第110話
『最後の改造猫』
(挿絵:パープル隊員)
「……ウィックを、貴様が捨てた時の話だ……話を……聞かせろ」
息苦しそうに声に出すウィックを前に、カスミは唇をキュッと結んだまま立ち尽くしていた。
シャッターが激しく揺れる。叩きつけられる雨音が、彼女の鼓動のように激しい。
「そんなこと、あなたが聞いて一体……」
「俺が、判断する」
「え?」
「……ウィックに会わせるか、どうかは、俺が判断する」
そう言うとウィックは傍の段ボール箱をひっくり返して、その上に腰を下ろした。
「あの、判断って……」
「……何も知らないだろう。……奴が、貴様に、捨てられた理由を」
「…………」
カスミは彼から目を逸らして、迷うように唇にそっと白い指を当てた。
その間にもじっとこちらを強く強く見つめ続けるウィックの視線……。
彼女は一旦開きかけた口をぐっと閉じると、
「……その前に、私から、良いですか」
と、ウィックに尋ねる。溜息交じりに「……何だ」と彼は答えた。
すがりつくような目で、彼女はウィックの傍へ視線を向けた。照明のせいだろうか、瞳がガラス玉の様に見えた。
「私があの子を手放したのは、まだ薄い毛が生えている頃でした。父親はサバトラです。だからきっと、と」
「…………」
「虎縞で、名前がウィックで、もしかしたらのまま、なんです」
「……何が言いたい」
「私、ウィックとあの子が同一人物かどうか、何一つ確かな証拠は持っていないんです……だから……。
だから、あの子に、ウィックって子に一度……」
「……確信が無い以上……赤の他人に話す義務は無いということか……」
目を伏せたカスミの横顔を覗き込むように、ウィックは首を傾けた。彼女はゆっくりと頷いた。
「……俺は、アイツの幼い頃から、全て知ってる……話してみれば、何かわかるかもしれない……そうじゃないのか……?」
長い間沈黙が続く。ウィックの目は彼女が根負けしてくれるのを、話してくれるのを、懇願しているかのようにただ見つめ続けていた。
だが、彼女の横顔は、先ほどまでのか弱げな顔つきからは考えられないほど凛とした力強さを感じた。ウィックは自分が唇をぐっと噛締めている事にも気づいていなかった。
その時、彼の中で、自分からは決して言うまいと思っていた言葉が、壊れかけの電灯のようにチラチラと瞬いた。
「……どうしても話さないつもりか」
その瞬きを打ち消すかのように、ウィックは声を強めてカスミに問いかけた。彼女は瞼を閉じる。
その姿を見つめて、彼の中には様々な疑念が渦巻く。そこまで酷い理由なのか、単に警戒しているのか、何だ。何だ。一体なんだ。
「……俺ではダメなのか……」
ウィックの呟きは、雨音に紛れて、消えた。彼の中でまた、言葉が瞬いた。
雨の中、裏通りに真っ黒な傘を差したタイガーアイがいた。
彼は、エコが勝手に約束したという女に会うため、例の弁当屋へと向っていた。
あまり気が進まないのは当然と言えば当然だった。会うような義理などまったくないのだから。
『(行かなくて良いのか……?)』
彼の心の中でそんな思いが、ハッキリ言葉となって現れていた。何故こうも不安に駆られてしまうのか、全く自分でもわからない。
ウィックに激昂されたあの時から、タイガーアイは拭っても拭いきれない何かを、全身にべっとり塗りたくられたような感覚が消えなかった。
──ウィック様は、生まれて間も無く捨てられた俺を育ててくれた恩人だ。あの人のために俺はBC団を繁栄させる……!
何度も繰り返してきた決意の言葉が、今となってはドラマか何かの台詞の様に現実離れして胸の中へと響く。
いつもは繰り返すたびに、心地よい気分になってウィックに対する経緯が湧き出していた。
それが、タイガーアイをBC団の忠実なシモベにするために植えつけられた記憶とも知らず、彼はずっとその言葉だけを唱えていたのだった。
──俺が唯一信じられるのは、ウィック様だけだ。あの方だけが俺の……俺の……
頭痛を感じて、タイガーアイは頭を振った。いつも頭の片隅で邪魔が入る。あの時のショックがまだ後を引いているのか。思わず溜息を付く。
目を上げると、傍の居酒屋から漏れるぼんやりといた明かりの向こうに、例の弁当屋の建物が見えた。
OFFレン本部には忍び込んだ物の、思えばあの弁当屋に近づいた事は無かったな、等と思いながら彼はゆっくりと店の正面へと向う。
締め切られたシャッターの上にプリントされた、店の名前と電話番号、そして本日の営業は終了しましたの文字。
吹き込む突風に煽られて、大きくそれらの文字は激しい音と共に波打った。飛び込んでくる飛沫にタイガーアイは顔を背ける。
ここからは入れないと判り、彼は裏へと回った。後方のコンクリート塀に温かみのある明かりが映されている。いるのは間違いない様だ。
「……そうか……わかった」
ドアに駆け寄った時、中から微かに聞こえたウィックの声にタイガーアイの身体はドアノブを掴みかけた手を止めた。
聞き違いかとも思ったが、いつも傍にいた自分の前ではそんな疑念はすぐに消え去った。何故、ウィック様がここに。
急いでドアから離れた。すぐ横の壁面に背を向け、そっと耳を澄ます。激しく胸が騒いだ。
「……だったら……だったら、俺が言わせてもらう」
「え……?」
女の声だった。自分と会う約束をした女だろうと、おおよそ見当が付いた。しかし何故。
「……昨日、貴様の胸倉を掴んだ時に抜けた毛が手の中に残っていた」
「毛?」
「……DNA鑑定をさせてもらった」
「えっ!」
直後にバタバタと言う足音が聞こえた。ウィックに女が駆け寄ったイメージが、彼の頭に浮かんだ。
「ほ、本当ですか。ちゃんと、ちゃんとした所ですか」
「……まず、信頼できる場所ではある……」
「それで結果は!? 結果はどうなんですか、あの子は、あの子は……」
あの子? DNA鑑定? 一体何の話なのか、何故ウィックと女が話しているのか、全く判らない。
判らないのに、タイガーアイの鼓動は激しく脈打つ。ザラザラした感覚が胸の中一杯に広がる。未知の動揺に、傘を持つ手が震えた。
「黙ってないで教えてください……! 違ったんですか、それとも……」
ウィックは黙っているようだった。その間にもタイガーアイの耳には女の吐息にも似た、擦れた懇願の声が入ってきていた。
そして外には一切声が聞こえなくなった。沈黙は続いた。どれくらい時間が経ったのか。タイガーアイの身体はすっかり芯まで冷えていた。
「…………」
雨足はまだまだ強まっていた。吐く息が真っ白だった。そして、まるでそれがキッカケだったかのように、中からウィックの声が、ぽつりと聞こえた。
「一致……した」
シャッターが再びガランと激しく揺れ、タイガーアイは、思わずぐっと傘を強く握った。
「本当……ですか?」
「……あぁ」
「本当に、本当に」
「……そうだと言ってるだろう」
ウィックの声に苛立ちの様な物が混じっていたのを、タイガーアイは聞き逃さなかった。
「一度しか、言わん……」
何の話だ。一体、何の話をしているのだ。とてつもない不安が膨らむ。不安に押されて、タイガーアイはこれ以上このままでいられなくなった。
ウィック様が相手をするような者ではありません。早くお帰りになって、完成間近の計画を。ブラックキャット団の未来の為……!
「……ウィックは……貴様の息子だ……」
傘が飛ばされた事にも、タイガーアイは気づけなかった。ドアノブから手の離れた戸が、風を受けてゆっくりと開いていった。
ウィックが、弁当屋の女の目がこちらに向けられる。冷えた雨粒が身体の中へと染みこんで行く。
「ウィック……様」
彼がやっと声に出せたのは、ただその一言だけだった。
何が起こっているのか、おぼろげながら理解できている。しかし、タイガーアイは混乱していた。認めたくない心が頭の中をかき乱していた。
「何故貴様が……」
「……ウィック様!」
いつの間にかタイガーアイは叫んでいた。頭の中に不安がこみ上げ、どうしようもいられなくなり、彼はウィックに歩み寄った。
「……騙されてはいけません! この女は、この女はウィック様を騙しているのです!」
「ど、どういう、事なんですか」
「しばらくお待ち下さい。俺が、すぐにこの女を……」
タイガーアイの目は、もはや敵だけしか捉えることができなくなっていた。
カスミに向って目標を定めると、彼は長い爪をさっと伸ばし、ゆっくりと歩を進めた。
「タイガーアイ、待て」
「こんな女に、ウィック様が関わる必要はありません」
「落ち着けタイガーアイ。突然どうしたと言うのだ」
ぐっと彼の右肩をウィックが抑えた。しかし、そんな感覚すらタイガーアイには何も無い物としか感じられなかった。
女は呆然としたままこちらを見て立ち尽くしている。さらに彼は前へと進む。
「待て。タイガーアイ。待て」
ウィックの手の力が強くなる。だが、そんな事すら気にも留めず、タイガーアイの目は真っ直ぐ女を見つめていた。
鼓動が高まる。体中の血液が熱くなっていくのを感じる。彼はまた一歩進んだ。
「待てと言っているんだ」
ウィックの語調が強くなった時だった、彼の頭の中に、自分の物ではない声が、一瞬、ハッキリと言葉が聞こえた。
──やはり……
タイガーアイの心臓が、ドクンと大きく脈打った。
彼は首領の腕を払いのけると、すぐさまターゲットに向って駆け出し、地面に押し倒す。
倒れた衝撃で動けない女の上に乗っかったまま、右手の爪を女の喉下に向けた。彼の目に映る感情は、殺意そのものだった。
この女は、ウィック様にとって邪魔者だ。始末しなければならない。そんな感情があちこちから噴出して止められなくなっていた。
「待て!!」
刃物の様に鋭く尖った爪が、女の喉まであと数センチという所まで届いた時、ウィックがその腕を掴んだ。
しかし、タイガーアイの中ではそんな行動を取ったウィックが、自分の行為を妨害する邪魔者としか認識できていなかった。
振り払おうと、大きく身体をねじる。こいつも排除しなければ…!一瞬そんな考えが横切った時、彼の爪は、唯一信頼できる人間の頬の上を滑った。
「ぐっ……!」
真っ赤な血が銀色に光る爪を染め、女の悲鳴が響いた時、彼は我に返った。
「……う、ウィック……様……」
ウィックは頬を押さえたまま苦痛に顔をゆがめていた。恐怖と衝撃と動揺と悲しみと……様々な感情がタイガーアイの中を一気に駆け巡った。
謝罪の言葉が脳をかすめる。しかし、喉は震え、声が声にならない。息をする事すら出来なくなった様な気がした。
「貴様……」
彼の左頬を押さえた手からは、目に痛いほどの鮮血が滴り落ちていた。
ウィックの目がナイフの様に鋭く、タイガーアイの身体を刺して、彼は少しも動く事は出来なかった。
「……俺の身体に……傷を付けたな……!」
ウィックの両手が彼の胸元を掴んだ。真っ赤な手、真っ赤な頬、他の色は全て消え去り、彼の目には赤一色しか見えなくなっていた。
「出て行け……早く出て行け……!」
「ウィック……様……」
「二度と俺の前に姿を見せるな……!!」
タイガーアイは体を突き飛ばされた。ドアに突っ込み、そのまま外へ転がり出る。
立ち上がった時、すりむいたせいか、腕には少しだけ血が滲んでいた。痛みは、感じなかった。
ドアが閉められた。女の慌てふためく様な声が中から漏れてきていた。どのようにも形容しがたい思いがタイガーアイの頭の中で渦巻く。
そして、そんな思いの間をすっと割って、またどこからか言葉が聞こえたような気がした。
──やはりお前は……
「……違う!」
最後まで言い切られないうちに、何度もタイガーアイは頭を振ってそれを打ち消す。
そして、何度も心の中で今までの自分の糧を必死に掴む。ウィック様のために。BC団のために。ただそれだけのために。
ふら付きながら、タイガーアイは歩みを進めた。彼は糧を必死になって貪っていた。
自分の唯一の存在理由を守るため、彼の足は無意識のまま、ブラックキャット団アジトへと向った。
翌日の、まだ寒さが大手を振って道路の真ん中を闊歩しているような朝早くから、
エコと改造猫達は、街中のゴミ箱やビルの隙間をくまなく捜索していた。
「猫猫、いたか?」
「うんニャ。全然いないニャ」
「こっちも甲斐なしって感じ」
「化猫のことだから、まだそう遠くへ行ってないと思うんだけどネ」
彼らが探しているのは、昨晩にオオカミ軍団アジトにあるBC団第二支部の部屋から飛び出していったまま戻ってこないタヌキ猫こと、化猫であった。
といっても、理由はケンカや不和による物ではない。むしろ理由がわからないのだから厄介だった。
なんせ気絶したままカオンにつれてこられてそのまま寝ていたのかと思えば、目を覚ますなり突然「悪いことがしたいのさぁぁぁ!」と叫び始め、
猛獣さながらに毛を逆立て、歯を剥き出しにし、改造猫らに襲い掛かると、そのまま彼は四足走行であっという間に飛び出していったのだった。
「このまま見つからなきゃヤバイ感じ。あれはとうとう脳に来たに違いない感じだぜ。突然だもんな」
「あのアクセの量は普通の脳みそじゃまずやれないからネ」
「確かに、洗脳装置の副作用が今になって来たのかもしれんな」
「やっぱりニャぁ~。オレ様、アイツは雑に改造されてる気がしてたんだニャ」
「そうかなぁー? もしかしたら、急に悪いことしたくなっただけかもよ」
だんだん現実的に考え始めた改造猫達の方へ、ぽんと間の抜けた意見を放り込んだのはもちろんエコだった。
だが、例えマヌケな意見でも、彼が真剣にその意見を投げかけたことを疑う余地は、当然ないであろう。
「バ…し、支部長。オレ様達はもうちょっとこの辺探すニャ。だから支部長は獣猫と5丁目の方探して来てくださいニャ」
「う、うん。わかった。獣猫行こ」
頷く獣猫の手を引いて走り出すエコの背中を見つめながら、改造猫らは大きな溜息を付いた。
「ま、ガキのお守りは獣猫に任せたことだし、捜索続行だニャ!」
「んじゃ、俺と操猫はもっかい1丁目辺りを探して見る感じ」
「頼んだニャ!」
写猫らが一丁目へ向うと、残された猫猫は腕を組んだまま目を閉じて何か思案している風な影猫に目をやった。
「おい、影猫。ぼけっとしてるニャよ! オレ様達はここらをしらみつぶしに調べニャいと」
「……ぼさっと突っ立っている訳じゃない。オレは影猫だ」
「ばっ、バカにすんニャー! そんなのずっと前から知ってるニャ!」
「そうじゃない。オレは影を操る能力を持っているのを忘れたか」
「……にゃ?」
「捜索中に、オレの影を小分けにして様々な場所に配置しておいた」
猫猫が彼の足元に目をやる。確かに彼の足下には一切の影が無かった。自分の影は八頭身ほどあるというのに。
「……影はセンサーとして何か異変があれな感知できるようになっている。オレは今、それぞれにアクセスしていたんだ」
「すっ、凄いニャ。じゃぁ化猫もすぐ見つけられるってわけだニャ?」
「さすがに人物の特定は無理だが……奴が暴れでもするか、叫びでもすれば、しっかりと感知はできるだろう」
「ニャ~……。なんか羨ましいニャ。オレ様、にゃんにゃかビームで誰かを猫化するしか能力持ってないニャ……」
有能な後輩の姿に思わず愚痴を零す猫猫だったが、突然影猫はシッと人差し指を唇に当て、東の方角に目を向けた。
「近い! 三丁目の方だ」
影猫はすぐさま道路を横切って、住宅地の中へと走りこんだ。
「ニャッ、ちょっ、オレ様を置いてくニャ~!」
慌てて猫猫が追う。ここでも後輩の方が足は速くなかなか追いつけない。
何とか、はぐれない様に青い影猫の姿を捕えながら懸命に足を動かす。彼は角を曲がった。猫猫も同じように曲がる。
「ぶニャッ!」
後輩の背中に激突した猫猫は2回の後転を行って、ベージュ色の塀に頭を打ちつけた。土星が見えた。
「ニャッ、ニャに立ち止まってんだニャー!」
痛みと苛立ちの中、立ち上がる猫猫は、曲がり角で立ち尽くしている後輩の背中に罵声を浴びせる。
しかし、振り向いた影猫の表情は、申し訳ないと言う物でも、猫猫側を咎める様な物でもなかった。驚きと恐怖が入り混じっていた。
猫猫は影猫の前に広がる光景に目をやり、ハッと息を呑んだ。ブルドーザー……いやもっとそれ以上の物で抉られたようなアスファルト、
根本から折られた電柱の残骸、ぐちゃぐちゃの粘土の様になったトラック。まるで大きな怪物が通った跡であるかのようであった。
「こっ……これ……まさか、ば、化猫が……」
「まだ化猫の仕業と決まったわけじゃない……」
「で、でも……」
「だが……そうじゃないと決まったわけでも無い……」
影猫は冷静な口調で答えていた。しかし、彼の額に汗が滲んでいたのを見、猫猫はそれ以降の言葉が出てこなかった。
「急いで化猫を探そう……猫猫、行くぞ」
「わ、わかりましたニャ!」
後輩に呼び捨てにされ、それに敬語で答えていることにすら気づかないまま、猫猫は走り出した影猫の後を再び追いかけた。
「ちょっとすみません」
「ふぇっ!?」
獣猫と二手に分かれて化猫捜索を続けていたエコは、ポリバケツの蓋を開けて中を覗き込むなり、突然背後から声をかけられたのでドキリとした。
「ど、泥棒とかじゃないですよ。さ、探し物してるだけ!」
「いや、別に咎めている訳じゃありません。道を尋ねようかと思っただけです」
「な、なんだぁ」
エコはホッと胸をなでおろして、改めて目の前の一団を眺めた。
優しげな青い猫の男性と、その後ろで何やら険悪な雰囲気を醸し出している赤い猫の女性、ホランに似ている虎猫の男性。
そして、こちらにニコリと微笑みかけている男性の4人組。なんだか皆変な格好をしているが、エコも思わず微笑み返してしまった。
「では早速すみませんが、OFFレンジャーさんのいる場所、わかりますか?」
青い猫の言葉にエコはまたもドキリとした。
「お、OFFレンジャーと、知り合い?」
「ええ。以前、お世話になったので。久々に会おうと思って来た物の、道に迷ってしまいましてね」
「朱雀が曖昧な記憶で俺達を引き連れまわすからだ」
「違うでしょ! 白虎だって間違ってたじゃない!」
ぎゃあぎゃあ騒ぎ始めた赤と白の男女の迫力に、エコは思わず目を向けずに入られなかった。昼ドラみたいだと思った。
「だいたい、あんたがあの時、烏龍茶の自販機があるとか言って歩道橋を渡ったのが元凶でしょうが!」
「朱雀だって、喜んでいたじゃないか」
「でも結局烏龍茶じゃなくて鳥育茶とかいうわけわかんないもんだったでしょっ!」
「似た様な物だろう」
「烏龍茶どころかメッコール並みのマズさだったわよっ!」
「やめないか朱雀、白虎!」
朝っぱらだと言うのに、ますますバトルは加熱していった。エコは本当にドラマを見ている気分になった。
一体この人らは何なのだろうか、そんな疑問を抱き始めた彼の肩を、トントンと誰かが叩いた。
そちらに顔を向けると、頭にちょこんと帽子をのっけた、彼ら4人組の一人であるクリーム色の猫が立っていた。
「ごめんね。あの二人、いっつもあぁなんだ」
「ううん。なんかドラマみたいで面白いよー」
エコがニコリと微笑むと、相手も同じように微笑み返した。
この時、エコは彼に強い親近感を覚えた。「良い人そう」「仲良くなれそう」直感的にエコはそう感じた。
そして、それは相手の方も同じだったようだ。
「僕は玄武。あっちの青いのが青龍で、赤が朱雀、白いのは白虎。キミは?」
「お、オレは、エコ。……あっ!」
エコはふと目線を下げると、玄武の後ろに、ヘビがにょろにょろとしているのに気が付いた。
しかし、玄武はまったく動じずに、下半身を少しだけひねって、身体から直接生えているヘビの尻尾をエコに見せた。
「これは僕の尻尾のへびくん。ずっと一緒なんだ」
「す、凄い! オレ、こんなの初めて見たよー」
「しゃー」
「わっ!」
尻尾のヘビが口を開けたので、エコは伸ばしかけた手を思わず引っ込めた。
「大丈夫。へびくんは今よろしくって言ったんだ。エコ、へびくんに握手してやってよ」
「……か、噛まない?」
「平気だよ。へびくんは大人しいから」
「うん……よ、よろしく」
エコはへびくんの頭を掴んでニ三度上下に振った。
これで握手と言えるかどうかわからないが、へびくんは満更でもないといった感じに「しゃー」と答えた。

「ねぇ、げんぶはOFFレンの本部行きたいんだろー? だったらオレが連れてってあげるよ。あっちの塔がある方だから」
「ありがとう。東北東の方だね」
「……俺が目指していたのは北東で朱雀は南西だから、どちらかと言えばやはり俺の目指していた方向が正しかったわけだな」
「また、あんたって奴はっ!!」
収まり始めたケンカに再び油が注がれたらしく、青龍はますます困り果てながら両者を宥め始めた。
さすがに長々と続いているケンカに呆れてしまったようで、エコも玄武も同じように眉を八の字にしながら困った顔をして立ち尽くしていた。
「うわぁ~……こりゃまた派手にやってるな~……」
一方その頃。我らがレッド隊長以下一同は、目の前に広がる破壊し尽くされて戦場跡の様になった交差点を呆然と眺めていた。
地中に埋められている配管までがむき出しになっており、アスファルトや、埋まっていたと思われる泥だらけの石がそこら中に散らばっている。
特に中心部は直径三メートルにも及ぶどでかい穴が空いており、まるで巨大な重機で片っ端から地面を乱雑に掘り起こしたような有様だった。
「野次馬から小耳に挟んだ情報では、商店街にも同様の箇所があったようです」
「よりにもよって、そんな危ない改造猫を放置しちゃうなんて困ったもんだね……」
そんな隊員達の冷たい視線を一気に受けたのは、荒縄で縛られ地面に座らされている猫猫と影猫であった。
二人は、影猫の配置した影センサーとやらの反応を頼りにここまでやって来た所、騒ぎに駆けつけたOFFレンとバッタリ出くわし、現在に至っていた。
「しっ、仕方無いのニャ!!! オレ様だって、まさか化猫がこんニャことをするとはヒゲの先すら思わなかったニャ!」
「タヌキタヌキ言い過ぎたんだよ。あの子、ストレス耐性低そうだったし」
「……た、確かに最終的には自分からワルダヌキを自称してしまってたニャ……」
「キレる世代ですー」
そんな中、現場にはようやく警察が到着し、周囲には立ち入り禁止のテープが貼られ始めた。
隊員達も野次馬扱いされ、離れるように指示される。ここはプロに任すとして、残るは自分達が一刻も早く犯人である化猫の発見に尽力を注ぐ必要があった。
「じゃ、とにかくね。ここはお互いの目的が一致しているわけだから、化猫探しに協力しようじゃない。縄も解いてあげるから」
「当たり前だニャ! そもそも、何もして無いのに顔見ただけで突然縛られたのがどうかしてるニャ!」
「昔から“なくて七癖”って言うからねぇ」
「まっ、また訳のわからんこと言って誤魔化してるニャ……!」
「どっちにしろ、うちの隊員盗られたわけだから、それくらいはね」
「ニャ、ニャんの事だか……全然わかんニャいニャ?……ニャニャニャ……」
縄が解かれた猫猫と影猫は痛そうに縛られていた箇所を摩りながらゆっくりと立ち上がった。
「それでは、化猫を発見したらオレ達に報せてくれ。オレ達も化猫を見たらお前達に知らせる」
「え、でもどうやって……」
「簡単なことだ」
影猫の足下に残った僅かな影がスッと、レッドの影に向って打ち出された。500円玉大のそれはレッドの頭部の影にピタリとくっ付くと、
そのまま、もぞもぞと小刻みに揺れながら影の中へと潜り込んで行く。あまり見ていて気持ちの良い光景ではなく、隊長も頭を押さえて変な気分だ。
「オレたちが発見すれば影がこちらへ案内する。お前らが発見したら、影に向って叫んでくれ。すぐにそちらへ急行する」
「へぇ……。なんか、便利だねぇ」
「それじゃ、オレ様達はもう行くからニャ。もし写猫たちと会ってもちゃんと伝えるんだぞニャ? 判ったかニャ?」
「OKOK。頼んだよ」
「言われなくてもわかってるニャ」
そう言って猫猫と影猫の二人は、逃げるようにしてOFFレンたちの元から走り去っていった。
『それじゃぁ、そろそろ我々も動き出すとしよう』と、隊長がありがたい命令をかけようと思ったときであった。
「あっ、OFFレンジャーだ!」
「本当だ。良かった、こんな時間に道中で会えるなんて」
エコを先頭に、こちらへ歩いてきている聖獣たちが、一同に声をかけた。隊員達も、思わず久々の対面に表情も綻んだ。
「お久しぶりです~! どうしたんですか?」
「ちょっと……旅行なんです。皆さんは?」
「朝から色んなところで悪事が多発してて、パトロール中にこんな穴ぼこを」
「さすが正義のヒーローですね。ホントに頭が下がります」
久方ぶりの再会に和気藹々としている和やかなこの雰囲気。しかし、この中にまったく入れなかったのが一人。そう、我らがレッド隊長であった。
「ねぇ、ブルー。この人達……誰?」
「あ、そうだそうだ。そういや、レッドは初対面すね。皆さん、こちらは我々の組織のトップ、レッド隊長です」
初めまして、と頭を下げる4人に、レッドは「隊長の威厳」という名の飾りを付けた頭を、深々とそれらしく下げた。
「こちらは前にレッドにも話した、ほら、例の聖獣の皆さんっす」
「あ、知ってる。麦茶が死ぬほど好きな人らでしょ?」
「烏龍茶です」
とても綺麗に揃った訂正をする4人。そんな彼らの前にブルーが一歩出て、軽い紹介を始めた。
「お名前はそれぞれこちらから、青龍さん、朱雀さん、白虎さん、それと、えーと、ほら、ね、あの、ほら、あれっすよ、
ここまでね、ここまで出かかってるんすよ、ほら、ヘビとか、その、あれが……ねぇ!?」
「……玄武です」
「そう、玄武さんっす」
「レッドです。よろしくお願いしまーす」
一通り自己紹介を済ませると、突然、青龍は申し訳なさそうな顔をして隊長の手を優しく握った。
「あの、いきなりで何ですが、少しの間だけ皆さんの所に泊めて頂けないでしょうか」
「え?」
「実は、久々に日本を満喫しようと思って来日したんですが、昨今の円高のせいで我々が泊まれる様な良い施設が全く無くって……」
「はぁ……」
レッドは後ろの他の聖獣らの表情に目をやった。3人とも右や左に目を逸らして、誰一人目を合わせる者はいなかった。
「安い場所をと思っても、ビジネスホテルはタバコ臭くて朱雀が嫌だと言うし、カプセルホテルは聖獣に相応しくないから嫌だと白虎が言うしで……」
青龍は今までの苦労をありありとその表情に映し出しながら言った。レッドも何となくだか判るような気がした。
それにしても、聖獣と言えど満足な場所に泊まる事も出来ない物なのか、とレッドは現代社会の病巣をそこに見た様な気がした。
「食事は烏龍茶さえあれば、我々ほとんど必要ありませんので。よければニ、三日だけでも是非」
「そんなの、聖獣ですもん。お世話になったみたいだし、全然平気です!」
「ありがとうございます。さすがOFFレンジャーの隊長さんですね。器が大きい!」
「いやぁ~。そうかなぁ~? 遠慮いりませんから、ニ、三日とは言わず好きなだけいていいですよ!」
さすがの聖獣らしく、レッド隊長を上手く扱っている。おだてればすぐに参ってしまう隊長を、物の数分で見抜いてしまったようだ。
隊員達が青龍に感心している中、端に立っていたブルーの傍にそっと誰かが忍び寄った。聖獣の一人、白虎であった。
「なぁ、さっきいた二人組、あれは誰だ?」
「え?」
「デコになんか、派手な模様つけてたヤツラだよ」
「あぁ、あれは……ブラックキャット団って悪の組織の改造猫すよ。あの模様は組織のマークとかで」
「……ふうん……」
白虎は顎に手を当てて何やら思案した様に、猫猫らの去っていった通りの方に目をやった。
「どうかしたんすか?」
「……いや、別に。俺の気のせいだったみたいだ」
白虎はそう言うと、本部へ向って歩き出した他の面々を追って行ったので、ブルーもすぐさまその後へと続いた。
「気がついたか……」
目を覚ましたカスミが身体を起こしたのに気づくと、ウィックはカウンターの方へと目を逸らした。
閉められたままのシャッター越しに、外からの賑やかな喧騒が漏れていた。子供の声が聞こえる。今日は休日だったか、とふと思った。
「その顔……」
カスミが呟くと、ウィックは自分で応急処置をし、今ではすっかり赤黒くなった右頬のガーゼに手を触れた。
血は止まったが、触れて見るとまだ少しだけ痛みが残っている。忌々しさが胸の中をかき混ぜた。
「痛そうね……」
「……問題ない」
「そう……」
それきり、二人の会話はまたさきほどと同じように途切れた。
両者とも互いに目を合わせることはなく、目の前に置かれた事実から目を逸らしていた。
「……お腹、空かない?」
ウィックが何百も予想していた物とは違った言葉が、カスミの口から飛び出した事に、彼は驚いて彼女に目を向けた。
微笑を浮かべた彼女は、テーブルの上に投げ出されたエプロンを手に取り、素早く身に着ける。
「そういえば、朝ごはんもまだだったよね」
「…………」
彼が用意していた言葉が全て吹き飛び、最後に残ったものは動揺だけだった。
声をかけることすら出来ず、ウィックは、まな板に向ったカスミの背中をじっと見つめていることしか出来なかった。
その時初めてウィックは彼女の姿をちゃんと見る事が出来た気がした。小柄な背丈、細い足、なんてか弱い体つきだろう。
包丁の音が小刻みに室内に響く。何かを似ているのか、良い香りが鼻をついた。
忘れていた空腹を、ウィックはこの時ようやく思い出した。
「そっ、そんニャ、いきなり……」
「これは、俺からの命令だ! 貴様らの様な下っ端が俺に盾突くな!」
反論した猫猫の顔面を殴りつけたタイガーアイは、その光景に青ざめた他の改造猫をキッと睨みつけた。
「わかったら、貴様らも俺の命令通りに動くんだ……。わかったな……」
「は、はっ!」
敬礼して、すぐさま改造猫達は、コントロール室のあちらこちらへと散らばった。
彼らは、化猫探しの途中でタイガーアイから突然の招集がかかり、無理やりここへ連れて来られたのだったが、
いつもとは違う只ならぬ幹部の様子に、彼らは不可か無いな物を感じていたが、
鼻血を垂らしながら涙ぐんで作業する猫猫の姿を見せられては、下っ端らしく命令に従う事しか出来なかった。
「……影猫、メインプログラムは」
「じゅ、順調です」
「……獣猫、各部の接続は」
「接続、問題、ない」
「猫猫」
「グスッ、グスッ、だ、だいじょうぶですにゃぁ……」
「……操猫、エネルギーはどうなっている」
「ハイ、現在各地エネルギー充填率60%」
タイガーアイは舌打ちをして、カオンの名前を叫んだ。
待つこと10秒。開いたドアから、かつてOFFレンのグリーンであったカメレオン型改造猫、カオンが現れた。
「お呼びでしょうか、タイガーアイ様」
「……エネルギーの補充を急げ」
「は、しかし、現時点でエネルギーは計画通りの充填率のはずですが……」
その時、突然カオンの胸倉がつかまれると、目の前で鋭い爪がキラリとその光を放った。
「……御託は良い。俺がやれといえば、貴様はその通りにやれば良いのだ」
「ウィック様はご承知なのですか」
「……無論だ。……これはウィック様のご計画だからな」
「そう、ですか……」
「いいか、OFFレンに正体がバレた貴様が、この中では誰よりも脆い立場にあることを忘れるな……」
タイガーアイが手を離すと、カオンはかすかに後ろによろめき、不敵な笑みを浮かべた。
「……ご命令、了解いたしました。ただちに悪猫に伝えさせていただきます」
「わかったら早く行け。夕方までには充填率100%になるようにな」
「はっ」
頭を下げ、カオンはコントロール室を後にした。中からは相変わらずタイガーアイの怒号が漏れ聞こえる。
そんな声を遠くに聞きながら、カオンはその歩みを進めて廊下を進んで行き、
「……とうとう、動き出したか……」
彼は、とても小さな声でぽつりと呟いた。
「なにっ、BC団らしき人物が道路を掘り起こしていたのを目撃!? わかった、すぐ行く!」
携帯型PCからの連絡を受けて、レッドはやりかけだったトランプをテーブルの上に置いた。
隊員達は化猫の捕獲に向かい、レッドは聖獣さんと、何故かエコも一緒に相手するために、6人でずっとババ抜きをして遊んでいたのだった。
「悪いけど、聖獣の皆さんはここで待っていてください」
「いよいよ大詰めですね。頑張ってください」
「えへへ、頑張ります。とりあえず、夕飯までには帰りますから、それじゃ!」
レッドが慌しくリビングを出て行く。
と、それを見届けていた白虎が、突然中断されたまま放置されていたトランプをかき集め始めた。
「なんだ白虎。まだ途中じゃないか」
「……どうもババ抜きは好かん。やっぱり神経衰弱が一番良い」
「あ、アタシも賛成」
こういう時だけ白虎と朱雀は意気投合して、新たにババ抜きは神経衰弱へとシフトチェンジした。
白虎がテーブルの上に、定規で計ったかのように等間隔にシャッフル済みのカードを並べ始める。だがエコはそんな光景を見ながら、微妙な表情。
「お、オレ、神経衰弱って苦手なんだよなぁー。いっつも、どれがどこにあったか忘れちゃうんだー」
「実は僕も。白虎も朱雀も青龍もみんな上手いからね。でも慣れたら楽しいよ」
エコと隣同士になった玄武が微笑みながら彼の肩をポンと叩く。
二人はやはり波長が合うらしく、このトランプの合間だけでかなり仲良くなっていた。
「ふーん。げんぶは、どれくらいで慣れた?」
「うーんと、700年くらいかなぁ?」
「な、700!?」
エコは大げさに後ろへひっくり返り、足をテーブルにぶち当てた。
その際に方眼紙のマス目の如く美しく並んだトランプの配置がズレ、白虎の眉間に1本の皺が入った。
「あぁ、そっか。エコにはまだ言ってなかったっけ。僕ら、聖獣だから何千年も生きてるんだよ」
「せ、せいじゅーってなに?」
「凄い能力を持った、特別な動物の事だよ。エコが生まれるずーっと前から僕らは地球にいるんだ」
「へぇーそうなんだ。すごいなぁー」
なんだかぼんやりとしたエコの返答に、青龍達は少しガッカリした。OFFレンでももう少し驚いてくれたのに。
「今の姿も、エコやOFFレンジャーの人らに合わせて変身した姿なんだよ」
「じゃ、ホントの姿はどんななの?」
「えーとね。青龍は龍、朱雀は鳳凰、白虎は虎、で、僕は亀」
「えぇっ、げんぶってカメだったの? お、オレ、前からずっとカメが欲しかったんだー!」
「あはは。カメって言っても、僕の本当の大きさは山くらいあるよ」
「へぇー、大きいんだなぁ。じゃぁ、ご飯とかいっぱいいるね」
「烏龍茶があれば平気だよ」
そう言って、玄武は烏龍茶の缶に口を付けた。
「ねぇ、せいじゅーっていつもは何してるの? 宇宙人とかと戦ったりする?」
「基本的には、世界の平和を守るんだよ。あと願い事を聞いてそれを叶えてあげたり」
「ホント? あのさぁ、げんぶ。オレ、バイクが欲しいんだけど、どうにかならないかなー?」
「うーん。そうしてあげたいのはやまやまなんだけど……」
玄武は困ったように、胸元に光る勾玉に手を触れた。
「願いをかなえるって、石ころ一個でも宝石の山でも、おんなじくらいのパワー使うから、一年に一回くらいしか使えないんだよね」
「でも、まだ使ってないんだろー? げんぶ、おねがーい! オレ、ずっとオオカミに貰った古いバイク雑誌で我慢してるんだもん!」
「悪いが、パワーは温存しておかなければならないんだ。諦めてくれ」
横から口を挟んだのは、ようやく綺麗にトランプを整理し終えた白虎だった。
「なんで? なんかあるの?」
エコが問いかけるが、他の聖獣らも、白虎の発言に同調するようにエコから目を逸らしていた。
「……そういうわけだから、ごめんね。エコ」
「うぅん、ダメなら仕方ないよ。でも、オレいつでもバイク貰ってあげるからさぁ、大丈夫な時は絶対教えてね!」
「う、うん……」
「さぁさぁ、エコさんも玄武も、準備完了だ。神経衰弱を始めるぞ」
青龍の言葉に、エコも玄武も気持ちを切り替えてテーブルに寄って行く。
だがその時、エコの膝がテーブルにぶつかり、トランプの配置はまたも大きくずれた。白虎の額に太い血管が浮き出た。
「ごちそうさまでした、と」
少しのご飯と味噌汁、そして卵焼きとサケの切り身を食べ終えたカスミを、ウィックはぼんやりと眺めていた。
そんな光景を見ていると、彼は何だか急にむずがゆい気分になり、先ほどまで皿代わりにしていた弁当パックの蓋の上に目を落とした。
「綺麗に食べてくれて、嬉しいな。美味しかった?」
「…………」
彼女の問いに、ウィックは無言で答えた。彼の物には、米粒一つ残されていなかった。これまでの人生の中で金と食い物の大切さはそれなりにわかっている。
普段と変わらない食事の仕方だ。いつも綺麗に食うのだ。それ以外の、他意は無い。彼は胸の中で呟く。
「それじゃ、後片付けしないと」
テーブルからパックの蓋と割り箸を集めて、それはゴミ箱へと入れられる。そんな様子が酷く淋しく思ったような気がした。
そうして、彼女は流しに浸けられたフライパンや鍋を洗い始める。その後姿……。金属の触れ合う音と水の音。
「……砂糖がね、甘さを控えてる奴だから」
「ん……?」
最初その言葉が何を意味しているのか判らず、ウィックは思わず聞き返した。
「甘いのが良いの。卵焼き。でも、甘すぎると気持ち悪くなっちゃうし、店独自のレシピが無い分、結構試行錯誤したの」
「…………」
「ノリを巻いたりとか、ハムを挟んだりとか、他の店じゃ色々やっている所もあって、でもそれって何か違うと思うのよね」
「…………」
「卵焼きって、やっぱりお弁当の影の主役だと思うの。変に主張しないで、卵の素朴な柔らかさと味を大事にしないとさ。
お、お弁当の時さ。やっぱり卵焼きってあったら嬉しいでしょう。ホッとするの。だから、無いとすごく……」
カスミは、濡れた左手を持ち上げると捲り上げた腕で汗を拭う仕草をした。かと思うと洗い物の手を止め、ふっと上を見上げた。
「あー、だめだ。何話せばいいのか、全然わかんないから、私お弁当のことばっかり……」
「…………」
「……お弁当なんて、作ってあげたこと一度だって無いのに」
流し台からは水が延々と流れていた。かろうじて、それがストッパーになってくれていた。
逃げよう、そんな考えがウィックの脳裏を一瞬かすめていた。彼にはこの空気が酷く耐えられない物だった。
彼は、内側からこみ上げてくる嫌悪感を堪えながら、ゆっくりと椅子から立ち上がる。蛇口の閉まる音が聞こえた。
「……ウィック、私」
「やめろ」
振り向いたカスミの顔に、ウィックは後ろへ下がりかけた一歩を止めた。彼はこの世で嫌いな物を彼女の目に見た。
「……ごめんなさい」
「やめろ」
「私、あれからどうやってあなたに償えば良いか、それだけずっと」
「やめろ!」
「だって、あなたは……」
「やめろと言っているんだ!!」
ウィックは怯えた子供の様に、両手で耳を塞ぎ、その場にうずくまった。彼の中では恐怖だけが渦巻いていた。
それが何かわからなかった。しかし、ただならぬ恐怖に心臓は高まり、額には汗が滲んでいた。身体も震えていた。
そんな時、体にほんのりと暖かい感触を感じた。彼は恐る恐る顔を上げた。
白が眼前一杯に広がる。ぼんやりと遠い景色の様に眺めているうち、ウィックはそれがカスミの肌だと気づいた。
「大丈夫……大丈夫だから……」
彼女は優しく彼の体を抱きしめていた。心地良い温もりが、ウィックの心を少しずつ溶かす様に、胸の中にじんと入って行く。
「一緒に……一緒に暮らしたいの……今までのこと、どれだけ私が埋められるかはわからないけど……出来ればそうしたいと思ってる……」
かねてから嫌悪していたどこかの三文ドラマの様な生臭い光景を頭にふと思い浮かべながらも、彼自身は不思議と嫌悪感を感じなかった。
心は穏やかだった。初めて彼が感じた気持ちだったかもしれない。そして、彼は思った。これが、これが、俺の……。
「……全部、全部イチから、やり直そうよ……ね、やり直そうよ」
かすかに動きかけた彼の指がふと止まった。
「(……イチ……から……)」
カスミの肩越しに、壁に貼られた小さな鏡が見えた。そこには、自分の姿がハッキリと映し出されていた。
真っ黒い身体。額や頬に映える、消えることの無い刻まれた組織の紋章。そして頬のガーゼ……。痛々しい姿だと、思った。
「(……イチ……から……?)」
頭の中にこれまでの事がフラッシュバックする。悪。組織。金。破壊。敵意。憎悪。怨念。嫉妬。殺意。孤独……。
それらが繰り返し繰り返し、頭の中で激しい火花を散らした。頭が割れそうになる。胸の奥から何かがチリチリとこみ上げ、心臓が破裂しそうになる。
「そんなこと……そんなこと、出来るわけが無いだろう!!」
悲鳴に近い声をあげ、ウィックはカスミを突き飛ばした。彼の顔は汗でびっしょりと濡れていた。
「俺が、俺がどんな思いで、ここまで生きてきたか、貴様に、貴様に何がわかる……!」
「ウィック……」
「黙れ! 黙れ黙れ黙れ!!!」
彼は傍にあったダンボール箱を思い切り地面に投げつけた。中から弁当の空き箱が床一面に散らばる。
苦しげに息を吐き、血走った目で見つめるウィックの姿の前で、カスミは震えていた。
「貴様は……貴様は俺の親などでは断じて無い!!」
「な、何を言うの突然……」
「俺の、俺の親は、ろくに考えもせずに俺を生んで、くだらん理由で、邪魔になったから簡単に、子供を捨てるような……!」
ウィックはダンボール箱目掛けて消火器を投げつけた。カスミが悲鳴を上げる。
「捨てた子供の事などとうに忘れて、今も能天気に、バカげた日々を過ごしているようなっ……!」
「ウィック……」
カスミはその時、肩で息をしながら瞳いっぱいに雫を溜めたわが子の姿を見て、言葉を続けることが出来なかった。
「いいか、次に俺をそう呼んだとき、貴様を殺す!」
「…………」
「殺す! 殺す! 殺す! 殺す殺す殺す!!! 殺してやる! 殺してやるぞ!! わかったな!!!」
涙声で、狂ったようにウィックは叫んだ。地面に座り込んだカスミは、目を伏せてすすり泣くばかりだった。
ウィックは傍の調理用具の棚から鍋やフライパンを掴むと次々と地面に投げつけた。
投げる物がなくなると、ウィックは頭を押さえたままうずくまるカスミの姿を一瞥して、そのまま店から飛び出していった。
道を駆け抜けながら、ウィックの心は憎悪に支配されていた。誰も彼もが憎らしく思えた。自分以外の全てを破壊してやりたくなった。
この人間達も街も全て破壊してやる。お前らも、OFFレンジャーも、あの女も……!!! 殺す、殺す、殺してやる!!
強く目を擦り、歯を食いしばりながら、彼は人波に逆らい、憎悪に向って疾走して行った。
「エネルギー充填率、88、89……!」
モニターを眺めるタイガーアイの目は険しかった。
本来ならばまだ先になるであろうブラックキャット団最大の計画の遂行、それを彼はもはや実行直前にまで進めていた。
「(ウィック様は、あの女に騙されて気が動転しているだけだ。お疲れなのだからいとも容易く欺かれるのも仕方がない事だ。
早くBC団の首領として目を覚まして、いただかなければならない。そのために俺は計画を遂行しなければならない。
この世界を破壊し、殲滅し、人間どもを皆殺しに! そして、新たにウィック様がこの国の支配者になる!
そうだ、そのために、そのために俺はいるのだ。ウィック様のために、BC団のために、早く計画を実行しなければならないのだ)」
自分に言い聞かせるように、タイガーアイは微妙に細部は違えど何度も心の中で同じ言葉を繰り返していた。
ウィックの意向を無視して計画の準備を急いでいることが、結局は自分のためであることを必死に自分の中で否定していた。
こんな動揺ことは初めてだった。ウィックが自分から離れていく様な不安が彼の心を包み込んでいた。
それはホランの様に彼がウィックに恋愛感情に似た気持ちを抱いているからではなく、もっと大きな、心が潰されてしまうような不安だった。
──お前は……
まただ。と彼は苛立ちながら頭を振った。どうしても消えないあの声。以前よりも余計ハッキリと聞こえているような気がした。
この国を破壊するためにBC団結成以来の悲願であった『人工巨大地震計画』。それを実現すればウィックは余計な物に惑わされない。
そして、それをこの自分が完璧なまでにサポートする。それが、俺の幸せ。俺の唯一の使命。何度も繰り返す。
「エネルギー充填率、90、91……」
「た、タイガーアイ様、ウィック様がお帰りになられました!!」
駆け込んできた写猫の声に、タイガーアイはモニターを見つめた。エネルギーは98%に達そうとしていた。
遅れて、ウィックがコントロール室にやって来ると、目の前に立つタイガーアイに目を向けた。その目は何者をも寄せ付けないほど、鋭い物だった。
「……貴様はもう破門したはずだ」
ここで諦めては行かない。タイガーアイは拳を握った。
「ウィック様、お喜びください。計画の準備をほぼ完了いたしました」
「……どういうことだ」
「俺の指揮で、皆を急がせました。全てウィック様とBC団のためです。俺は、俺はそのために……!」
「92……93……!」
「さ、さぁ、どうぞ。ウィック様!」
操猫の声にタイガーアイはウィックの背中を押して、実行のスイッチの前まで連れて行った。
しかし、ウィックはスイッチには見向きもせず、タイガーアイに向き直った。
「……計画では実行はまだ先だったはずだ。そして、最終的にそれを決めるのは俺だったはずだ」
「な、何をおっしゃるのですか!」
タイガーアイの胸に焦燥が走った。エネルギーゲージはどんどん100%に近づきつつあった。
「今すぐブラックキャット団の野望を実現しなくて、どうするのですか!」
「まだやる事が残っている。計画の前に様々な場所から資金や金品を確保しておかなければならない」
「そんなことは、破壊してからゆっくりとやれば良い事です」
「それでは遅い。焼失する可能性だって十分考えられるからだ」
「本当にそれだけですか!?」
タイガーアイは思わず声を荒げて叫んだ。
「何だと……?」
「ウィック様は、あの女に未練があるのではありませんか!」
「貴様……!」
ウィックの目が大きく見開かれ、怒りの色がハッキリと映し出された。
「ウィック様、あの女はどこかの組織が送った刺客です。BC団の繁栄を妬む何者かの仕業です!」
「……黙れ」
「ウィック様も、俺もこの世界の人間に復讐するためにここまで努力してきたのではありませんか、それを情が移ってしまうとは……!」
「貴様っ!」
タイガーアイの身体はウィックによってコントロールパネルに向って押し付けられた。
彼のタイガーアイを掴む腕は怒りに震えていた。今にも爆発しそうな怒りの感情が腕を介して伝わりそうになった。
「いつ……いつ俺があの女に情を移した!……いつ、俺があの女に……!」
「ウィック様はどうかされていらっしゃるんです。いつもの、いつものウィック様に戻って欲しいだけです!」
「俺は正常だ。正常だ。何も異常をきたしてなどいない! 初めから正常だ!!!」
『98……99……まもなく100%です!』
実行装置のスイッチが赤く灯った。
タイガーアイは目の端でそれを捕えると、ウィックの腕を掴み、スイッチに向けて押し付けた。
地響きがどこかで聞こえる。人工地震は間も無く本格的に発動する。タイガーアイは最後の砦を守った様な気がした。
ピーッ、ピーッ、ピーッ、ピーッ、ピーッ……
初めは何の音が誰も気づくことが出来なかった。音はモニターのスピーカーから流れていた。
『装置Aに異常発生』。その場にいた誰もが息を呑んだ。そして目まぐるしくその表記は連鎖していった。
『装置Bに』『装置Cに』『装置Dに』『装置Eに』……。まさか、あの地鳴りは……、タイガーアイはスイッチの隣のパネルに目をやった。
──充填率1.0%
「そんなバカな……!!」
タイガーアイは心の底から叫び、頭を抱えた。失敗だった。いや、ただの失敗ではなかった。
各装置に1の力で100の活動をさせたのだ。当然、そんな無茶に装置が耐えられるはずは無かった。これまでの準備を全て台無しにする失敗だった。
「突貫工事をやるから、こうなるんだ……」
ウィックの手がタイガーアイの肩に置かれる。以前にも感じたような、冷たい手だった。
「う、ウィック様……」
「よりにもよって、こんな失態をやってくれるとはな……」
「今、今すぐ……! 今すぐ修正のための……」
タイガーアイが振り返った時、ウィックの身体は音もなく彼に寄りかかった。
「……残念だ。タイガーアイ」
一瞬の間……。彼の身体は血が流れているはずなのに、まるで氷を抱いたようだった。
と、腹の辺りからじわじわと生暖かい温度が広がっていった。
「た、タイガーアイ様ぁぁぁぁ!!!」
改造猫達の悲鳴にも似た叫び声を聞いてから、彼は痛み、そして自分にとって最も尊い者に、『存在否定』を突きつけられたことに気づいた。
「……お前にはまだ教えてなかったか……俺には好きな物が3つあってな……」
「……うぃ……っ……さ……ま……」
背中に痛みが広がる。息が苦しい。言葉にならない声が喉から漏れる。
「一つは金、もう一つは有能な部下……そして三つ目は……」
何もかもがガラスの様に粉々に鳴っていく世界で、彼はウィックからの最後の言葉を聞いた。
「……無能な部下を始末すること。……タイガーアイ、お前はもう、不要だ」
ウィックが腹部から鮮血に染まった爪を引き抜いた瞬間、幹部タイガーアイの身体は糸の切れた人形の様に、力なくその場に崩れ落ちた。
去っていくウィックの後姿に手を伸ばす。しかし、そんな首領の姿は暗闇に包まれた。
──やはりお前は、一人だ。
頭の中に響いていた言葉がハッキリと聞こえた瞬間、タイガーアイの意識は途絶えた。
「はぁ、はぁ……これゼッタイ昨日の晩御飯の分までカロリー消費してるよもー」
完全に文化系人間のレッドが、息を切らせて商店街近くの本屋の前に到着すると、
隊員達は人の目もあって、ここぞとばかりにカッコよく敬礼して彼を迎えた。
「隊長、化猫はこの店の中まで追い詰めたっすよ」
「そ、そう、ふー。あー、のど渇くなぁ……はぁ……えーと、みんな怪我とかなかった?」
「運良く、ゴミ箱を漁っている所をここまで追いやったので被害はゼロっす」
「よーし、じゃぁ、事件はほぼ解決したも同然ってことかぁ!」
「……そういうわけにはいきません」
安心しきりのレッド隊長に、クリームはぴしゃりと厳しい一言を放った。なんだかげんなりする。
「隊長、さきほどここを包囲する途中、3人の悪党を退治しました。コンビニ強盗、空き巣、痴漢です」
「へぇー、それはご苦労だったじゃない」
「最近、各地で犯罪率が飛躍的に伸びています。我々も朝から何件も犯罪者を退治していますよね?」
「それは、師走だからでしょ。年末は何かと入用だし」
「もしやと思って、今日捕まえた3人を調べてみた所、ある共通点がありました」
彼女は手の中にあるお守りの束を彼に差し出した。どこかで見た覚えのあるお守りだった。
「あれっ、これって……OFFレンジャーお守りじゃない? 大人気商品の」
「グリーンが仕入れて販売していたこの商品を、色んな犯罪者が持っていました。どうやらこれは悪の心を増幅する効果があったようですね」
「……えぇっ!?」
「唯一改造猫の中で暴れだした化猫、そしてこの商品を購入していったのも彼だけです」
「じゃ、まさか……僕らもグリーンを通じてBC団の悪事に関与してたってこと!?」
レッドは思わず頭を抱えた。正義の味方にあるまじき行為、なんとしても名誉挽回しなくてはならないと強く思った。
「よし、とりあえずこれ以上、被害が拡大しない様に一刻も早く化猫を取り押さえよう!」
「了解!」
レッド達が自動ドアの前に向い、すぐさま店内に飛び込めるように身構えた。ゆっくりと左右に開かれるドア……。
駆け込もうと一歩踏み出した時、ちょうどそこには、ファッション雑誌を小脇に抱えた化猫が立っていた。
暴れていた所か、まったくもって普通の感じ。ちょっと、買い物帰りに寄ってみた様子にしか見えなかった。
「ん、OFFレンジャーがこんな所でどうかした?」
「え、いや、化猫……だよね」
「当たり前なのさ。こんなおしゃれさん、ボク以外には見かけたこと無いのさ?」
「何とも……無いの?」
「別に? 気が付いたら本屋にいたから、ホラ、今日発売のファッション誌三冊も買っちゃったのさ!」
隊員達の頭上にたくさんの「?」が浮かぶ。念のため、彼を無理やり取り押さえて見ると、
財布の中に、何かのパワーストーンと一緒に、ご丁寧にもOFFレンジャーおみくじが綺麗に折りたたまれた状態で入っていた。
これを落としたわけでもないとなれば、一体どういう事なのか……。
「フフフ……ばぁれてしまったようだな。OFFレンジャー諸君」
聞き覚えのある声に、隊員達は一斉に振り返った。
そこにいたのは、赤い舌をチロチロさせながら不敵な笑みを浮かべるカオン、そして、悪猫の二人であった……。

「そんな奴に構うなっ! 貴様らはさっさと持ち場に戻れ!」
倒れたタイガーアイに寄りかかろうとする改造猫を怒鳴りつけ、ウィックはコントロール室を出て行った。
血を滴らせながら彼は廊下を歩いた。と、正面から二名の灰色猫が向ってきていた。機械仕掛けの彼らはプログラム通り首領に敬礼をし見せた。
二人分やっと通れる通路だったため、行く手が塞がれてしまった元凶に、彼はゆっくりと目を上げた。
ウィックはその二人を突き飛ばすと、何度も何度も壁にその鋼の身体を打ちつけた。
火花を散らしながら彼らがその動きを停止しても、ウィックは機械が部品に戻るまでその怒りを投げつけた。
騒ぎを聞きつけて改造猫が止めに入ろうとすると、彼は大きく身体をよじり改造猫を突き飛ばし、
「何でもない! 俺に構うな!」
と、背を向けて再び歩き出した。
彼は部屋に戻ると、苛立ちの拳を机の上に打ち付けた。
「どいつもこいつも、俺を苛立たせる……!」
机を引き倒すと、彼は右隣のパイプ椅子を掴み、壁を何度を殴りつけた。
あの女、幹部の頃から数年かけて準備してきた最大の計画の失敗、顔の傷、タイガーアイ、改造猫、OFFレン、ケンジ、人間達……。
色んな事が絡まり、ウィックの憎悪の炎は、自分までも焦がしてしまうほど激しく燃え盛っていた。
「 俺の計画を、俺の野望を、俺の人生を、クズどもがっ、クズどもが……!!!」
椅子を扉に向って放り投げると、ウィックは息を切らせながら滅茶苦茶になった部屋を見回した。
何もかも破壊しつくしたと思われる、その中で彼はすがり付く様に部屋の隅に置かれた黒く輝く金庫へと走り寄った。
鍵を開け、中から溢れ出た札束を、彼は愛おしそうに抱きかかえた。彼が自分以外に唯一信じられる物……。インクの香りが少しだけ彼の心を癒した。
「……俺は何一つ間違ってはいない」
誰に言うでもなく、彼はぽつりと呟いた。
「人間どもとこの世界に復讐するために何もかも投げ出して努力してきた……。俺は何も悪くなどない……それを邪魔する奴が悪いのだ……」
インクの香りを胸いっぱいに吸い込む。身体が震えた。
「……皆殺しだ……俺の邪魔をする奴らは全て消し去ってやる……俺一人いればいいのだ……」
札束を抱きしめる力をぐっと強めた。彼の心の中で、二つの物以外全て破壊対象に定められていた。
もう、何かを考える事も嫌悪していた。この二つだけを見ていれば良い。憎しみが全身を取り囲む。
「……俺は何も間違っていない……邪魔者が、多すぎただけだ……」
「イイヤ、キサマハ、スベテ、マチガッテイタ」
聞き覚えの無い声に、ウィックは後ろを振り返った。
「ヤット……ミツケタゾ……ウィック……!」
その全身から溢れ出るとてつも無い、押しつぶされそうなまでの殺意を、彼はしっかりと感じ取っていた。
「だ、誰だ貴様は……!」
札束を抱いたまま、ウィックは後ろへ下がり、注意深く相手を観察した。
黒い身体に蛍光色の模様、そして、額のBC団の紋章。間違いなく、改造猫である事は疑いようが無かった。
「オレヲ……ワスレタカ……」
触れるだけで血の出そうな、刀にも似た長い爪が、指と共にカチャカチャと音を立てて動く。
ウィックはまた一歩後ろへと、金庫を守るように引いた。誰だ。誰だ。頭の中で混乱が邪魔をする。
「オレヲ……コンナカラダニシテ……ワスレタトイウノカ……!」
ウィックの背中に、冷たい金庫の扉が触れた。
その温度のせいなのか、それともこの謎の改造猫に対する恐怖か、身体の震えが止まらない。
「……ナラバ、オシエテヤル」
男の腕が大きく振り下ろされた。その瞬間、床は抉れ、札束の破片が部屋中にまい散る。
ウィックは自分でも気づかないうちに、悲鳴にも似たうめき声を上げた。
「オレハ、オマエラニ、ムリヤリカイゾウサレタ……アバレネコダ!」
「暴猫……!?」
ウィックはその時、やっとこの改造猫の事を思い出した。
数年前、洗脳カプセルに入れる前に逃げ出し、そして行方不明になっていた……。その代わりに操猫を作って……。
「な、何の用だと言うのだ……! きっ、貴様は既に……!」
「キマッテイルダロウ……」
暴猫は再び腕を振り上げた。
「オマエヲ……コロス!」
心臓が大きく跳ね上がった。腕が振り下ろされる瞬間、彼は這いばって金庫の前から離れた。
振り向くと、金庫はまるで粘土細工だったかのように綺麗に抉られている。殺される……! 彼の中で、恐怖心が爆発した。
上手く立つ事は出来なかった。這いずり回って、逃げる事、それだけしか出来なかった。
「オマエハ……アノヒ、オレヲ、ラチシタ」
コツコツと金属音に近い足音が近づいてくるのがわかった。懸命にベッドの下へと逃げ込む。
「ソシテ、オマエハ、オレヲコンナカラダニ、カッテニカイゾウシタ……!」
ウィックの眼前に、ベッドを突き抜けた鋼鉄の爪が垂直に差し込まれた。思わず息を呑み、さらに奥へと這う。
「だ、誰か……!」
それ以上、助けを呼ぶ言葉は出なかった。喉が締め付けられているような気がした。
再びベッドの下まで、剣は突き刺さる。奥へ、奥へと進む。今度は真横に突き刺さる。この身が貫かれるのは時間の問題だった。
……ここから出なければ! 生死を前に、その都度その都度の事しか彼は考えられなくなっていた。
「ニゲタノチ、オレハ、ウスラグイシキノナカデ、フルサトニモドッタ……ソウシタラ、ドウナッタトオモウ」
再び差し込まれた爪がウィックのマントを突き刺した。身体が引っ張られる。焦りでもたつく指でマントの金具を掴む。
「ダレモ、ダレモ、オレヲウケイレテナドクレナカッタ……バケモノニナッタオレヲ、サゲスミ、カゾクマデ……!!」
やっとマントが外れた。ベッドから飛び出る。その直後ベッドは原形をとどめないほど粉々になった。
飛び出た弾みで正面の壁に肩から突っ込む。慌てて壁伝いに立ち上がり、自分の意思よりも恐怖に従う足を懸命に動かし、彼はドアへと向う。
「誰か、誰か……!」
「ムダダ、ヤツラハ、カエッテイッタ……ココニハ、オマエ、ヒトリダケダ」
「誰か……! た、たすけ……」
ブンッ、と言う音と共にウィックの聴覚は一瞬失われた。気が付いた時、先ほどまで自分がいた壁にぽっかりと穴が空いていた。
衝撃波で吹き飛ばされた身体には、痛みが走っていた。瓦礫の中で必死にもがく、だが何に慰めにもならない。視界の中に奴の足元が映し出された。
「……オレカラ、カゾクモ、ナカマモ、ユメモ、オマエハ、ウバッタ……」
ウィックの喉からひゅうと、息が漏れた。
「オマエノセイダ……マエノセイダ! オマエノセイダ!!」
「や、やめろ……! た、頼む……!」
全身の震えが止まらなくなり、掴んだ瓦礫が崩れ、後方へと滑る。
しかし、暴猫は顔色一つ変えず、ウィックの前へと歩み寄ってくる。
「助けてくれ……! か、金なら、いくらでもやる……! 欲しいものがあれば、用意する……! だ、だから……!」
「……ワカッタ」
顔を上げたウィックの目じりの雫に希望の色が浮かんだ時、暴猫は呟いた。
「……ナラバ、オマエノ、イノチヲ、モラオウ」
「そ、ん……な……」
絶望の色を浮かべる彼に向って、暴猫はゆっくりと腕を振り上げた──。
「ハァ……ハァ………ハァッ……ハァッ……」
ウィックは、反対側の壁へ伸ばした腕を力なく落とし、体のアチコチから火花を散らしながら既に動かなくなった暴猫を見た。
まだ幹部だった頃、オオカミ軍団にやらせた改造手術のおかげで手に入れた超能力が、まさかこんな時に役に立つとは思わなかった。
腕が振り下ろされる瞬間、ウィックは無我夢中で手を伸ばし、力を発動させた。途端に暴猫の体は向こう側の壁へと吹っ飛んだ。
物凄い速度で叩き付けた衝撃で、暴猫は壁面に空いた穴からずり落ちたまましばらく動くことは無かった。
だが、奴の腕がピクリと動いた瞬間、ウィックの中に負の感情が噴出し、頭の中がいっぱいになった。それは恐怖でもあり、怒りだったかもしれない。
その次の瞬間には、彼は暴猫の体を浮かしては再び壁へと叩き付けた。そしてもう一度、もう一度、何度も、何度も、何度も…彼は繰り返していた。
暴猫の腕や足が千切れて機械が露出するまで。ウィックの脳内を多い尽くしていた物からの支配から、彼が解かれるまで……。
「だ、誰か……誰かいないかッ!!!」
彼は抉れた地面の上を這いながら、最早開け放たれたとは言えなくなった扉の方に向って精一杯叫んだ。
だが、その呼びかけに応える様な者がいなかった。改造猫は出て行かせた、灰色猫は破壊した、タイガーアイは既に……。
足に痛みが走る。すりむいたのか、捻ったのか、それを確認することすらウィックは後回しにしていた。
「ハァッ……ハァッ……ハァッ……」
ただこの場所から、身の危険から逃げることをだけを考えていた。
死ねば全てお終いだ。俺は死ぬのは嫌だ。死にたくない。死にたくない。死にたくない……!
整わない息を吐きながら、汗と埃に塗れたその体で這いずり回るような無様な姿を晒してでも、彼は生に向おうとしていた。
そしてそれは、彼が今まで一度も見せたことのない姿であった。彼は昔から自分の体が傷つくのを嫌っていた。痛みが嫌いだった。
だから、今まで傷つけられる前に周りの人間を傷つけてきたのだ。だからブラックキャットだって裏切った。だから……
「……だ、だれかっ……」
壁に寄りかかって、彼は弱弱しく立ち上がる。こんな時にばかり他人を頼っている。
こんな時ばかり、あの女の顔が浮かんだ。何故か、彼女に向って彼は助けを求めようとしていた。ウィックは既に装飾を全て剥ぎ取られていた。
あと少し、あと少しでこの部屋から出られる。出られるのだ。助かる。助かる。助かる。助かる。助かる。
「……ッ!」
突然、誰かに背中を軽く押されたような気がした。その直後、じんわりと腹部に違和感を覚え始めた。
胸の奥から何かがこみ上げてくる……。恐る恐るウィックは自分の体を見た。
「……あ……ぁ……っ……」
そこには3本の鉤型の爪が、赤黒い肉片をこびり付けたまま、彼の腹部を突き破っていた。
ウィックは既に息をすることすら出来なくなっていた。現実が彼の全身を圧迫して、押し潰そうとしていた。
「オマエハ……ニガサナイ……」
耳の後ろで、パチパチと火花の音に混じって暴猫の声が聞こえた。
ウィックは首を小さく横に振った。それはあまりにも微かで、単なる震えの様にも見えそうだった。
「オマエモ、イッショニ……ツレテイク……」
「ああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
ウィックが狂気なまでの叫び声をあげた。彼自身が最も嫌悪する場所へ行くに対しての精一杯の抵抗だった。
暴猫はその爪を一気に引き抜くと、ウィックの体は音もなく倒れた。床一面が赤く染まる。
「だ、れ……か……だ、れか……」
既に一ミリも動かない自分の体を、ウィックは這って進もうとしていた。
暴猫は虫けらを見るようにその光景を眺めた。
「ツギハ、ジ、ゴク、デ、ア、オ……ウ……」
そう呟いた暴猫の背中から火花と共に激しい破裂音がした瞬間、哀れな改造猫の復讐は終わりを迎えた。
──お前はウィックに裏切られ、捨てられた……
暗闇の中で、タイガーアイはその声に耳を傾けていた。その声はずっと頭の中に響いていた声と、同じ物だった。
──お前はやはり、一人だ。孤独で、そして……
何故だかとても安心出来る。ここはどこか、その声が誰のものか、そんな疑問すら吹き飛んでしまう。
と、彼の前にあの石像が姿を現した。それはタイガーアイの周囲をぐるぐると回った。
──感じるぞ、お前は、ウィックが憎い、いや、この世の全ての物が憎い……お前が愛する物など最早一つも無い……!
石像の言葉に、タイガーアイの中に、憎しみの炎が燃え盛ろうとしていた。
そうだ、ウィックが憎い。全ての物が憎い。憎い。憎い。憎い……!! この憎しみのためならば何でもする……!
──素晴らしいまでの憎しみだ……! お前にはとっておきの資格がある……! このトキヲ、マッテイタ……!
その声は突然甲高い笑い声をあげた。耳が痛くなる様な声だった。
そして、その声がこだまする中で、先ほどまでの物とは違った低い声が彼の耳元で囁いた。
オ、マ、エ、ニ、キ、メ、タ
その直後、自分の体の中にどろりとした漆黒の闇が流れ込んで行くのをタイガーアイは感じた。
彼の全てを包み込み、自分の体までもが闇に溶けていく。
そしてそれを、タイガーアイは透明な感覚で受け入れていくのだった……。