後、急に照れくさくなってタイガは箸でケーキを適当な大きさに取って食べ始めた。
ミドリは、呆然としたようにそんなタイガを見ていたら瞳からポタポタと雫がこぼれ初めた。
「お、オイ、ど、どうしたんだ?」
「ごめんなさい。ごめんなさい……」
「な、泣くなよ。ロウソク全部消しただろ。もう、ロウソクみたいに小さくなって消える心配はないんだぞっ」
箸を口に咥えたままタイガは俯いていた。まだ照れくささが残っていたのもあるし、
どのようにも形容しがたい感情が今にも爆発しそうな気がして堪えるのに精一杯だった。
「ありがとう。タイガくん」
「お……おぅ」
タイガはまた一口ケーキを食べた。とても甘い味がした。
タイガの居ない部屋はミドリには無性に寂しく感じられていた。
だが、それは待ち人が存在する幸福な喪失感であった。
『解ってください。私は、懸命に女から妻になろうとしました、出来れば母にもなりたかった...』
初めてあの人に書いた手紙をそこまで書いたところでミドリは筆を止めた。
一文字一文字が、自分の心をその一枚の無地の便箋に刻んでいるように書かれていた。
その日も、夫は帰ってこなかった。ミドリは僅かな気持ちを振り払って封筒に便箋を入れ、もう一枚別の紙を入れた。
大事な人の顔が思い出された。幼少の頃に見たかすかな幻の瞳からミドリは初めて目を逸らした。
机の上に突っ伏してミドリは泣いた。
「大丈夫か?」
『ハイ、なんとか大丈夫です。先輩、ありがとうございまーす』
「おぅ。早く治せよ。機械だからすぐなんだからな」
ミドリの家まで歩きながら、タイガはエコに電話をかけた。
エコは無事に調整も終わり、現在は様子見との事だった。じっとしたままらしく、つまらなそうな声をしていた。
『タイガ先輩、今どこですか。何だか賑やかですねぇ』
「今、ミドリの家に行ってんだ。お前、早く治せよ。ミドリのえびピラフ美味かったんだぞ」
『えー、ホントですか? 良いなぁ。羨ましいなぁ。 今度持って帰ってきてくださいねー』
タイガがミドリの家の前の角を曲がると、ミドリが家の前に立っていたのが目に飛び込んできた。
「ま、また今度な。 じゃぁもう切るからな」
携帯を切ると、タイガはミドリの側に走り寄った。ミドリは普段着を着て小さな手持ちカバンを両手に持っていた。
タイガが近づくとフッと笑って小さく手を振った。
「どうしたんだ? どっか行くのか?」
「ううん。タイガくんと一緒にブラブラしてみたいと思ったから。たまには外でご飯とか、ね」
「じゃぁ、オレがエスコートしてやるぞ! オレ、そう言うのはうまいんだ!」
嬉しそうにミドリは笑って頷いた。タイガは優しくミドリの手を引いて歩き出した。
ミドリに行きたいところを聞いても任せると言われたのでタイガの経験上で評判の良かった場所を選んだ。
海の見える丘や、綺麗な木漏れ日が溢れている公園の奥や、ハトの集まる神社等々……。
年上女性が好みそうな綺麗な場所なんて解らなかったが、ミドリは喜んでくれた。タイガも嬉しかった。
だが、そんな場所も限られ初め、日も暮れ始めタイガはただ闇雲に歩くしかなかった。
「あ、ここが。オレの知り合いの奴の会社。変な奴なんだー。生ゴミ食べるんだぜ」
「そう。タイガくんは顔が広くて良いね」
ホランの会社の側を通りがかった時、正面の花屋を見てミドリが足を止めたのにタイガは気づいた。
花屋の店先には旬の花が並んでおり、夏らしく小さなヒマワリのプランターも置いてあって華やかだった。
「花、欲しいのか?」
「ううん。綺麗だなって思って見てただけ」
「オレ、買ってやるぞ!」
ミドリの意見を聞かずにタイガは財布を取り出したが、財布の中には5円玉だけが残っていた。
花屋に向って踏み出した一歩を元の位置に戻してタイガはポリポリと頬を書いた。
「にゃはーw オレ、金なかった」
「ホントに良いのに」
「じゃぁ、今度買ってやるぞ。一本だけしか買えないかもだけど。ミドリに、似合うのにする」
照れくさそうにそう言うとミドリは頷いた。タイガはチラっと目に入った赤い花にしようと思った。
そして、タイガはまた手を引いて歩き出した。視線の遠くに赤い夕陽がアスファルト達の中へと沈んでいっている。
「……どこかで休んでいかない?」
ミドリが裏路地のホテル街でそんな事を言い出したのでタイガは戸惑ってしまった。
息を飲むとなんだか自分を飲み込んだように感じられて気持ち悪かった。しかし、タイガはミドリの気持ちがよく解っていた。
「お、オレ、良い所知ってる。そこ行こう」
タイガは以前に行った事のあるラブホテルに向って歩き出した。いわゆるHがしたい訳では無かった。
もちろん、それくらい好きではある。だが、タイガは一緒にいたいとだけを考えていた。不思議だった。
慣れない手つきでホテルに入る準備をし終えたタイガを見ながらミドリは自分を侮蔑しそうになった。
何故、こんな所に連れて来る様な事を言ってしまったのか。そこまでして自分は何を急いでいるのか。
「あ、55番だ。良い事あるかもな」
ニッコリと微笑みかけてきたタイガに一時的には救われたがそれだけでミドリの理性は全てを調整できなかった。
ただ、自分の中の呪縛から逃れようと自分の心の一部分が働きかけて妙な焦燥感を感じさせていた。
部屋に入ると内装は白と薄い桃色で統一されたダブルベッドのあるシンプルな部屋だった。
タイガは、ベッドに背中から飛び込んで大きなアクビをした。牙がキラリと光った。
「なぁ、どうしてさ、アイツとさ、別れようとかさ、思わなかったんだ?」
天井を見つめたままタイガはそう言った。ミドリは寝転んだタイガの側に腰掛けた。
タイガの動きに呼応して、シーツがかすかに上下していたのが感じられた。
「笑った時の眼が好きなの」
「アイツ笑うのか?」
「一度だけ。でも、私にとって、大事な……」
そこまで言いかけてミドリはふと言葉を躊躇った。
「……何でもない。こっちの話」
「ふぅん」
ミドリはタイガの足の方へ90度向きを変えてバタンとベッドの上に横になった。
タイガの伸ばした腕が首の後ろに来ていて、温かさを感じた。
「……ホントに、何であんな最低な人の側で15年いられたんだろうね」
ミドリは不思議と涙が息になって消えていくような不思議な感覚に陥った。
もう、代用による悲しみは無いのだと肉体がようやく理解した合図だとミドリは思った
「オレが代わりになってやるぞ」
「……ありがとう」
ミドリはタイガの方に寝返った。タイガも同じようにこちらを向いていた。
ハッと目を見開いたタイガの顔はミドリにとって大切な物のように思えた。
ミドリはタイガの頭を抱えてゆっくりを撫でた。タイガはミドリの背中に手を廻していた。
「また、あの話聞きたい」
くぐもったタイガの声が聞こえるとミドリはポン、ポン、と一定の感覚で頭を軽く叩いてウサギの話をした。
熱くなった胸元は、タイガの掛かり続けた息のせいだったのだろうか。ギュッと抱きしめたままタイガは息を吐き続けていた。
ミドリは、タイガの頭を離した。タイガは寂しげな顔でミドリを見つめていた。
その表情がミドリには愛おしかった。初めて一から自分が好意を抱けた他人だった。
初めて自分を必要としてくれている他人だった。可愛い、他人だった。
「タイガくん……」
唇がタイガと触れた時、タイガはぎこちない笑顔を見せた。
すぐさま、ミドリはタイガを抱きしめた。肩にかけられたタイガの手の小ささが脆く感じられた。
「ミドリ……」
「愛、してるの。 タイガくん、ずっと……」
言葉は息に変わっていた。タイガのなだらかな毛並みが指に絡んだ。
決壊したダムのような激しい流れに押されているかのようにミドリはタイガを求め続けていた。
タイガの吐き続ける息は弧を描いてミドリの横髪を鈴の様に揺らした。
だが、ミドリはタイガの体が人形の様に硬くなっていったのに気づくまでは遅くなかった。
タイガはあの寂しげな表情を浮かべたまま、ミドリを見ていた。
ミドリの心はタイガの体に飛び込んでいった。タイガに全てをさらけ出した。
だが、タイガの体は堅い芯が埋め込まれているかのように堅く重い物だった。温もりは感じられなかった。
ミドリはタイガにすがるように優しく撫でた。しかし、タイガは弱弱しかった。
そして、哀しげな瞳を、初めて見せる瞳を、ミドリ自身がどこかで見た覚えのある瞳がそこにあった。
「どうして……」
タイガはミドリから目を逸らして、ミドリの具現化した愛の形を拒否するかのように俯いていた。
「……お、オレ、ミドリの事……好きだ」
タイガはうっすらと涙を貯めた瞳でミドリを見た。小さな子供の様に震える声で精一杯声をだしていた。
そのタイガの姿と声を感じたとき、ミドリはようやく理解した。
ミドリは布団から起き上がった。、哀しげなタイガの瞳はなおもミドリを見つめ続けていた。涙が溢れて止まらなかった。
タイガは私の事を、私の事を愛していると言ったのは……。体が動かなかったのは……。タイガの中にあった愛は……。
タイガはじっと横になったままミドリを見ていた。堪えきれず、ミドリは顔を両手で押さえた。
嗚咽は、そんな頼りない隙間の中に留めておくには多すぎた。頭の中が後悔と謝罪の気持ちでいっぱいになった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……タイガくん……私、貴方に……」
「ミドリ、お、オレ……ホントに、ミドリの事、好きなんだ……ホントなんだ……」
搾り出したタイガの声に、ミドリは謝り続ける事しかできなかった。
優しい、一生懸命なタイガの言葉は真実を知ったミドリには辛すぎた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
ミドリは、部屋を飛び出した。自分を愛している彼に自分はとてつもない事をしてしまったのだと。何もかもから逃げ出したかった。
あの哀しげな瞳を決して自分は忘れる事が出来ないのだろうとミドリは思った。
アスファルトに溶けていく夕闇に飛び込んだミドリは、もう二度とその姿を現さなかった。
哀しみだけを街の夕焼けに漂わせながら──。
売家と書かれた看板が貼り付けられたミドリの家の前にエコとタイガはいた。
辺りは朝からの悪天候で薄暗く、冷たい小雨が降り続いていたのを一本の頼りないビニール傘だけがかろうじて守っていた。
エコは、少しだけ首を伸ばして人気のない通りを見つめて、元気の無い隣の先輩に声をかけた
「せんぱぁい……誰も来ませんね」
タイガは、冷たい塀にもたれかかったまま、雨の雫がこぼれる一輪のカーネーションを見つめていた。
エコは何も聞かずタイガの側で黙ったまま、タイガの顔を見た。自分もを小さい時にこんな顔をしていた時があった様な気がした。
しかし、それが何だったのか、エコには思い出せなかった。
「タイガ先輩……」
タイガは黙り込んでいた。紺色で、雨色の風景がこの世界にエコとタイガしかいない様な気分にさせていた。
寂しさがエコの中にも流れ込んできた。涙が出そうになった。タイガは俯いたままカーネーションを見ていた。
「先輩、もう暗くなってきましたよ。帰りましょう」
「……もうちょっとだけ待つ……待つんだ」
一粒の大きな雫がカーネーションの花びらの上ではじけるのを見ると、
エコにはタイガの横顔が、一人ぼっちの小さな幼子のように見えた。