第100話

『そして僕らは未来へ (2)』

(挿絵:パープル隊員)

「一個、教えてあげるよ。僕の知ってるエコもね。のほほーんとしてて、よくバカしちゃうんだよ」
「ふーん」

レッドの嫌味を嫌味と思ってないようで、めんどくさそうにエコは答えた。
縄で縛られ、タイムスティックも取り上げられた4人は、こうして真っ赤な絨毯の敷き詰められた玉座の前に正座させられていた。
まさかこの国で王制が敷かれているのか。と思ったが、どうやらそうではないようだ。床も何だかペコペコするし、
王座の煌びやかさでなかなか気付きにくいが、奥の壁はハリボテで、絵具の様な物で急いで描かれたものらしい。と、よく見れば稚拙な箇所があちこち見受けられる。

「フン、お前達か。このオレの大事な竹林を荒らした奴は」

ビシッと整列したオオカミ達の間を通って、聞き覚えのある声が聞こえてきた。タイガみたいだと思って見てみたが、
黄色と黒の縞模様どころか、白と黒。と言っても、ホランではない。黒い猫耳に、黒いおめめ。現れたのは目付きの悪いパンダだった。
上着のチャイナ服を見ていると、以前、香港で出会ったタンタンに似ているような気もするが、やっぱり違う。

「何だよ、ブチ猫! あれくらいのことで捕まえんなよ!」

パンダが現れるなり、暴言を吐くエコ。それだけで済めばよかったものの、

「ちっがああああああああああああああああう!」

パンダの彼は全身の毛を逆立てながら歯をむき出しにして怒鳴った。
周りに並んだオオカミたちも、あまりもの恐怖に腰が引けている。なんとなくこの風景を見た事があるような気がするなぁとレッドは思った。

「オレは猫じゃない! 偉大なるジャイアントパンダ、オオカミ帝国のパンガ様だぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

今にも、暴れだしそうなパンガをなだめるオオカミ達だったが、バッタバッタと怒りにまかせて投げ出され、
傷だらけのオオカミたちの怒りは、当然レッドたちに向けられる。

「オイ、お前達はなんて事を言うんだ!」
「パンガ様は、猫とお間違えになられるのが一番嫌いなんだぞ!」

レッドは、ようやく記憶とこのパンガの件が一致する話を思い出した。
だいぶ前、レッドとタイガの関係が云々だった頃、オオカミに聞いたことがある。
当初は、オオカミの遺伝子を入れるはずが、不足していたので、虎の遺伝子を入れようとした所、
隣にあったパンダの遺伝子を誤って入れそうになったことがあると言うことだ。

「あぁ、つまり、君はやっぱりタイガなんだね!」

思わず納得して口に出してしまうとオオカミからレッドはポカンと殴られた。
はずみで玉座に続く階段の下に転がり出ると、辺りは途端に静かになった。

「……シーン」

わざわざ口に出して無音状態を伝えるエコ。しかし、誰もその事には突っ込まず、彼はつまらなさそうな顔をする。
それもそのはずで、例のタイガ、もといパンガが、じっとレッドの事を見つめているのである。何かを見定めるような目でキッと睨みつけていと、

「……早くそいつらを牢屋にぶち込め!」
「ハッ!」

そうパンガに命令されるなり、これ以上、機嫌を損ねさせないようにするため、オオカミもやっぱりテキパキと動く。
テオとルベウスは大人しく捕まり、エコも多少暴れていたが何度も殴られてタンコブを作りながら連れて行かれる。
レッドもここはやはり大人しくするのが得策だと思った矢先、

「待て、その帽子を被ったヤツは置いておけ」
「え、しかし……」
「オレが良いと言ってるんだ!」

オオカミが慌ててレッドの縄を解くと、パンガは駆け足で階段を降りてまじまじとレッドの顔を見つめた。
香水をつけているのか、顔を近づけている彼からは柑橘系の甘い香りが漂っていた。

「名前を言え」
「れ、レッドです」
「パンダは好きか」
「え、まぁ、可愛いし、好きですけど」

レッドがおろおろしながら答えていると、ふとパンガの顔が赤くなってきたのに気付いた。
アレ、何か、嫌な予感が……。

「……オレの好みだ」
「えぇっ!?」
「決めた。オレと結婚しろ」
「いやいやいや、僕、男ですけども!」
「だから良いんだ」
「いやいや、男同士じゃ結婚できませんよ? ハハハ」
「関係ない。この国はオレの支配下。オレが法律だ」

レッドは、真剣なパンガの顔を見て全て理解した。そうだ。パラレルワールドだもの。
タイガがこっちの世界でアレでも不思議じゃない。現にエコがかなり不良めいているのを見ているのだから。

「仕方が無いんだ! ボルフ様と真逆にしようとした結果、こんな事に……!」
「ボルフ様が、ボルフ様がなぁ、あんな女と逃避行さえしなければなぁ……!」
「せっかく、日本を支配することが出来てもなぁ……」

背後でオオカミ達の嘆きの声がかすかに聞こえてきた。やっぱり!と思った瞬間、突然レッドの体にパンガが抱きついてきた。
あぁ、グリーンの気持ちはこんな感じなんだなぁ、と妙に冷静かつ客観的に事態を把握している自分が不思議だった。

「レッド、今からお前はオレの伴侶だぞ。良いな。判ったな!」

赤い顔でさすがジャイアントパンダの遺伝子があるだけあって力強く抱きしめてくるパンガ。
なんだか彼は全体的にまるっこくふわふわとした感触も手伝い大福に抱擁しているようで、レッドも感触がよかったりして複雑な心境だ。

しかし、これも怪我の功名。グリーンとホランの関係を見ていて思っていたことだが、
このパンガも自分の言う事なら何でも聞くはず。上手く立ち回って、タイムスティックを取り戻し、エコ達を救出しなければ!
でなければ、パンダに征服された日本で、一生を終えなくてはならないのだから。
彼には悪いが、これも正義のためだ……!


……そう、正義のためではあるのだが、まさか、こんな異世界でパンダに笹ダンゴを食べさせられることになるとは、
レッドどころか、他の隊員だって思わなかっただろう。レッドはパンガに連れられて玉座に座らされ、笹ダンゴを食べさせられていた。

「美味いか? 美味いだろ?」
「えぇと、まぁ、おいしい…です」
「そうだろそうだろ!」

異世界のパンダ化タイガこと、パンガは頬を赤らめながら持っている竹串をまた別の笹ダンゴに突き刺す。
さっきから、手を挙げるのも許してもらえない異様な堅苦しさのあるこの状況。
オオカミやパンガの話を総合すると、この世界のオオカミ軍団は見事に日本征服を達成し、オオカミ帝国なる物を築き上げたと言う。
そして、王の座にパンガが収まり、かつての国民は特別区域で彼の豪勢な生活のために細々と生活しているそうだ。

「この笹がまた絶品なんだ。城の周りにある物は全部この笹にした。レッドも食え!」
「いや、僕は遠慮しときます…」
「そうか? 美味いのに…」

むしゃむしゃと残った笹を食べながら、パンガはニパッと笑顔をレッドに向ける。
レッドも苦笑いで返したが、このままどうすれば良いのか……

「ねぇ、パンガ…さん」
「パンガで良い。レッドはオレを呼び捨てにして良いぞ。王が許可するからな!」
「じゃぁ、パンガ。一緒に居た三人を開放して欲しいんだけど」
「ん。まぁ、別にいいぞ」
「ホント!」
「あぁ、レッドの頼みなら何でも聞いてやる」

何だ、案外話せる男じゃないか。とレッドはホッと胸をなでおろしたが、
そんな話せる男の目がキラリと光ったのを見て、嫌な予感が再び胸をかすめた。

「その前にオレとHしろ」

来た。来たよ。レッドは無理やり作った笑顔の裏で、そう思った。
ホランだったらこの辺は確実にボカすのに、彼は元から相手にストレートに打ち出すのだった。

「…ぼ、僕。まだそこまでは、さすがに……ねぇ?」
「オレが手ほどきしてやる。AV見て研究したからな」

そう言えばパンダに教育目的としてAVを見せるなんて事をトリビアの泉でやってたなあ…なんてどうでも事を思い出す。
パンガの目はギラギラしていた。タイガも時々女子にこんな目を向けていたっけ。

「…ねぇ、パンガ。それ以外でなんかない?」
「無い!」
「…ちょっと、ホラ、まだお互いまだ合って1時間も経ってないじゃない」
「だから何だ」
「そうだよ、僕らもっとお互いを知り合う必要があるよ! うん、知り合ってこそ次のステップに進もうよ」
「……」

パンガはしばし考えているようだった。これ以上しつこくすれば嫌われるかも。と妥協しようとしているのか、
どうすれば早くHさせてもらえるか、無理やりやっちゃうかなんて物騒な事を考えているのか、表情から心中は読めなかった。

「ぼ、僕、パンガのこともっと知りたいな?」

ダメ押しで、甘えた風に言いながら彼の頬をツンと突く。
すると、険しい顔つきだったパンガの表情が少し緩み、満更でもない笑みを浮かべた。

「わかった。じゃぁ、知り合ってからHするぞ。オレもレッドを知りたいからな!」
「ありがとうパンガ。わかってくれて」
「当然だ。オレは王、お前はその伴侶なんだからな」
「あはは…、じゃぁ、先にパンガから質問して良いよ」

レッドは、なるべくパンガの事を聞きだして、最悪の展開を迎えないように三人を救出、
そしてこの世界から脱出して家に帰る。パンガの一言からこの壮大な計画の幕は切って落とされたのであった!

「レッドは当然、受けだよな?」

……早くなんとかしなければ。レッドは硬く決心した。










「ったくよー……ライガのヤロー。エラソーに……」

タイムホール内をふわふわ漂いながら、ブランの班はレーダーが反応するのを待っていた。
その度にブランからは、ライガの愚痴がポロポロと後方の隊員へ零れてくる。
さすがに、零れてくる愚痴を避けるばかりでは女子たちも面白くないので、

「ねー、ブランくん。どぉ?」
「うーん。まだ」

と、いったやり取りが定期的に行われるの。女子たちは暇で暇で仕方がなかった。
次第にシチュエーションを完全に忘れてしまい、無駄話に花を咲かせることになる。

「ねぇ、なんかシェンナ最近、太ってきてない?」
「ガリガリですー」
「…先月より1.2キロ太ってるわね」
「へぇ。クリーム、ちゃんと測定してあげてるんだー」
「クリームは全然体重が変わらないですー。ロボットみたいですー」
「自己管理が出来てるって言いなさい」
「スリーサイズとかはどうなってんのー?」

女子達の話がパッタリと止まり、皆は突然に入ってきたライガのスケベな顔を見つめた。
色は完全にホワイトタイガー、ホランそのものだが、あのスケベな事を考えている少々赤みがかったヘラヘラ顔はタイガを彷彿とさせる。

「あなたはレーダーをちゃんと見ててください」

トン、とイエローがブランの体を押すと、まるで宇宙船の中のようにブランの体がゆっくりと後方へ下がる。
そのまま彼は空中で2回ほど後転し、つまらなさそうをしながら女子達の先頭を漂う。

「オレもみんなとお話したいよー!」

ジタバタしても、女子たちは無視するのみ。同類キャラのタイガで既に扱いは慣れているのだった。

「ホラホラ、ちゃんと見てないと見逃しますよー」
「大丈夫だよ! もう反応してるもん。だからオレもそっち行く!」
「ダメですってば……って、反応してるんじゃないですか!」

イエローはすぐさまブランの方へと飛んで行き、レーダーが激しく反応しているのを確認した。
ブランはアンテナを左右に振りながら、反応する場所を確かめると、

「ここだ。みんな、ちゃんと付いてきてねー!」

と言うなりブランの前に眩い光が出現し、隊員たちもろとも飲み込んだ──。
一瞬の静寂。しばらくすると耳に音楽が聞こえてきた。ピアノだと言うことはすぐわかった。だが、聞いたことのない曲だ。
響いている。大会場だ。しかし、観客は誰もいない。ステージがほのかに照らされている。一人のピアニストが曲を弾いているのだ。

「もう着いてるよ」

ブランの声で状況をすっかり忘れていた女子隊員たちはここがパラレルワールドだと言うことを理解した。
しかし、もっと突飛な世界を想像していたためか、思ったより各々の中での感動は薄かった。

「ダメだっ!!!」

そろそろここを去ろうとした時、突然ピアニストが頭を抱えながらステージの上に倒れた。

「だ、大丈夫ですか!」

慌てて隊員達が駆け寄ると、そのピアニストの少年は錯乱しているのか首を振りながら「ダメだダメだ!」と呟き続けている。
イエローがすぐさまポケットから注射器を取り出し何かの液体を注入する。「精神安定剤です」とさらっと言った。

「あっ、どっかで見た顔ですー」

狂ったようにうめき続ける少年の顔にシェンナはそう言っておもいっきり指を指した。
「人に指をささないの」と言うクリームに手の甲をペチンと叩かれてもまだ指をさす。

「あれ、でも本当。どこかで見た顔だ」

ホワイトは呻きながら首を振り回す少年の頬を両手でぐっと押さえた。抑え方が強すぎたのか、いい音がした。

挿絵

少々、顔が崩れてしまったが、これでよく顔を見る事が出来る。目は大きめ、少し童顔。色は緑色……グリーンにそっくりだった。

「あっ、グリーンだ!」
「ホント、グリーンそっくり」

ずっと押さえつけられてグリーンのそっくりさんの顔はどんどん崩れていく。
しかし、そんな酷い顔になっても女子隊員達は次々にそんな彼の顔を眺めながらパラレルワールドにいることを実感していた。

「やめてくださいっ!」

とうとう、そう叫んでグリーンそっくりの少年はホワイトの手から離れ、立ち上がった。
まともな顔に戻ってみてもやっぱりグリーンそっくりだ。またも女子達はキャーキャーいいながらグリーンを見物する。

「なんなんですか、あなた方はっ! いきなり、失礼な!」
「そんな言い方は失礼ですよ。突然、倒れたあなたを介抱したんですからね」
「ム……」

グリーンそっくりの少年はバツの悪そうな顔をした。

「また……いつもの発作が起こってしまったんですね……申し訳ない!」
「何やら事情がありそうですね。よかったらお話を聞かせてください」

こういう展開ではお決まりのセリフをイエローは言った。展開どおりに行けば相手が名乗り出すはずなのだ。
しかし、さすがにパラレルワールドのせいかは判らないが、グリーンのそっくりさんは「見知らぬ人間のクセにいきなり何を言い出すの」と言いたげに顔をしかめた。

「介抱の礼は言います。しかし、それはプライベートなことのでお答えしません」
「うっ、ガードの固い三十路OLみたいなことを言われてしまった!」
「男はオオカミですー」

シェンナはいつもの感じで突っ込んだのだが、グリーンそっくりの少年は彼女を見るなり目を見開いた。

「シェンナはこっちに来てなさい」
「うわぁっ!」

また余計な事をしないうちにシェンナを引っ込めようとクリームが前に出てくると、彼は尻餅をついた。
二人とも、化物を見た様な反応をしている彼を不愉快そうに見る。

「レディーに失礼ですー」
「私の目が小さいのがそんなに驚きですか」
「いや、そ、そういうわけでは……」

汗をかきながら彼は激しく頭を振る。と、その時ステージ上にカツカツと足音が響いた。

「おやおやおや~ん? そこのマドモアゼルの前で無様な姿を晒しているのはピースくんじゃないのかな?」
「その通りだよー」

物々しい喋り声が聞こえて一同は皆、ステージ袖を見た。そこでもさらに驚くことになるとは思わなかった。
やってきたのはタキシードを着たシェンナと、ツギハギだらけの子供服を来たクリームだった。
服装から考えて恐らくどちらも男性らしい。しかも、男性シェンナは身長が5頭身くらいある。ピンクだろうか、小さな悲鳴が聞こえた。

「コラコラ、ピースくん。マドモアゼルたちが怖がっているじゃないか、さっさとやめたまえ」

ノッポなシェンナのそっくりさんが、コンパスの様にスラリとした足で歩きながら、グリーンのそっくりさんに話しかける。
すると、シェンナのそっくりさんの横にいる貧乏人風の男クリームが「止まれだよー」と後に続いた。
ビックリするほどわかりやすい腰ぎんちゃくキャラだ。

「ボンジュール、マドモアゼル。みっともない物を見せて申し訳ありませんでしたね」
「だよー」

タキシード姿のシェンナと言うだけでも違和感バリバリなのに、5頭身もあって、それが頭を下げている。
胡散臭すぎて、怪しすぎて、気持ち悪くて……。前一列のピンクは完全に怯えていた。ワイングラスでも持たせたら似合いそうだ。

「お嬢さん方、初めまして。ボクはジェンガ。ジェンガ・マリーアントワネット・エッフェル・パリ・ルネサンス・ルーヴル美術館です」
「もう最後の方、建築物ですよね」
「失礼、ついフランス訛りが出てしまったようだ」
「マロンはマロンだよー。ジェンガ様の子分だよー」

ハハハと額を抑えながら笑うジェンガの足元でひょっこりと顔を出したクリームそっくりの少年が顔を出した。

「コラコラ、マロンくん。サーヴァントと言わないか。ハハハ」

物々しい胡散臭さを発揮するジェンガとやらに、ただただ呆然としていると、
向こうも自分そっくりのシェンナに気づいたらしく「Oh」とわざとらしい驚きの声をあげた。

「ママン! ママンじゃないか! いつ日本に来ていたんだい?」
「シェンナ、子持ちじゃないですよー」
「ノン! この顔は我がルーヴル美術館一族の顔だよ」
「シェンナ、茨城育ちですー」
「ふむ、では遠い親戚なのかな……お婆ちゃまは日本人だし」
「ですー」

ジェンガ君とシェンナが向かい合っている姿(ジェンガの方がしゃがんで余計不気味だったりする)は、
"未知との遭遇"とでも題すべき異様な光景だ。クリームが笑いを堪えながら写メールを撮ろうとする。

「あ、ダメだよ。クリームちゃん。そういう残るような物を撮っちゃダメだって」
「一枚だけです。一枚だけ」
「姉ちゃんだよー」

と、カメラの焦点が合おうとしたとき、クリームの足に何やら生暖かい物が抱きついてきた。

「マロンの姉ちゃんだよー」
「なっ、ちょっ、離れなさい」
「だっこして欲しいだよー」
「私は弟はいません。どきなさいコラ。汚い。毛がパリパリしてるじゃない!」

シェンナだけでなく、クリームも未知との遭遇を果たしているその時、再びステージに足音が。
ただでさえ静かな大ホール、ピースもジェンガも隊員達も、すぐさま気付き、やってきた人物を見た。

「あっ!」
「あっ!」
「おっ♪」

最初がピース達、二番目が隊員達、三番目がブランの物。皆、文字にすれば同じような感じだが、
それに込められた感情は別々だった。一番目も二番目も、それなりに好意を抱いている。2番目に至っては驚きだ。

「ピースさん、ジェンガさん、何やら騒がしいようだけど……」

やってきた人物はフリフリのドレスを着たピンクのそっくりさん。顔つきは似ているが、どことなく気品が漂っていた。
ピース君がピンクを見ても何も言わなかったのも判る気がした。オーラだけでも確かに別人と言う感じがする。
ブランはこういうのが好みなのか、尻尾を振りながら鼻の下を伸ばしている。相手側も気付いたのか怪訝な顔だ。

「桃子さん。どうしたのですか、こんな所にいらっしゃって」

長い足のジェンガは、一歩踏み出してすぐさまピンクのそっくりさん……桃子の前に歩み出た。

「お父様から、ジェンガさんたちがここにいらっしゃると聞いてやってきましたの」
「そうでしたか、それはそれは……所で桃子さん……」
「ピースさんもいらしたんですね」

ジェンガの言葉を遮って桃子の言葉はピースの方に向けられた。当の本人は俯きがちに立ち何も答えなかった。

「あの、私……」
「そうだ。桃子さん」

今度はジェンガが桃子の言葉を遮り、その細長い腕で彼女の手をそっと握った。

「せっかくいらしたんですから、ボクの練習を是非とも見ていただきたい」
「え……」
「ジェンガ様のピアノは絶品だよー」
「今度の演奏会ではベートーヴェンの『熱情』をやろうと思っているんです」
「あ、あんな難しい曲を……ですか」
「だからこそ、やりがいがあるのです。そこで、お美しいあなたのご意見を伺いたく……」

ジェンガはそっと桃子の手のひらに口づけをした。ブランが「あぁっ!」と叫ぶ。
その声にかき消されて他の隊員は聞こえなかったが、ピースに一番近かったピンクは彼からも同じような呟きを聞いていた。

「わかりました、ジェンガさん。私でよければ…」
「メルシー、桃子さん。……ピース君、そう言う訳だ。早く順番を変わりたまえ」
「……はい」

ピースは目線を床下から少しも上げないまま、乱暴にスコアを取り、胸に抱え、
小さな声で「失礼します」と、軽く頭を下げながら言うなり、ステージを走り去って行った。

「おかしなギャルソンですねぇ。あの調子で演奏会は大丈夫なのかな。ハハハ、ハハ、ハッハハハ」
「…………」

桃子はピースの去っていった方向を見つめていたが、すぐさまジェンガに背中を押され、ピアノの傍に案内された。
マロンが椅子を持ってくると、それに座る。が、彼女への視線が気にかかっているのか首を少し捻って隊員達を桃子は見た。

「所で、そちらの方々は?」
「あ、オレ、オレね。ブラ……」
「いえ、部外者です。その、失礼します!」

今すぐにでも桃子に飛び掛りそうなブランを取り押さえながら隊員達も小走りでステージを去っていった。
多少、もがいていたがこの辺の対応がバッチリなのは、タイガで鍛えられたお蔭だったりする。

「桃子さん。邪魔者はいなくなったわけですし、初めてもよろしいですか?」
「えっ、あぁ、はい、どうぞ」
「では…debut!」

ジェンガの細長い手が鮮やかに鍵盤を滑る。ベートーヴェン「熱情」、特に第一楽章は非常に指使いが難しい。まさに彼の才能と身体の賜物だった。
桃子は隊員達の去ったステージ袖の方をチラチラと見ていたが、ジェンガの演奏が進むにつれ、諦めたように目を細め、そんな素振りは見せなくなった。










「パルナス♪ パルナス♪ モスクワ~のあじ~♪」

レッドは一人歌っていた。「カラオケが好き」と言う話になったため、
パンガから「是非、レッドの歌声を聴きたい」と言う申し出があった為だ。

「…………」

しかし、当のパンガは玉座の肘掛にトントンと指を鳴らしながら、レッドを眺めていた。
その理由は、現在レッドが歌っている曲が既に31曲目になっているからだった。

「えー、続きまして。サザンオールスターズ、チャコの海岸…」
「もう良い」
「海岸で若い二人が~♪」
「もう良いと言ってるんだ!」

パンガは我慢の限界と言う様子で立ち上がり、階段を下りて来た。

「こ、これがまた良いんだよ。僕の…オブラート?とかが効いてるんだ」
「もう十分だ。オレはレッドの歌を十分聞かせてもらった」
「まだちょっとしか歌ってないよ?」
「良い。これからはいつでも聞けるのだからな」

パンガはゆっくりとレッドの前に歩み寄った。
少々機嫌が悪そうで、釣り目がますます釣り目になっている気がする。

「そ…そう? じゃ、次は僕の何を知りたいかなぁ」
「もう終わりだ」
「へっ…」
「オレはお前の事を十分理解した」

パンガの手がレッドの肩に触れた。レッドは後ずさる。

「いや、でも、僕はまだ、パンガのことを良く知らないし」
「これからよく知れば良い」

パンガはだだっ広い部屋の床の上にレッドを押し倒した。

「早くHしよう。それからすぐに婚礼の儀式だ。そして、その後もHするんだ!」
「ちょっと、ちょっと待って!」
「大丈夫だ。オオカミには誰も入るなと言ってある」
「いや、ゼンゼン大丈夫じゃありません!」

パンガはレッドの抵抗を軽く押さえつけて、ゆっくりと唇を近づけてきた。
レッドは混乱して心の中で「お父さんお母さん僕はお婿に行きます!」と叫んだ。

「オーイ、誰かいるのかー」

と、30秒前にパンガから誰も入らないと言われていたはずの部屋の扉が乱暴に開かれた。
パンガの力が緩み、レッドもふとその扉の方を見ると、顔の赤いシロオオカミが一人の女性の肩に腕を回していた。
レッドには誰なのかよくわからなかったが、その白いオオカミの毛並みに縞模様が入っているのを見てなんとなく予想が付いた。

「……ボルフ! 何勝手に入ってきやがってんだ!」

やっぱりホランか。とレッドが確信した時、パンガは今にも飛び掛りそうな勢いでホランを睨んだ。
しかし、こちらのオオカミのホランもなかなか手馴れたもので、サングラスの奥の目が悠然としている。

「ゴメンよ。汚いものを見せてしまって…今日はやっぱり止めにしよう」
「え…」

ボルフは突然そう言うと女の唇に生々しく口づけた。レッドはそのアダルトな光景に思わず目を逸らす。
何分にも及ぶキスが終わると、ようやくホランは女から顔を離した。

「…また明日電話するよ。bye♪」

女は承知したように頷くと、足早に部屋を出て行った。見た感じ、若い女性だった。
しかし、毛並みの色が黄緑でやっぱりグリーンと関連しているらしい。名前が気になる所だ。

「勝手に入るなといったはずだ!!」

今にも噛付きそうな勢いでパンガはボルフに向かって叫んだ。が、ボルフは無言のまま小指で耳をかく
こっちはパンダで向こうはオオカミ。何だかレッドはますます混乱してくる。

「…どうしても泊まるって聞かないからな。おかげで良い厄介払いが出来たよ。THANKS、パンガ」
「出て行け!!!」
「…OH。ずいぶんな言い方だな、パンガ。オレはキミに礼を言っているんだぞ?」
「貴様の礼などいらない!」

ボルフはフッと笑ってOKOKと呟いた。なんとなくだがこちらのホランの方がスカしている気がする。

「権力に物を言わせて、早く若い男の子をいただきたいわけか。ま、オレには到底理解できないが…」

ゆっくりとボルフは床に倒れているレッドへ歩み寄ると、顔を覗き込むようにしゃがみ、手を伸ばした。

「キミも災難だったね」
「あ…すみません」

レッドはその手を掴み、ゆっくりと立ち上がった。間近で見ると、白虎のようだが、サングラスと良い、
やっぱりホラン…いやボルフは、ホワイトタイガー風なオオカミだった。

「オレの伴侶に触るな!」
「キミはもう帰りなさい。こんなヤツ相手にすることはないよ。Are you ok?」
「触るなぁぁぁぁぁぁ!!!! オレのっ、オレの伴侶に触るなぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

全身の毛を逆立てながらパンガは怒り狂い、喉が裂けんばかりに叫んだ。
こっちの世界のタイガとホランの関係はよほど険悪なのだろうか、レッドもその怒り方に圧倒されてしまった。
それもつかの間。何かが床に叩きつけられる音がしたかと思えば、それはパンガだった。見えなかった。

「……本来ならば、キミにそんな風に言われる覚えはないんだがな」

ボルフは目下のパンガを哀れむような目で見ていた。パンガはパンダでありながら猛獣のような勢いで牙をむき出していた。
が、体が痛むのか、それともボルフに歯向かうことができないのか、何もしない。それを確認すると、

「あぁ…眠い。キミも、もうここには来るな。ここに来ていいのはオレ好みの素敵なレディだけだよ…。Good bye」

アクビをしながらボルフは部屋を出て行った。レッドは自由の身になったものの、どうしたら良いのかオロオロしてしまう。
とりあえず部屋を出よう。そう思い足を一歩踏み出すと、のっそりパンガが起き上がった。苦痛に顔をゆがめ、ギロリとレッドを見る。

「ひゃっ! あ、あの、僕は」
「……もう良い。帰るなら…勝手にしろ」

そう言うなり、パンガは右肩を痛そうに掴みながら、フラフラと奥の通路へと歩いていった。
急に「勝手にしろ」と言われても、レッドはこのまま帰るわけには行かない。
少し忘れかけていたが、レッドがパンダとこんな風にしていたのは、エコたちを解放するためなのだから。

「やっぱり、行くしかないか…」

レッドはパンガの後を追った。奥の通路を進むと中庭に面した長い長い通路があった。中国の王朝のような印象。
中庭には、蓮の葉が浮かんだ綺麗な池が見える。水面に映った月が灯りの代わりだ。

ずっと行くと、直線と池の中央を横切る通路の二手になる。レッドはなんとなく池の方だと思いそちらに向かう。
すると、欄干に持たれて床にぺたんと座り込んでいるパンガの姿をレッドは捉えた。

「あ、あの…パンガ…」

どう声をかけていいものかわからず、探り探り声をかけてみる。
レッドに気付いたパンガは、チラと一瞥しただけでムスッとしたまま地面を見つめている。

「えっと、あの…」
「……軽蔑したか」
「へ?」
「王であるオレが、あんな無様な姿を見せてしまった」
「いや、別に僕は…」

そう言い掛けた時、パンガの目にキラリと光る涙にレッドは気付いた。
声を殺してパンガは一人泣いていたのだ。

「来るな。無様な姿を見せたくない」
「……そんなことないよ。ホラ、泣かないで」

レッドが優しく声をかけると、パンガは涙をいっぱい溜めた目を向けた。

「オレはっ、王だ。こんな姿っ……」
「パンガはパンガじゃない。別に泣いても変じゃないよ」
「……レッド」
「さ、早く機嫌を直してさ。みんなを牢屋から」
「レッドっ!!」

パンガは突然レッドをぎゅうううううと抱きしめたのだった。

「レッド! レッド! やっぱりお前はオレの選んだ伴侶だ! 一生離すもんか!」
「イタイイタイイタイイタイイタイイタイタイ!!!!!!」

良いシーンになるはずが、パンガの包容力は想像以上に強く背骨が折れるかと思うほど強烈だった。
パンガはひとしきりレッドを抱きしめた後、パッと腕を離し、涙をごしごしと拭いてとびきりの笑顔を見せた。

「決めたぞ! すぐに婚礼の儀式を行う! レッド、ありがとう。これからはずっと一緒だ!」
「え…いや、え…?」

パンガはすぐさま手を叩き、

「オオカミ! 今から婚礼の儀式の準備だ! 30分以内に用意しろ! いいな!」

と言うなり辺りからワラワラとオオカミが出現し、レッドとパンガを抱えて走り出した。
まさにオオカミの波に飲まれている。長い長い通路を運ばれながら、レッドは叫んだ

「早くエコたちを解放してよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」













「ん? 何か言ったか?」

薄暗くじめじめとした、地下牢の中でエコは背後に座り込んでいる二人の方を振り返った。
エコとこの二人はこの牢屋に入ってからろくに会話を交わしていない。静か過ぎて変に耳が敏感になっていた。

「何も言ってねえよ」

紫色のテオはぶっきらぼうに答えると、エコはむくれた様に口を突き出した。
ただでさえ、こんな劣悪な環境に置かれているのはヤングにとって嫌悪すべき状況だ。
今、壁に変な虫が這っている。さすがにエコは気が立ってきていた。

「出せー! 出せよコノヤロー!」

とうとう、怒りに任せて鉄格子に捕まる。
揺さぶったり叩いたりしてみるがそれでどうにかなるようでは鉄格子の意味が無い。徒労に終わる。

「何をしてるんだ。黙って座っていろ!」

騒ぎを聞きつけて、水色の猫が駆け込んできた。ぶ厚いレンズの眼鏡をかけていた。
その風貌はBC団の写猫によく似ていたが、当然彼らは写猫とは面識がないので何も思わなかった。

「うるせー! このチビ! オレに命令出来るのはレッドさんだけだ!……ここにいるレッドじゃねぇぞ!」
「いいから座れ。クソガキ」
「ガキにガキ呼ばわりされたくねーぞコラ! てめぇ、どこ中だ! 」
「中学校なんかとっくに卒業してるぞ」
「なんっ!……ですって?」

急にヘタレたエコにヤリの先端が突きつけられる。座れと言う意味だと言うことはすぐ判った。
さすがにワルぶっている彼も武器を突きつけられては大人しく引き下がるしかなかった。

「クソッ、ヤリとかダセェんだよ。時代は拳銃だろ! バーカ!」

よくわからない捨て台詞を吐きながらエコはどかっと石畳の上に腰を下ろした。
黒いチビ猫はしばし様子を見ていたが、2、3分ほどして大人しい事を確認し、奥の方へと歩いていった。

「ケッ、面白くねぇ! 何でオレがこんな目にあってんだよ」
「…………」
「なぁ、お前らだってよー。ずっとここにいる気かよ?」
「…………」

二人は何を喋らずお互いに顔を見ては何かを示しあっているような妙な態度をエコに見せるだけ。
しかし、エコのう脳内フィルターを通せばこの態度は、「どうしようもないお手上げ状態」に見えたらしく、手招きをした。
二人がいつまでも寄ってこないので仕方がなく、エコの方から寄って行き、辺りを注意深く見回し、言った。

「あのさ、オレすっげー良いアイディア思いついたんだけどさ」
「…………」
「だ……脱獄しねぇ?」

エコの表情は、とんでもないことを言い出した人間そのものだった。
だが、二人は「そんなの誰でも思いつくだろ」と言いたげな視線を向ける。

「どうやって」
「なんか、上手いこと作戦立てて、あの見張りとかもバーンって倒すんだよ」
「……まさかそれが良いアイディアとか言うんじゃないだろうな」
「おう。良いアイディアだろ?」

エコが満面の笑みを見せるので、テオは馬鹿馬鹿しくなり、口を開けたまま頬の筋肉をひきつらせた。
隣のルベウスは既に呆れてただでさえ無口なのに、余計物も言えないらしく、俯いたまま小さく首を横に振った。

「何だよ。脱獄するのか! しねーのか!」
「声がデカイ。聞こえるぞ! 黙ってろバカ!」

エコにとっては最高の作戦だったが、本域で怒られると思わず萎縮し、しゅんとその頭を垂れた。

「……お、オレ、来月発売のレッドさんのアルバム、予約してるんだ」
「だからなんだ」
「オレ、新曲聞けずに死ねない」
「……俺もだ」

ルベウスがポツリと呟くと、エコは自分の気持ちを理解してくれた彼に笑顔を向けた。

「だよな! やっぱレッドさんの新曲聴きたいよな!」
「……違う」
「へ?」

突然あっさり否定されて、エコは3分ほど混乱する。が、ルベウスは続けた。

「俺も……ここで死ぬわけにはいかない……俺には……やりたいことがある」
「お、えっと、そう……なのか? あれ? でも、アルバムのこと、じゃないんだよな?」
「もうどうでも良いからさっさと出ようぜ」

テオは苛立つように胸元に手を突っ込んだ。エコは咄嗟に拳銃かと思った。
だが、その手をさっと掴んだのは隣のルベウス。彼は小さく首を振ってテオを見つめた。

「……もっと良い方法があるはずだ」
「…………」
「お、おい。何だよ!」

エコは無駄にファイティングポーズを取りながら、彼らの行動を少しも見逃さないようにしていた。
すると、テオはフッと笑って胸元から手を出し、右のポケットに手を入れると、何の変哲の無いごく普通のジッポーを取り出して見せた。

「じゃ、これ使うか」
「わかった!その中に爆弾が入ってるんだな?」

テオは何も答えず銀色に光るジッポーを牢屋の外へと放り投げた。エコは思わず身をかがめる。
しかし、どれだけ経ってもその投げたジッポーは何の変化も示さない。

「オイ、不発だぞあれ!」
「当たり前だ」
「へ?」
「……黙ってろ」

ルベウスの瞳が鋭くエコを睨みつける。金縛りにでもあったようにエコの体は思わず固まった。
そんなヘタレヤンキー、エコは「は、はい……」と答えることしか出来なかった。

「……作戦はこうだ……耳貸せ」

エコがテオに耳を貸すと、テオは簡潔に作戦の内容を話した。実にシンプルな作戦だ。
少々タイミングが難しいが、エコはやる価値があると踏んですぐさま立ち上がるとグッと拳を握った。

「よっし! やろうぜ。それ」
「当然だ」

テオも立ち上がり、二人は鉄格子の前へと歩み寄る。その後ろにルベウスは立った。
牢屋の前の細い通路の真ん中にさっきのジッポーが転がっている。

「おーい、看守さんよー。ちょっと来てくれよー」
「早く来い! 来いよオラ! 来い!」

通路の奥に向かって叫ぶエコとテオ。静かな通路に二人の声はよく響いた。
そのお蔭で、さっきやってきたメガネ猫が小走りでこちらの方へと向かってくる。

「うるさいぞ、静かにしろ!」
「……そこに落ちてるジッポー取ってくれよ。落としちまったんだよ」
「そうだ。取れ。早く取れよ。すぐだぞ」
「ジッポーだと?」

看守は足元のジッポーに眼をやった。銀色に輝いているのでよく目立った。

「お前らこんな物もってやがったのか。没収だ没収」
「おいおい、そりゃねえだろ」
「拾え! 早く!」
「黙れ。囚人がこんな良い物持ってる事自体生意気なんだよ」

看守はしゃがみ込んでジッポーを手に取ると、天井に備え付けられた薄明かりの電球にかざした。
パッと見なかなか高価そうなのが判ったらしく、彼は笑みを浮かべた。

「こいつぁ上物だな。俺が貰っといてやるからあり難く思えよ」
「そうか……」

看守が立ち上がろうとした瞬間、何者かが両足を掴んだ。
思わず看守は下を向く。足には4本の腕。エコとテオの物だ。

「じゃぁ、ソイツはお前にやるよっ!」

看守の足を4本の腕が思い切り鉄格子の方向へと引き寄せた。
足が鉄格子の間をすり抜けると、オオカミは壁に頭を打ち付けて地面に倒される。
すると、当然、足は二本の棒ではなく途中で繋がっている訳で、良い部分に鉄格子が引っ掛かった。

「いくぞ、せーのっ!」
「いってえええええええええええええ!」

エコとテオは叫ぶ看守の足を引っ張って、急所を攻める攻める。
看守はジッポーを放り出して両手を地面に叩きつけて痛みを分散しようとしている。かなり効いているようだ。

その隙を狙って、背後に待機していたルベウスが横から手を出し、腰の鍵の束に手をかける。
ただただ自分の急所の方が大事な彼の前には、もはや鍵も仕事もどうでも良くなっていたお陰でいとも簡単に取れた。

「取ったぜ」

ルベウスが鍵の束を二人に見せると、ようやく地獄の責め苦は終わりを告げた。
手を離すと、看守の足は鈍い音をたてて石畳の上に放り出された。

「あ…あぁあ……あぁ……」

ぐったりと倒れている看守は泡を吹いてピクピクと痙攣していた。
想像以上に効果が出ているので、エコは思わず自分の股間を押さえた。

「さ、出るぞ……」

ルベウスが牢屋の鍵を外して扉を開けた。通路の方へと開いたので看守の体にガツンと当たった。
外に出た三人は出口に向かって走った。黴臭い匂いが鼻をつく。

「急いで、あのパンダ野郎を倒してレッドを助けないとな」

エコがジャブの真似をすると、テオが呆れたように目を向けた。

「余計なことしなくて良いんだよ。助け出すだけでいいんだ」
「お、そっか」
「戦ったりしたら、その分、時間がかかるだろ……俺らに時間はないんだ」

テオはルベウスの方を見た。彼は何も言わず前を向いて走っていた。

「そ、そうだよな。早くしなきゃ新曲出ちゃうもんな!」
「…………」

前方に、電球で照らされている古い扉が見えた。出口らしい。
しかし、それをエコ達が開く前に向こうから開かれた。

「オイ! どうした!」
「脱獄だ!」

5、6人ほどの別の看守らしきネコたちが扉の前で騒ぎ始めていた。
素手だったら都合がいいのだが……残念ながら皆、ヤリを持っている。

「……どうやら、予定よりも時間がかかるらしいな」

ルベウスが無感情に呟いた。











タイムポリスのライガ刑事とOFFレンたちは、謎の波状の出所を追っていた。
チラと隊員がレーダーを覗いて見ると、波長が生き物の様に上下に激しくなっていた。

「……何かすっごい反応してませんか。新体操のリボンよりぐにゃってますよ」
「今度こそ間違いありません…あそこです!」

ライガは、駅前の人通りをビシッと指差した。多くの人が行きかっている。
このどこかにいるはずだが、いささか駅前とはアバウトすぎて、隊員もどう動けば良いのかわからない。

「ライガさん、もっと具体的にわかんないもんですかね?」
「ちょ、ちょっと待ってください」

駅前では、新商品のドリンクの試飲イベントが行われている他、マクドナルド等のお店も並んでいる。
それらにアンテナを向けながらライガはボタンを操作する。しかし、波線が激しすぎて微妙な変化に気付きにくいといった様子。
そんな時だった。突然、人ごみの中からなんとも言えない怒りを込めた物凄い叫び声がその場を劈いた。

「クソォォォォォォォォォォォォォォォォッ!!!!!」

すぐさま、ただ事ではない事が起こっていることに気付き隊員とライガはその場へと走った。
突然あたりに紙ふぶきが舞い、一瞬の閃光。隊員たちが駆けつけた頃には、既に声の主は居なかった。
周囲を取り巻いていたらしい人々は、突然いなくなった存在に誰も驚かず、「何故立ち止まっていたんだ?」と言う顔をしながら足早に去っていった。

「いない!」
「……反応が弱まりました。やはりさきほどの声がホシに違い…うえっ!」

良い所でライガの口に辺りを舞っていた紙ふぶきが飛び込んだ。

「大丈夫ですか?」
「…ちょっと失礼」

ギタギタに刻まれた紙ふぶきを口から取り出すと、ライガはうっとうしそうに湿った紙切れを見た。
ただの白い紙かと思っていたが何やら文字が書いてある。裏を見てみると模様の様な物も見える。

「……! 皆さん。この紙切れを集めてください!」
「え、結構飛んでっちゃいましたよ?」
「構いません。とにかく集められるだけ集めてください!」

ライガはそういうと足元の紙ふぶきを一つ一つ拾い始めた。
踏まれてアスファルトにペタッとくっついてしまった物まで丁寧に集める。

「結構美味しいのかな。あの紙」
「バカ言ってないで我々も探しましょう」

周囲の目が変な物を見るような目だったことは隊員にも良くわかっていた。
しかし、ライガがあまりにも真剣に紙を拾っているのを目の当たりにすると、
隊員も自然と周囲の目を気にしなくなってきた。いささか、真剣すぎな気もするが。

「…一応あらかた集めてみましたけど。こんなんで良いですか?」

紙切れは黒いアスファルトに白く映えていたため、探すのは難しくは無かった。
隊員達は手の平に作った紙くずの山をライガに見せた。

「上出来です。じゃ、早速ここに……」
「ちょ、ちょっとちょっと!」

ライガは集めた紙切れを道の往来に並べようとして、慌てて隊員が止めに入った。
仕事に熱中するあまり、ここが自分の部屋か何かだと勘違いしてしまっているようだ。

「どうせなら、もっと静かな所でやりましょうよ。あの喫茶店はどうです?」

グリーンは5メートル先にある『CAFE』の看板を指差す。
元々のOFFレンの知っている場所では、あそこはクリーニング屋だった。

「そうですね。ちょっと休憩がてら行きましょうか」

ライガもようやく力が抜けたようで、その表情は穏やかになった。
隊員達も一安心し、皆はいそいそと喫茶店へ向かった。

「てんちょ~コーヒーはいりま~す……」

やる気のないライトブルーそっくりの店員が注文をとっていなくなると、
隊員達は紙切れをざっとテーブルに広げた。細かくてパッと見何が何だかわからない。
そんな紙切れをライガは一つずつ手にとって色の付いた側を上にして並べて行った。

「そんな小さかったらわかんないですよ。ライガさん」
「……わかっています。問題はこの紙に何が書かれているかではなく、この紙切れが何なのかが重要なんですよ」

ライガの動向が細くなり、手の動きも素早くなってきた。よほど集中しているのか、
どことなく声をかけづらいオーラを漂わせている。まるでロボットのようにテキパキとブレない動きだ。

「……やっぱりそうでした」

ライガはニヤリと笑って、紙のパズルの一部分を隊員達に指し示した。
ピースは全てバラバラだが、同じ部分だと思われるマチマチの大きさのピースを代用して、1円玉大の大きさになっている。
最初は一体何なのかわからなかったが、よくよく見ると『4組』の文字が書かれていることがわかった。

「これって……」
「そうです。これでホシの目的、そしてホシが次に現れる場所がわかりました。急ぎましょう!」

ライガはそういうなり、机の上を片付けないまま立ち上がった。
しかし、ちょうどその時コーヒーが運ばれてきたため、ライガは再び椅子に座りなおした。

「これを飲んでから、急ぎましょう!」










ホールを出た隊員達は、目の前に広がる大きな庭のベンチにブランの体を放り投げた。

「いったぁい! 何するんだよー、クリームちゃぁん」
「鼻の下伸びてましたよ」
「やだなぁ、伸びてなんか無いよ。ホラ」

顔を上げて鼻の下を見せるブランだったが、隊員達は誰も取り合おうとはせずに、この場所がどういう所なのかを見極めようとしていた。
市民ホールと書かれているが、見覚えは無い。ノッポのシェンナやピアノ云々の会話と言い、こちらの世界は自分達の世界と似ていながらもかなり異なった世界らしい。

「それにしても、気持ち悪かったねぇ五頭身シェンナ」
「シェンナ複雑な気分ですー」
「ピンクもお姫様みたいだったよね」
「そ、そうかな…」

女子達が話に花を咲かせ始めると、ブランはつまんなそうに口をへの字に曲げる。
せっかく女の子達と一緒に行動できていると言うのに……。何だか自分の存在感がアピールできてない気がする。
ここは、犯人をカッコよく捕まえなければ。なんてことを考えながら何の気なしにレーダーを見る。……物凄い反応だった。

「っ!?」

ブランが突然レーダーを両手で握り締めながら立ち上がったので女子達も何事かと振り向いた。
レーダーの物凄い反応を見せながら、ブランは言葉にならない声を上げてそれを指差した。

「ち、ちかくに犯人…!」
「シッ!」

ブランと女子達はしゃがみ込み、辺りを窺う。広い庭だが特に誰かがいるわけでもない。
あちこちに点在している生垣の中に隠れているのか、一同は恐る恐る、ブランを先頭に歩みを進める。

「ど、どう?ブランくん」
「…だ、だんだん近くなってきている…この向こう…っぽい」

ブランの指差すほうを見ると、そこにはさっきブランが座ってあった物と同じようなベンチが置かれていた。
そこには、スコアを抱えたまま俯いているピース、そして迷彩服を着た見知らぬ男がその前に立って何か話しかけている。
目深にベージュ色のバンダナを巻いており、横側からではその顔はよく見えないが、黒地の猫だと言うことはわかる。

「ブランくん……あいつ?」
「うん」

ブランが恐る恐るレーダーを男の方に向けるとレーダーはより強い反応を見せた。間違いなく彼が捕まえるべきホシだ。

「じゃ、オレ、いち、にの、さんで行くよ?」
「3、2、1、GOの方が良くない?」
「じゃ、3,2、1、GOにしよっかな」
「レディーゴーの方がカッコイイですー」
「じゃ、それにしよっか?」
「……そんな事にこだわってもしかたないでしょう。最初ので良いですよ」

イエローから突っ込みが入ると、ブランは「判った」と言い、タイムスティックを銃の形へと変形させた。
女子隊員達に下がるように合図すると、顔の横で銃を構えた。

「いち……」

男はポンとピースの肩を叩くと、ピースは立ち上がりどこかへ走り去っていく。

「にの……」

男はしばらく彼を見送ると背を向けて歩き始めた。

「さん!」
「見つけたぞテメェ!!」

茂みから飛び出したブランが銃口を向けると、同じくして二人の男が同じ対象物に銃口を向けながら飛び出してきた。
男は突然前後に飛び出した三人の刑事を確認すると、バンダナを深く被り、身構えた。が、そんなホシよりも銃を持った謎の男はブランに気づいて、あっと声をあげた。

「お前はパラ二課のブラ男! ヤッパリ居やがったな!」
「そー言うナズナ! 何でテメェがいるんだよ!」

女子達は恐る恐る顔を出してブランたちの様子を窺った。どうもブランと相手側は同僚らしい。
ブランと同じバッチを付けていることからもそれが判る。だが、向こうの方がブランの物よりも大きめだ。

「あの事件追ってたらたまたまここに反応があったんだよ。ブラ男こそ何勝手に捜査してんだよコラ」
「テメェには関係ねーだろコラ!」
「さっきもライガ警部補と会ったばかりだ。ヤツといい、お前といい、勝手なことしてんじゃねえ!」
「さっさと俺たちに捕まえさせろ。ブラ男」
「オレの名前はブランだっつってんだろうが!」
「テメェなんかブラ男で十分だ。いっつも署内をブラブラしてるからブラ男だ。文句あっか!」
「んだと、このヤロー!」
「逮捕した後で、お前の相手してやるから少し黙ってろよ」
「オレが逮捕するんだよ!」
「あのぉー……お二人とも」

ブラント言い争っている同僚の後ろの若手刑事イマチがこの場を取り繕うに前に出てくる。

「なんだよ!」
「犯人、逃げちゃいましたけど。タイムスティックで」
「何!?」

二人はやっとお互いから目を離し、銃口の先を確認した。どちらも銃口をお互いに向けている。

「何やってんだ! 言えよさっさと!」
「センパイが合図するまで何もするなっていったじゃないッスか」
「融通利かねえにもほどがあるんだよ。バカ!」

ナズナは恐らく嫌味を言っているであろう、パクパクと口を動かしながら後輩刑事に顔面を近づけていた。
しかし、怒りたいのは彼だけではなく、ブランも当然怒りは爆発寸前だった。

「お前のせいだぞ! せっかくオレが見つけたのに!」
「フン。てめぇには捜査権限は無いはずだ。パラ二課のくせにでしゃばるんじゃねえ」
「ボスからOK貰ってるぜ?」
「部長がなんと言おうが、それはあくまで緊急処置だ。俺ら二人が無事だったからもう良いんだよ。とっとと帰れ!」
「フフフ……まぁ、そうかもしれねーけどな。実はもっと凄い人から許可を貰ってるからな~?」
「おいブラ男、人にウソを信じさせたいならリアリティーっつーもんが必要なのはわかってるよな?」
「それくらいわかってるよ。バカ」

ブランは、舌打ちをしてバッチを取り外すとそれをナズナに向かって放り投げた。
相手はバッチを片手でキャッチすると、わざとらしく顔に近づけて確認し始めた。

「フン、別に変わりねーぞ」
「裏を見てみろよ」
「裏だぁ~?」

バッチを裏返すと、それを見るなりナズナの表情が驚きのものに変わった。
ブラン、バッチ、ブラン、バッチ、ブラン……何度も交互に見比べて、彼は信じられないと言う顔をしていた。

「嘘だろ……」
「マジだ」
「うわっ、警視総監の認め印じゃないッスか!」

後輩刑事がバッチを覗き込んで、大声をあげた。

「フフン♪ どうだ。 すげーだろうが」
「何でパラ二課なんだよ……」
「実力が認められたってことさ」
「フン、実力ねぇ……」

ナズナは、バッチをブランに投げ返すとポケットに手を突っ込んだ。

「ま、警視総監がどういう風の吹き回しでパラ二課なんぞに頼っているのかはわからんが……邪魔だけはするなよ」
「それはこっちのセリフだ!」
「テメェの事件じゃねえよ。俺達の今抱えている事件だよ。バーカ」
「ここ数時間の間に2つの巨大なエネルギー波が確認されたんで、僕らは今その捜査をしてるんです」

後輩が誇らしそうに喋るとその頭を先輩からはたかれた。

「喋ってんじゃねーよ。バカ」
「すみません!」
「……ま、そう言う訳だ。さっきのホシはお前らに任せてやるから、いいな、こっちの邪魔すんじゃねーぞ」
「フン、手伝ってくれって言っても手伝ってやらねーからな!」
「上等だ。バーカ」
「バーカバーカ!」

ブランとナズナはお互いにあっかんべーをして子供の様な言い合いをしていたが、後輩に促され、ナズナの方が先に去っていった。
一人、まだアカンベーを続けているブランの肩をポンと女子達は叩いた。

「ブランくん、あの人何?」
「ん……刑事だよ。同期の。いっつもオレ達に食って掛かってきやがるヤな奴」
「ねぇ、さっきの捜査権限がないとかアレ、どういうこと?」
「警視総監ですー」
「あぁ、あれね……」

ブランは、急に苦い顔を浮かべて頬をかいた。あからさまな"裏がある顔"だった。

「何でもないんだよ」
「絶対ウソですー」
「私達だって知る権利はあるもんねー?」
「おねがーい」

女子達の甘い声がブランの耳をくすぐる。さすがT君で慣れている女子達だった。
ブランは顔を少し赤くしながらいつものヘラヘラ笑いを浮かべる。

「絶対ヒミツだよー?」
「うんうん」
「ホントはオレ達、すっげー優秀なんだけど。でも、いざって時しか動かないんだよ。で、警視総監が捜査してって頼んだから、
オレらがしゃーないなって感じで特別に参加してやってんだ。だから、アイツ嫉妬して、オマケに全然モテねーの」
「へー、パラ二課ってそんな凄い部署なんだ」

何気なく言ったピンクの一言にブランは硬~い笑顔を向けた。

「うーん……まぁ、ね、にゃははw ……他の質問無い?」
「私良いですか?」

クリームがすっと手を挙げた。

「いいよクリームちゃん」
「犯人から話しかけられていたピース君を追わなくていいんですか?」
「…………あっ!」

一瞬の静寂の後、ブランと隊員達は一斉に走り出した。











「か~わ~い~い~ぞぉ~♪」
「あはは、そ、そうかなぁ」

パンガに頬ずりされながら彼と色違いのチャイナ服を着せられたレッドは作り笑いを浮かべていた。
ウェディングドレスを着せられるかと思っていた所、チャイナ服。こんな物を初めて着た訳だが、妙にスースーする。
少しだけウェディングドレスを着る事に好奇心があっただけに良かったのやら良くなかったのやら……。

「可愛い。可愛いぞ。やっぱりオレの見る目は間違いじゃなかったな!」

パンガはさっきからハイテンションでレッドにベタベタとくっついてくる。
外では既に結婚式の準備が進んでいるらしい。曇りガラスのせいで詳しくはわからないが、
オオカミが出入りする時に見えた感じから言うと、万国旗が垂れ下がっており、鼓笛隊の様な集団も見えた。

「笑ってみろ。レッド、笑ってみろよ」
「あ、あぁ、あはは……」
「上出来だ!」

パンガはレッドの頬にちゅっと唇をくっつけた。レッドはどうして良いか判らず、よけい笑顔をひきつらせた。

「あぁ、夢のようだ。運命の相手と出会えただけで、オレは……オレはとても幸せだ」
「そ、そっかぁ」
「婚礼の儀は早めに終わらせて、すぐにHだ。道具をたくさんオオカミに用意させたからな!」
「へ、へぇ……」
「そんな嬉しそうな顔をするな、オレが我慢できなくなってくるだろぉ~♪」

パンガはまたもレッドを抱きしめた。レッドの心は、逃げ出したい気分を通り越し、諦めに近づいていた。
このまま王様になっても良いかなとか、別に死ぬわけじゃないしなぁなどと、この状況を受け入れ始めていた。

「ぱ、パンガ様ぁっ!」

突然、あわただしくオオカミ達が駆け込んできた。皆料理係なのか、エプロンをつけている。

「何だ! 騒々しいぞっ!」
「申し訳ありません。それが、あの」
「早く言えっ! 今、オレはレッドと良い所なんだぞっ!」
「じ、実は、例の囚人どもが脱獄しました」
「うそっ!」

パンガよりも先に、レッドが声をあげた。諦めの気持ちが少しだけ薄れた。

「守衛はどうした!」
「全滅です」
「わっ、すごい!」

レッドは嬉しそうに言ったが、すぐに空気を呼んで口を押さえた。

「それで、今はどうなっている」
「わかりません。恐らく、この城のどこかに潜伏しているものと思われます」
「早く探して殺せっ!!」

パンガは野獣の様な牙をむき出しにして叫んだ。

「ぱ、パンガ! ダメだよ。僕の知り合いなんだから」
「う……」

思わず激高してしまった自分をレッドに見られて動揺したのか、しばしパンガは口をつぐみ、
落ち着いた声でオオカミに命じた。

「……早く見つけて捕えろ。婚礼の儀を邪魔させるようなことがあったらわかってるな」
「はっ!」

オオカミ達が去った後、パンガはレッドの顔を見てフと笑った。

「レッド、悪かった。少しイライラしてたんだ」
「う、うん」
「……幻滅したか?」
「そんなことないよ。気が立ってたんでしょ?」

パンガは先ほどとは打って変わって大人しい態度でレッドを抱きしめた。
今度は優しく抱きしめており、レッドもあまり嫌な気分はしなかった。

「オレの事嫌いにならないでくれ……頼む」
「う、うん……?」

パンガの様子に何だか妙な物を感じつつ、レッドはパンガの背中をポンポンと優しくたたいてあげた。

挿絵










コーヒーを飲み終えたライガたち男子一同は、また違う世界へとやってきていた。
細かく言えば、1ポイントだけ隣の世界にやってきている。なので、ほとんどさっきの世界と変わらない。

「ここで見張っていれば買いに来るってことですか」
「はい……」

喫茶店で判明したあの紙切れの正体、それは隊員達が今いる場所に大いに関係していた。

「ヤツの目的はこの……宝くじです!」

駅前の宝くじ屋をライガは思い切り指差した。が、中で準備しているおばちゃんと目が合い、すぐさま止めた。
恥ずかしそうに意味の無い咳払いをして、ライガはさきほどの切れ端をテープで繋いだ物を皆に見せる。

「私の推理としては、恐らくヤツは宝くじの当たりを予め見ておいて、過去に遡り購入し、大金をせしめるつもりです」
「なんかセコいっすね……」

隊員たちも全く同意見で心の中で頷いた。だが、ライガはキリッと目を輝かせながら、右や左に行ったり来たり……。

「しかし! 先ほどの状況から見て、宝くじは当たらなかったのでしょう。でなければ金のなる木である券を破くはずがありません」
「でも当たりが判ってるのに、何ではずれるの?」
「それです!」

オレンジが素朴な疑問をぶつけると、待ってましたとばかりにライガは人差し指を大げさに向けた。

「当たりが判っているにも関わらず、外れる。あの叫び声からして恐らく同じ事を何度も繰り返しているんでしょう。
それは何故か。それはつまり、ヤツが現れる事で世界が変化しているからなのです」
「なるほど、確かにソイツが買うことによって今後が変わるけですからね」
「運がよければ当たるように変化することもあるでしょうが……その確率はかなり低いでしょう。本来当たるべき人物ではないのですからね」

ライガもだんだん載って来たのか、ますます歩調を速めながら隊員達の前をウロウロし始める。隊員達も思わず困惑。

「要するにここで待っていればヤツの方から現れると、まぁそういう訳でしょう?」
「ざっくり言ってしまえばそういうことですね」

ライガは腕の時計に目をやった。今は朝の7時前。間も無く宝くじ屋が売り出しを始める。

「そろそろ現れる頃でしょう……皆さん、散らばってください」

ライガに促されて隊員達は通行人を装いながら周囲にばらけた。
通勤通学ラッシュのまっただ中の時間帯のおかげで違和感なく溶け込める。まさに張り込みの気分だ。

「……」

ライガは店の側面に隠れて様子を窺っていた。時間が来て、宝くじの売り出しが開始された。
当然ながら朝早いために誰も店には近づかない。レーダーを見るとかすかに反応がある。

「…………」

ライガは、向こうの方から明らかに怪しげな帽子を目深に被った男が歩いてきているのに気付いた。
明らかに彼だけ周りから浮いている。もし、このまままっすぐ宝くじを買いに来たらヤツが犯人だろう。
レーダーを見るとさっきよりも反応が強くなってきた。ライガは確信した。声をかけた時点で捕まえる!

「あの……」

店の前に客が現れ、店員に声をかけた。今だ。
ライガはすぐさま駆け出しその男に向かってタックルした。男はあっと言う間に取り押さえられる。

「捕まえたぞ! 犯人!」
「痛い痛い痛い!」

散らばっていた隊員達もライガのそばに駆けつけると、ライガは男の腕をひねり上げていた。
さすが刑事といったところか。押さえつけられている男は暴れることも出来ない。

「観念しろ!」

ライガは男の帽子をはぎとると、その中から綺麗な銀色の髪がぶわっと溢れた。

「うわぁぁぁーっ!」

真っ先に反応したのはオレンジだった。押さえつけられていたのは、なんとオレンジ。
ライガも犯人像と大きく違うその彼を見て、思わず男から手を離してしまった。

「ちょっとぉ、痛いじゃないのよぉ!」

ただのオレンジだったらまだ良いのだが、こちらのオレンジは厚化粧に加え、まつ毛バシバシ、
さらには絵具のチューブをそのまま塗りつけたような真っ赤な口紅をベッタリとその唇に塗りたくっていた。
どう贔屓目に見てもニューハーフ、もしくは女装趣味の男としか判断出来ないお顔だった。

「オカマさんだー!」
「ちょっとアンタ、アタシがオカマだったら逮捕されるわけぇ~? オカマをバカにすると、ひっぱたくわよ!」

なよなよとした動きでビンタのジェスチャーをするオカマさんのオレンジ。
当の本人はショックが大きすぎるのか、傍のライトブルーの肩に捕まって立つのがやっとのご様子。

「そうじゃない! タイムシップを襲った犯人の一味のくせに!」
「はぁ~? タイムシップぅ~? なにそれぇ」
「シラばっくれるんじゃない!」

ライガは、この一連の大捕物によるギャラリーがいるにもかかわらず立ち上がり、叫んだ。

「タイムポリスの仲間を襲い、タイムスティックを奪い、それを使って宝くじを当てようとしていただろう! あそこで!」

ライガはビシッと言う効果音がよく似合うほど素早く人差し指を売り場の方へ向けた。
すると、そこにももう一人宝くじを買おうとしている男の姿。ライガと彼は目が合った。

「宝くじぃ? アタシは、今日から働くお店の場所を聞こうとしただけだけどぉ~?」
「……え!?」

ライガは、レーダーを取り出し、オカマさんに向けたが何も反応しない。
売り場の前の男に向けると、異常なほどの反応。男はこちらの様子に気付いたのか、宝くじを奪い取るなり走り出した。

「え!? え!?……ま、まてぇーーーーー!!!!」

ライガは後を追った。隊員達は既に真っ白に燃え尽きかけているオレンジを抱えながらその後に続いた。
その場には、オカマさんと囲んでいるギャラリーだけが彼らの背中を見送っていた。

「……結構イイ男だったわねぇ」











一方、ブランたちも男を追いかけるために走っているが、庭を出ればそこは公道。
この世界では休日なのか、家族連れやカップルらしき姿を多く見かけた。

「完全に見失いましたねぇ」
「ブランくんが余計なことをしてるから……」
「えっ、オレぇ!?」
「どう考えてもそうでしょうが」

一同は半ば諦めムードで、既に歩調はゆっくりと旅行客のソレになっていた。
この周辺は高いビルがほとんどなく、歩道には木々や花々が植えられており、緑が多い。
意識も走り去っていったピースを探すことから、周囲の光景を眺める方にシフトしていき、今や物見遊山状態だ。

「みんなぁ、遊びに来たんじゃないんだよー?」
「手がかりは足で探せって言うですー」
「そうだけど……」
「だったら歩くですー」

シェンナは一同のまん前に飛び出てスキップをする。
ブランも彼女には勝てないようで、苦い顔をしてその後姿を見つめた。

「ブランくん、私ちょっと気になったんですけど良いですか」

シェンナに続いてクリームも後方から抜け出し、ブランの横についた。

「ん、何?クリームちゃん」
「犯人のことなんですけど、逮捕の際はどうするんでしょう?」
「え、そりゃぁ普通に身柄を拘束するんだよ」
「普通の世界だったらそうでしょうけど、今はパラレルワールドですよね?」
「それは私も気になってました」

OFFレンの理系派イエローも、ズカズカ目を輝かせながら突然ブランの横についてきた。
二人の女子に突然挟まれ、嬉しさと言うよりも、ブランは妙に落ち着かなかった。

「え、何? どゆこと?」
「その時、その時の分岐点によってパラレルワールドが別れているわけですよね」
「うん……そうだけど」
「と言うことは、犯人を逮捕した時、逮捕されずに逃げ切れた世界も出現しちゃいますよね?
そうなったら今度はそっちの世界の犯人がまた悪さをします。それを捕まえても、また逃げ切る世界が出来ます」
「あぁ……」

ブランは、緊張していた顔を綻ばせ「大丈夫だよ」と言った。

「そういうのもちゃんと考慮してるんだ。タイムポリスは」
「具体的には?」
「あのね、タイムスティックあるでしょ。あれを使って移動してきたヤツがいる世界は、
みんな特殊なバリアって言うのかな、それに囲まれるわけだよ」
「だから?」
「そのバリアに囲まれた世界は、ソイツがいる以上分岐が保留状態になる。タイムスティックを持った犯人は一人だけになる。
もちろん、そこで何かしたら後々の世界に影響は出るけど、大元が一個だけだから処理も楽。そーゆーわけ」
「では……我々のいるこの世界も、ここにいる以上は分岐しないから、犯人を追う我々は今ここにいる一組だけと?」
「そ!」

便利に出来てるなぁ、と感心するようにクリームは手を口元に持っていく。

「だから、犯人さえ捕まえればそれでオッケー。一人しかいないんだからね。
犯人が別な世界にいっちゃえば、今まで保留状態だった分岐が本来の世界用にばーっと出現するけど」
「何々?難しい話?」

後ろの隊員たちもブラン達の会話に混ざろうと集まって来た。
しかし、ブランは別に説明しなくても問題は無いことだし、女の子も退屈だろうと、軽く首を振った。

「ううん。何でもないよ」
「ふーん……」

つまらなそうにホワイトが口をつきだすと、ブランも何とか状況を好転させようと、知恵を絞った。

「あのね。クリームちゃんから質問があったんだよ。ホワイトちゃんも他の子も、オレの事で知りたいことあったら何でも聞いて良いよ。
あ、もちろんHなことも聞いていいからねー♪ むしろ聞いてもらいたいなー♪」

こう言う時は、とにかく相手の事を知る事が大事だし、話題も広がる。女遊び大得意のブランらしい考えだった。
思惑通り、女子達も何か考えるように視線を斜め上にずらしている。

「じゃぁ、ブランくんがタイムポリスの刑事になったキッカケって何?」
「え、いきなりそれ聞いちゃう?」
「だってねぇ、ブランくんみたいな子が刑事になるなんてねー?」
「う~ん……他の質問にしない?」

困ったように頬をかくブランだったが、女子達にとってそういう反応は火に油。

「ダメダメ、絶対答えてよー」
「私も知りたーい!」
「うーん……。一回だけだよ。絶対他のヤツには内緒だよ?」
「OKOK!」
「……やっぱりどうしようかなぁ」
「ダメ、絶対言ってよ!」

女子達の強い押しに根負けしたのか、ブランも渋々話し始めようと口を開けたその時、

「……あっ!」

前方を歩いていたイエローが突然大声を上げて立ち止まった。

「どしたの?イエロー」
「……あ、あの木ちょっと見てください!」

イエローは、傍の木々を大げさに指差した。隊員達は何なのか興味津々でその先の木を見る。
ごく普通の木で、別段変わった所は無い。鳥が止まっているわけでもなければ、葉が変な色をしているわけでもない。

「あれがどうしたの?」
「いや、その、あれ、イチョウって言うんですよ!」
「そんなの知ってるよ……」
「いや、だから、あのイチョウの葉の影にピースとか言う子らしき姿が!」
「え~?」

女子達は木の真下に寄り、上を見上げた。ガッシリとした幹の隙間を見て行ったがどう見ても誰かがいる気配もない。

「どこにいるわけぇ~?」
「あ、どうやら気のせいみたいでした。昨日、遅くまでラットを解剖してたのがマズかったのかもしれませんね」
「シェンナお腹空いたですー」
「そうですよ。シェンナの言うとおりです。朝から何も食べてませんからね。どっかでご飯食べましょう」

イエローは、これ幸いと急かすように皆の背中を押して皆と再び道に出した。
女子達はイエローの変な態度に腑に落ちない気持ちがあった物のとりあえず歩き始めた。

「まぁでも、そうだよね。どこでご飯食べようか」
「オレ、パスタが良いな」
「ブランくん、パスタ好きだねー」
「だって、美味いんだもん♪」
「何か、カルボナーラ食べたくなってきたなぁ」

女子達の話題はすっかり昼食になっていた。イエローは安心して静かに息を吐き、既に通り過ぎて行った背後の家族連れを見た。
それは、イエローとシルバーのそっくりさんが、虎縞の子供と手を繋いで歩いている和やかな姿だった。

「イエローは何のパスタが良い?」
「……え? そうですね。普通にミートソースにしましょっか」

何事もなかったかのように、イエローは朗らかな笑顔をピンクに向けた。
あんな姿、イエローとは別世界で別人だとしても、他人には絶対見られたくない。












どの世界にも属さない世界と世界の隙間、そこに存在しているのがタイムポリスの本部である。
なぜそんな所にあるのかと言うと、歴史の改竄によりタイムポリスの存在自体が消えてしまう可能性を考慮してのことだった。
当初は、世界の中に留置所のような物を置いて、便宜上プレハブ小屋のような簡易な建物をタイムホール内に置いておいたが、
一度犯人が逃走した事件があってからと言うもの技術の進歩も手伝って、きちんとしたタイムポリスが完成したのが10年前。

その最上階に位置する部屋に、このタイムポリスで最高の地位に就く警視総監がいた。
そんな彼の部屋のドアをノックして顔を出したのは、秘書官であった。

「警視総監。外村刑事部長がお見えになっていますが」
「……そうですか。お通しして下さい」

紅茶のカップを受け皿に置くと、彼は優しい微笑みを浮かべながら、入室してきた外村刑事部長を迎えた。
一際、背の高いオオカミである刑事部長は、真っ黒なサングラスをかけたその風貌から一部でボスと言う愛称で呼ばれているほどだ。

「刑事部長、何の御用でしょうか?」
「パラ二課のライガとブランが捜査をしていると言うことについてです」
「……そうですか」

警視総監は笑顔を崩さぬまま、紅茶に再び口を付けたが、外村にはそれが楽観的な態度に見えて苛立ちを覚えさせた。

「一応私も命令ですから認めましたがね。私は、それに至った警視総監のお心づもりをお聴きしたい」
「聞きたいも何も、彼らは刑事部の一員です。彼らしかいなかったから行かせただけのことですよ」
「それなら、一課で無事だった二名の刑事を捜査に行かせました……まぁろくに話も聞かずに飛び出して行きましたけど」
「何をおっしゃりたいんですか?」
「早くパラ二課の二人を連れ戻してください」
「四人で捜査させれば良いじゃないですか」
「警視総監、パラ二課の連中が何をやったか、覚えていらっしゃらないのですか!?」
「覚えてますとも。……あれ、もう無いのか」

警視総監は空になったカップを置くと、腕を組んでまた和やかな笑みを外村に向けた。

「彼らにもチャンスはあってしかるべきです。それが正しいあり方なのではありませんか? 外村刑事部長」
「……もし、彼らのせいで何があってもしりませんよ。警視総監」
「上司のあなたにはご迷惑はおかけしません。全ては私が責任を取ります。それならば宜しいでしょう?」
「……」
「では、御機嫌よう」

外村は何も答えないまま、腹立たしそうに軽い会釈だけをして警視総監室から足早に去っていった。
警視総監は、そんな彼の背中をじっと見つめたまま、誰に言うでもなく呟いた。

「……彼らならば、きっとやってくれるはずです」












夜。ピースは屋根裏の薄暗い部屋のベッドの上で横になりあの男の言葉を頭の中で何度も反芻していた。
突然現れたあの迷彩服の黒猫の言葉に最初は馬鹿げていると思っていた物の、考えれば考えるほど、彼の中で真実味を帯びてきていた。

「…………」

ピースは天井の窓に浮かぶ月を見つめ、シワの寄ったスコアを抱きしめた。
仮に彼の言葉が事実だとして、そんな事が自分に出来るとは思わなかった。

『ジェンガに怪我を負わせろ』

頭の中で彼の言葉がハッキリとした物になった時、彼は飛び起きた。
額に汗の粒が浮かんでいた。手の甲でそっとそれを拭った。

ピースはベッドを降り、部屋の隅の影と同化しつつあるピアノの前に座った。
古い物ではあるが、綺麗に磨かれており、ちゃんと音も出るし、調律もしっかり出来ている。全て彼がここまでの物に仕上げた。
そして、その上には、桃子の写った写真が今にも剥がれてしまいそうな褪せたテープで貼り付けられている。

「……出来ない」

鍵盤をそっと人差し指で押す。レの音が木造の壁を跳ね返しながら部屋に響き渡る。
続いてミを押した。シを押す、ドを押す。一つ一つの音が途切れ途切れに続いていく。
軽快なはずのメロディも、彼の心までは軽快にしてくれなかった。

『もう二度とピアノを弾けない体にするんだ』

頭の中の声を打ち消すために低音の鍵盤を強く押した。何度も何度も何度も。
しかし、打ち消そうとすればするほどその声はますますピースの脳裏に深く焼きつこうとしていた。
それを少しでも回避しようと強く低音ばかりをデタラメに弾いていると、部屋の扉が乱暴に叩かれたのに彼は気付いた。

「ピース! こんな夜中にピアノを弾くなって言ってるだろ!」

声の主は彼の叔父だった。幼い頃に両親と死に別れた彼を養ってくれる唯一の親類である。
しかし、叔父には叔父の生活があり、彼らから見ればピースは邪魔な存在とも言えた。
音楽の才能があるからと言う事から勧められて音大に通っている事もその原因の一つでもあった。奨学金で通ってはいるが、
そのまま働いてくれていればどんなに家計が助かるかと何度も愚痴をこぼされた。皆、今の彼の生き方には賛同してくれていないのだ。

「聞こえているのか、ピース!」
「すいません。ちょっとピアノの調律をしていたんです」
「そんなもんは日曜の昼間にでもやれ! うるさくてかなわんぞ」
「すいません。もうしませんから、大丈夫です。……おやすみなさい」
「…………」

しばらくして、叔父が階段を降りていく足音が聞こえた。
彼の言葉に納得したと言うよりも、不満を腹に溜めたまま降りていくような重い足音だった。
長年この部屋に住んでいるせいか、足音で当人の感情がある程度わかるようになってしまった。哀しい特技だ。

月の光を雲が遮る。部屋は一辺に薄暗くなった。ピースはもう寝るため、そっと鍵盤を閉じた。

『……もう今の生活は耐えられない。そうだろう』

あの声がまた彼の頭の中に蘇ってくる。思わず耳を塞いだ。

『早くこの世界から飛び出して、新しい世界に行きたいんだろう。だからこそ……』
「やめてくれ!」

ピースは叫んだ。しかし、それでもあの言葉は消えない。

『だからこそ……今度の演奏会で勝たなきゃいけない。わかるだろう……?
良い学校に入ったし、良い講師もいる、だが、余計な邪魔者がいる……お前はそれを排除すればいいだけのこと』

ピースは椅子から転げ落ちて、床の上で必死にその声を聞こえないように耳を強く押さえつける。無駄な抵抗を続けた。

『勝てば夢だった楽団にだって推薦で入れるだろう。夢のような充実した日々が舞っている……それに、桃子もお前の物だ』
「やめてくれっ!……どうして、どうしてっ!」
『どうして……?』

ピースの耳に、足音が聞こえた。すぐ傍まで来ている。

『どうして、お前にそんなことを言われなければならないのか、と言う意味か?』

雲が風に流れた。再び顔を出した月の柔らかな光がこの部屋に一気に差し込んできた。
ピースの前にいたのは、あの時、庭で出会った迷彩服の黒猫だった。頭にバンダナを巻き、顔にはペイントが施されている。軍人の様な格好だった。

『そんなの決まっているだろう』

黒猫は、薄笑いを浮かべながら冷たく光った黄色い瞳を目下の男に向けた。彼は、震えながらその黒猫を見つめた。


『俺が、未来から来たおまえ自身だからだよ……』




≪その3へ続く≫