第111話

『新しい地図を広げて -前編-』

(挿絵:ブルー隊員)

目を開けると、そこには真っ白な世界が広がっていた。これがあの世か、と彼は思う。
だが、徐々に目が慣れてくると、それが白の天井に付けられた電灯の光である事がわかった。生きているのか? 妙な気持ちになる。

「……目が、覚めたの?」

耳元で囁く声の方へウィックは顔を向けた。途端、背中に疼くような痛みが走り、彼は顔を大きく歪めた。

「まだしばらく安静にしてないと……」

カスミの白い腕が彼の身体を布団の上からそっと押さえた。確かに今の痛みの感じでは、下手に動くこともままならない事をウィックは悟る。
彼は若干の屈辱を感じつつ、再び同じように天井の方へと目をやった。ここはどこだろう、疑問が浮かぶ。
なるべく大きく顔を動かさないようにして周囲を見渡す。カスミのいる左側以外、ベッドはコの字型にカーテンで覆われていた。
唯一、カーテンの無い方から確認できたのは薬品棚と小さな机と椅子。天井の広さから考えてベッドはこれ1つだけらしい。病室にしてはずいぶんと手狭だ。

暴猫に背中を刺され、意識を失ったところまでは覚えている。弁当屋なわけがないし、アジト内部にもこんな部屋は無い。
仮にこの女が助けたとして、アジトの場所を知っている訳が無い、ますますこの状況の意味がわからなくなる。まさか本当にあの世なのか……。

「気が付きました?」

ドアを開けて入ってきたのは、白衣を着た女だった。初めは女医かと思ったが、その顔にはとても見覚えがあった。

「ええ、今しがた目を覚まして……」
「なるほど。どれどれ、ええ、どうやら大丈夫そうですね」

ウィックの顔を覗き込んでいるのは、敵であるOFFレンジャーのイエロー隊員だった。
彼女はカルテらしき物を片手に持って、何かを書き込んでいる。そんな彼女の姿を見ているうちに、段々とこの場所の見当が付いてきた。

「ここは貴様らの……」
「ええ、OFFレンジャー指令本部の医務室ですよ」

カルテに目を落としたまま、アッサリとイエローは答えた。

「よりにもよって……貴様らに助けられるとは……BC団最大の恥だ」
「安心してください。我々は場所を提供しただけですから」
「なんだと……?」
「あなたを発見したのは騒ぎを聞きつけた改造猫たちで、処置をしたのはこちらの……」

と、イエローは、隣に座っているカスミの方へ手を向けた。

「私、ぶっちゃけ血まみれにするのは大得意なんですけど、血まみれを治す方は結構苦手で。どうしようかとバタバタしてたら、
ちょうどこの人、元看護師さんだったそうで、我々に色々とご指示をされながらあなたを手当てしてくださったんですよ」

カスミは目を伏せたまま、小さく頷いた。イエローはカルテの記入を終えたらしく、胸ポケットにペンをしまい、

「だから、まぁ敵だなんだとカッカせずに安静にしててくださいよ。基本的にほとんどの事はこの人にお任せしてますから」

そうして、今度はカスミと何やら薬品らしき事について話し始めた。話はすぐに終わり、イエローはそれじゃぁと挨拶をして部屋を出て行く。
ドアの閉まる音が部屋の中でやけに大きく響いたような気がした。響きの尾がゆっくりと消え、再び部屋に静寂が訪れた。

「……一人にしてくれ」

目を閉じたウィックが、吐息混じりに呟く。

「でも……」
「……何かあった時は呼ぶ……背中が痛むだけで、他は特に問題無い……」

カスミは黙っていた。そして、少なくとも聞こえる感じでは、立ち上がる様子は全くないようだった。

「俺は眠りたいんだ……貴様がいたら、気が散る……」
「じゃぁ、カーテンを……」

椅子が床に擦れた音に続いて、ベッドのカーテンがサッと閉められたのが聞こえた。
薄目を開け、乳白色のカーテンの向こうを見ると、椅子に座りなおしているらしいカスミの影がぼんやりと映し出されていた。

「……貴様は俺の言った意味を理解できていないのか」
「だったら……」

椅子をさらにベッドから離したのか、カスミのシルエットが一回り小さくなった。
ひどく小馬鹿にされた気がして、ウィックは小さく舌打ちをした。

「貴様……店はどうした……」
「しばらく休業の貼り紙を」
「……バカか貴様は」
「付いて、居たいんです」

小さなその影とは不釣合いな、芯のあるカスミの声は、ウィックが続けかけた言葉を断ち切ってしまった。

「静かに、してますから」
「……勝手にしろ」

ウィックは小さな影から目を背け、再び目を閉じた。

















目を覚ますなり点滴が取り外され、ウィックには朝食として綺麗に剥かれたリンゴが差し出された。
カスミはそれぞれに爪楊枝を刺し、彼の口に運ぼうとしていた。だが彼はそれを皿ごと奪い取り、そっぽを向いたまま手づかみで全てのリンゴを平らげた。

「思ったよりも経過は順調ですね。もう少ししたら、歩く練習しましょうか」

包帯を取り替えながら、イエローは壁の方へ目をやったままのウィックに声をかける。だが彼は相変わらず黙り込んでいた。
そんな中、やっと新しい包帯が巻き終わり、彼がゆっくりと背中を倒そうとした時だった。

「ウィック様、お体の方は大丈夫でしょ~かぁ?」

何気なく声のした方に目を向けると、思わずウィックは目を見開いた。
てっきり、猫猫や写猫といった類の奴が来たのだと思ったのだが、そこにいたのはグリーンを改造して作ったスパイ猫カオン、
そして、ホランを改造して作った悪猫の二人であった。悪猫はともかく、カオンの様な裏切り者をOFFレンが招き入れること自体彼には驚きだった。

「心配しましたよウィック様。ご無事で何よりです」
「……あぁ……」

しゃがみ込んで手のひらを包み込むようにして握ってくるカオンには目もくれず、ウィックはチラと傍に立っているイエローの顔を盗み見た。
その表情は裏切り者を見る目でもなければ、邪魔者が来たという目でもなかった。
まさか、OFFレンジャーはコイツを受け入れてしまっているのだろうか、前々から能天気な奴らだとは思っていたが……。様々な考えが脳裏を過ぎる。
……だが、結局正解は向こうの方から発表してくれた。

「なーんちゃって☆」

長い舌をだらんと垂らして、カオンはニッコリと笑った。
ウィックは突然彼の言いだした「なんちゃって」発言の意図がまったく掴めず、思わず表情を強張らせた。

「やーっと、ネタばらしが出来ましたよ。ホント、もうこの数ヶ月疲れたのなんのって」
「……どういう意味だ」
「こーゆー意味です」

カオンはゆっくりと立ち上がると、額のBC団の紋章に指を近づけると、そっと紋章の端の部分を掴んだ。
すると、指を下の方へ下ろすなり、紋章が捲れ上がり、シールの様にペリペリと剥がれ始めたのである。

「!?」

基本的にBC団の額の紋章は、改造時にタトゥーの様に刻み込んでいるため、このように取れることは100%無い。
だが、ここではその紋章がいとも簡単に紋章が剥がれた。そして、カオンの身体からカメレオンの模様が消え、元のグリーンの姿へと戻っていったのだった。
ここまで見せられれば、ウィックの中でも容易く結論付けることが出来きたようで、彼はフーッと溜息の様な息を吐いてグリーンを睨み付けた。

「……まさか、こちらの方が逆にスパイされていたとはな……」
「ご名答!」

グリーンはわざとらしく拍手をしてみせると、傍のイエローの方にもニッコリと微笑みかけた。

「私達も全然知らなかったんですけどね、グリーンから事実を聞かされたときはそりゃもう大騒ぎでしたよ」
「そうそう、レッドなんか、食べてたミカンを喉に詰まらせちゃって大変でしたね」
「ちょっと待て……だか貴様は……洗脳装置に入れたはずだ」

険しい顔をしたウィックが、言葉を挟んだ。大きな事実がわかったとはいえ、まだまだ不可解な点が多すぎた。

「ええ、確かに入れられましたよ。ずいぶん窮屈なんですね、あれ」
「……洗脳は、完璧だったはずだ」
「このBC団マークのシールのおかげですよ」

グリーンはポンと、ベッドの上にふにゃふにゃになってしまったシールを投げた。

「私が拉致されて目を覚ましたのが、改造部屋でしたっけね。そこにいたのは私の改造猫デザインを考えていた変猫、
改造猫にされるー!なんて、最初はガクガクブルブルしたもんでしたが、話を聞くと経費削減で変猫の能力で改造猫を作るつもりだったそうですね。
ということは、この体にメスが入れられることはnothing。でも、洗脳装置には入れられてしまう。で、どうしようかと悩んだ時です」

グリーンはコホンと咳払いをして、ニッと口角を上げた。

「変猫に話しかけてみました。天気のこととか、食べ物の話とか、何でも無い他愛の無い話です。で、ある話になりました。
色恋の話です。変猫は渋りましたが、どうせ洗脳装置に入れられて忘れてしまうんだからってことで無理やり聞き出しました。
そしたらまぁ、ビックリ。私のよぉく知ってる“とある人”に秘かにホの字ということだそうで。これにはビックリしましたね」
「……誰だそいつは」
「まぁまぁ、最後まで聞いてくださいよ。私が長台詞を喋るの久々なんですから……で、それをエサにちょっと取引させてもらいましてね。
“あなたのその恋の成就に協力するから、洗脳装置を無効化できるように何とか出来ないか”といった風に。向こうは拒否しましたが、
さもないとお宅の首領にバラすと言ったら慌てましてね。まぁ、BC団の改造猫が“あの人”に恋心を抱いたと知れたらねえ……。
で、渋々飲んでくれました。洗脳装置無効化のシールを作ってもらい、私の体を改造猫にペイントし、洗脳装置に入り……とまぁそんな感じですかね」
「……それで、ついでに逆スパイになる事を思いついたわけか」
「その通り。敵をだますには味方からと言いますから、全身全霊で悪の改造猫にならせて頂きましたよ」

ウィックはフッと弱弱しく鼻で笑ってシールを手に取った。変猫の能力で実体化させただけに、あまりにも薄っぺらい粗末な出来だった。

「ならば……悪猫も貴様の監視下にあったと言う訳か」
「ほほお、よくわかりましたね」
「……失敗に終わった大地震計画を思い返してみれば判り切った事だ……ほぼ100%まで行っていたエネルギーが、実行直前に突然1%に減少するとは。
タイガーアイが粗雑な計画の進め方をして装置に不備が出たのかと思ったが、今考えてみればやはり妙だ。供給源をいじる以外には……」

ウィックはグリーンの横に立ったまま微動だにしない悪猫の方へ目をやった。

「悪猫は人間の悪の心を増幅させ、それを膨大なエネルギーに変換出来る……貴様が指示させたんだな……」
「その通り。変猫にちょーっと貢物をしました所、こちらも渋々。まぁ、ホランはすぐボロが出そうなので、
首領以上に私の命令の効力が絶対な様に半洗脳状態にさせておきましたけど。まぁ、私はこちらのホランさんの方が物静かで、
初めてこの人に対して好感が持てたんで、もうちょっとこのままにさせておきますけど。別にいいですよね?悪猫」
「……はい、仰せのままに」

悪猫は事務的な口調でそう答えた。彼のあまりに冷たい態度、口調、佇まい、本来意図していた冷徹さとは少し違っていて、
どこかロボットに似ているような気がしていたのはそのせいだったのかと、ウィックは初めて悪猫の印象に対して合点が行った気がした。

「とまぁ、以上がネタばらしになってますけど、ご理解いただけましたでしょうか? 何か質問があれば答えますが」
「……子猫の奴はどういう」
「あれは、私も何でああなったのかよくわかりません」
「……やはりな……」

ウィックは急にどっと疲れが圧し掛かり、再び眠気が周囲を取り巻き始めた。自分の愚かさを受け入れるのが耐えられなくなったのかもしれない。
イエローはすぐさま彼の変化を察知したのか、背中を倒そうとする彼を手伝って、横にしてやった。

「あれ、またまたお休みですか? 私まだ大して喋ってないんですけども」
「……聞いたとしても、もう意味の無いことだ……」
「ま、そうですね。もうブラックキャット団は終わってしまったようなもんですから」
「…………」

突如カーテンが閉められた。部屋からグリーンが去り、イエローが去っていった。
足音が聞こえる。やけに大きく聞こえた気がした。ウィックは、強く目を閉じた。

















瞼を開くと、そこはブラックキャット団アジトの執務室だった。だが、今のアジトではない。
正面の壁面に高く掲げられたBC団の紋章、そこに付けられた小さな点滅ランプ、冷たさが身体に染みてくるような石の壁、床、
それらを薄暗く照らしている蝋燭の青白い炎が揺らめいている。この光景に彼はとても見覚えがあった。

「よくやったウィックよ……これまで数々の者を迎え入れたが……最後まで残ったのは貴様ただ一人だけだ」

ランプの点滅と共に、低い声がスピーカーから流れ出した。その声を聞くなり、ウィックは心臓が大きく跳ね上がった。
これはあの時の……俺が、ブラックキャット団の一員として認められ、最高幹部となった……あの時そのものじゃないか……

「どいつもこいつも、口では人間どもを憎んでいるだの、復讐したいだの簡単に口にする……だが、貴様だけは違う」

14で施設を脱走して、とある場所で偶然出会った男、それがブラックキャット団の訓練生だった。
悪の組織……本当にそんな物があるのか、子供騙しのテレビか何かじゃあるまいし、くだらないと思った。
だがもし、本当にそんな組織があるならば……この世界のどこかにいる憎き二人に復讐することが出来るなら……

「……貴様には素質がある……私の下に就く者には最も必要な素質だ……」

厳しい訓練を終え、次々と人間は減っていった。だが、それでもウィックは最後まで残り続けた。心の中の憎悪だけが彼の活力だった。

「……立派な悪として生まれ変わることの出来る素質が……な」

ランプから突如光線が放たれた、あまりの眩しさにウィックは思わず目を閉じる。
熱い。顔の表面が焼けるように熱かった。焦げ臭いような臭いまでした。思わず顔を手で覆う。

「……顔を上げろウィック。貴様はこの瞬間から我がブラックキャット団の一員となったのだ」

熱さが引き、ゆっくりとウィックは顔を上げた。ふと磨かれた石壁に映った自分の姿に目をやる。額や頬に刻まれた赤と黄色の三角模様。
やはりそうだ、これは俺が最高幹部としてブラックキャット団最高幹部として迎え入れられた日……。誇らしい気持ちが甦ってくるようだった。

「……その紋章がある限り、貴様はブラックキャット団の一員であることを誇りにし、立派な悪として成長する……」

この紋章を顔に刻んだ時、ウィックは人生の全てをブラックキャット団に、悪そのものへ捧げようと強く決心をした。
心の底から、立派な悪になることを望んだ。もう誰も自分を止めることなど出来ない。人間共に復讐を。人間どもに絶望を……。

「そして、いずれ……貴様は最高の悪へと生まれ変わることが出来るだろう……」

最高の悪……ブラックキャットは彼にそれを望んでいた……。その言葉が出る度、まだ自分は最高の悪ではないのだと悟った。
だが、最高の悪とはどういうことを指すのか、ウィックにはその言葉の意味が判らなかった。
組織を発展させたとき? 権力を手に入れた時? それとも世界征服をした時? 色々と考えた事はある。

だが、ブラックキャットが言い聞かせるようにして自分に語るその言葉を聞いていると、そのどれでもない事だけはおぼろげに理解することが出来た。
最高の悪……俺にはもう……それになることの出来る資格はもう無いのだろうか……。

そう思ったときだった。スピーカーから突如割れんばかりのけたたましい笑い声が響いた。ブラックキャットの物ではない。

狂おしいほど甲高いそれは、ウィックの頭を締め付けるように笑い続けていた。


『、、、、サ、、、、、、、、、、、ミ、、、、』


笑い声に混じって何か別な声が耳の中へ流れ込んでくる感覚をウィックは覚えた。

何と言っているのか聞き取ることは用意ではなかった。しかし、身体の中から這い上がってくるような恐怖だけは本能的に感じ取れる。


『、、、、キ、、、、、、、ハ、、、、、、、、ダ、、、、、』


笑い声はますますその音量を増し、ウィックの脳をさらに締め付けた。

だんだんと視野がぼんやりとし、感覚が遠くなって、身体がふら付くのがわかる。


「(……な、なんだ、これ……は……)」


立っていられなくなり膝を突いた時、彼の視界に何者かの黒い足が見えた。


顔を上げ、それが誰の物が判ったとき、ウィックは全身の血の気がさっと引いていくのを感じた


「あ、暴……猫……」


憎悪に満ちた眼で自分を見下ろす暴猫を前に、彼はあの時の恐怖が再び甦った。


その殺意の塊は、彼の絶望の表情をその銀色の爪に反射させながら、腕を振り上げた。


笑い声が今度は脳そのものを鋭く突き刺し始める。全ての感覚は最後の瞬間のために曖昧へと変容しつつあった。


刃がウィックの体を貫こうとした瞬間、彼はようやく部屋中にリフレインしているその言葉を、ハッキリと捉えた。


『キ、サ、マ、ハ、モ、ウ、ヨ、ウ、ズ、ミ、ダ、!』

















「ウィック様……!」

目を見開くと、ウィックは今の出来事が全て夢だと気づいた。

「だ、大丈夫ですかニャ? 今さっき、すごくうなされてましたニャ……」

そして、遅れて全身が異常なまでの汗で濡れていること、そして傍に心配そうな顔をした改造猫らの姿があることを彼は理解した。

「ご気分が悪い感じでしたら、OFFレンを……」
「……構わん」

ウィックは写猫の言葉を遮ると、はだけた布団を目の上まで被り、そのまま壁の方へと目をやった。

「あ、あの。ウィック様はもう聞かれましたか、カオンのこと……」
「……あぁ」
「そうですか。えーと、では……何か我々に出来る感じのことがあれば……」
「……構わん」

ウィックの声は布団の中で篭っていたが、どこか強い拒絶の意志のようなものを改造猫達はハッキリ感じた気がした。
互いに顔を見合わせる改造猫らの表情には困惑の色が浮かんでいた。彼らの中では、ウィックへかける言葉がこれ以上見つからないようだった。
しかし、そんな中を割って入ったのは、ただ一人だけ。青い体に黒の縞模様をつけた改造猫、影猫であった。

「……ウィック様。どうぞ、遠慮なくおっしゃってください」

すがるような目で影猫はウィックに声をかけたが、いくら待っても返答が帰って来る事はなかった。
影猫は我慢できなくなった様に、そのシーツに触れようとした。だが、何者かがその手をそっと掴んだ。猫猫だった。

「ウィック様。オレ様たちは、もうしばらくここにいますニャ。だから、何かあったらいつでも呼んでくださいニャ」

彼はそう言って、まだ何か言いたげな影猫の手を引いて、他の改造猫と一緒に部屋を出て行った。扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。
そこでようやく、ウィックは布団から顔を出して、天井の方にぼんやりと目を向けた。

「…………」

相変わらずの白さに、なんだか目を背けたくなって彼は開いたカーテンの方へ視線を移す。
そこには、こちらを穏やかな眼差しで見つめているカスミの姿があった。

「…………」

ウィックはカスミがあそこに座ったのを知ってから、ずっと彼女があのままずっとその場所で自分を看取り続けていた様な気がした。
もちろん、そんなことがあるはずがないことは彼自身にもわかっていた。
だが、あまりにもカスミの表情が安穏としていたので、突然に彼の中で、嫌悪の情が綿毛の様に散らされて……。

「……出て行け」

ウィックは務めて無感情に言い放った。

「でも……」

彼女は答えた。

「……まだ怪我が」
「そんなことはどうでもいい」

ウィックは鋭い目をカスミに精一杯向けた。

「どうせ、俺も……ブラックキャット団も、おしまいだ」

彼はそう呟くと、再び布団を頭から被った。

「……いいから、出て行け」

ウィックはそれきり目を閉じて、とにかく眠ろうとした。
だか、そんな彼の耳には、カスミが去ろうとする足音、もしくは椅子に座りなおす音、どちらも聞こえることはなかった。



















──何となく目が覚めてしまった。もう電気が消されてしまったようで、辺りはすっかり薄暗くなっている。
だが、そんな状況に目が慣れてきたとしても、相変わらずウィックの視界の中あるのは四角に区切られた空間と、天井だけであった。

「…………」

長い時間眠り続けていたせいもあるだろう、再び眠ろうにも彼は完全に目が冴えてしまっていた。
だが、する事など何も無い。物音一つ聞こえない。この暗く狭い空間の中には、孤独と退屈だけが詰め込まれている。
そして、皮肉にもこの状況が自分そのものを表しているような気までしてきて、彼はふっと自嘲じみた声を漏らした。

「っ……」

体の向きをゆっくりと左の方へ変えてみると、思いのほか上手くいった。だが、やはりまだ少しだけ刺すような痛みを感じる。
動きづらい左腕をカーテンの方へ伸ばす。少しでもこの息苦しい空間に風穴を開けたかった。
しかし、僅かに距離が届かない。指先は虚しく空を切るばかりだった。苛立ちも相まって横向きになった体を無理やり前に倒してみる。

「!」

と、突如、背骨へ垂直に杭が打ち込まれたような激痛が走り、思わずウィックは顔をゆがめた。あまりの痛みに声すら出なかった。
虚しく振り下ろされた左手がベッドの脇に触れた。俺には永遠にここから逃げる術は無いのか、ずっとこの世界と共に生きていくのか、
そして、その世界を吹き飛ばすはずだった『破壊』という最後の希望すら、もう彼の前には残されていない。
現実から目を逸らしてくれる金も無い。改造手術、そして今自分を苦しめているこの怪我、肉体すらもう傷だらけ。

「……っ」

彼は顔をシーツに埋め、強く唇を噛んだ。惨めだ。あまりにも惨めだ。
ここから出ることはもう二度とできないのだ。いや、もしかしたら初めから出ることなど不可能だったのかもしれない。
──ウィックは硬く瞼を閉じた。そうしないと誓ったはずのものが、自分が一番嫌悪していたものが現れてしまいそうだった。

「………ぅ……っっ……!」

堪えようとすると、“それ”は、ますます彼の胸に収まりきらないほど溢れて、止まらなくなっていた。
シーツを掴む手が震えた。それは恐怖のせいでもあり、絶望のせいでもあり、孤独でもあり、悲嘆でも、挫折でも……。

自身がとっくの昔に克服したと思っていたそれらが、実は単に目を背けていただけだったということを、ウィックは悟った。

──オレタチハ、オマエノ、ソバニ、ズット、イタゾ

必死に避け続けたそれらが、今になって一斉に彼に襲い掛かってきたことに、ウィックは、ただ怯え、嗚咽するしか出来なかった。
目をつぶり、耳を塞ぎ、立ち向かう術すら知らないまま、ここまで一人で生きてきた彼には……。

「どうしたの……」

その時、柔らかい光がカーテン越しにウィックの右頬を照らした。
霞んだ視界の中で、ゆっくりとカーテンが開き、細く長い光が差し込む。

「ウィック……泣いているの」

そこには、眩い灯りを背に立つ、カスミの姿があった。白く輝く輪郭が、羽毛の如く舞う塵埃が、彼の瞳に映った。
間接照明か何かの光だったのだろう。だが、ウィックには、それがまるで彼女自身が煌めいているかのように思えた。

「…………」

ウィックは、自身が嫌悪している自分の弱い姿を見られていることすら気づかないまま、カスミを見つめていた。
あまりにも、眩しい。彼女の体がだんだんと近づく。涙が零れる。彼女の手が、ウィックの頬に優しく触れた。

「……だいじょうぶ」

その瞬間、ウィックの身体の奥から、深く白い息が吐かれた。
暖かいその細い指から伝わるものが、彼の中の何かをゆっくりと溶かして行った様な気がした。

「……だいじょうぶだから、だいじょうぶだから」

その言葉をきっかけに、ウィックは、思わず彼女の身体にしがみ付き、嗚咽した。
だが、その涙は、先ほどまでのものとは違っていた。苦悩でも、絶望でも、憐憫でも無かった。

「……っ……ぅ……っ……」

次から次へと涙が溢れて止まらない。まるで、彼の胸の中の全てを洗い流そうとしているかの様であった。
そして、そんな幼子を、カスミは静かに、そして優しく受け止めていた──。
















翌朝。
イエローは医務室にやってきてから、ウィックが自分の指示を大人しく聞くようになった事に思わず面食らった。
無論、口は悪いし、態度も悪いのだが、それでも一応素直に従ってくれる。昨日まではずっとふて腐れていたというのに。

「えーと、経過は良好の様なので。今日ぐらいから、そろそろリハビリ始めてみましょっか?」
「……あぁ」
「朝食の後にします? それとも昼過ぎからにしましょうか?」
「私はお昼の方が良いと思うな」
「……貴様に聞いている訳じゃない……勝手に答えるな」

ウィックは、自分より先に返事をしたカスミの方にチラリと目をやって、ぽつりとそう漏らした。
しかし、これまでの突き放すような冷たい言い方とは少しだけ違い、どこかたしなめる程度にまで柔らかくなった様にイエローは感じた。

「……リハビリは……朝飯の後だ。貴様らの世話になるのはうんざりだからな」
「はぁ……じゃわかりました」

イエローは怪我のせいですっかり気が弱くなったのだろうかと推測をしてみた。だが、部屋の隅に座って微笑んでいるカスミの表情や、
そんな彼女に対して少しだけ口数の増えたウィックの様子を見る限り、少なくともそんな事では無いのだろうなと言うことをおぼろげに悟った。

「では、朝食の後ということで。カスミさん、よろしくお願いしますね」

イエローはそう言って部屋を出た。まだ何となく不可解さが残っていたが、
とりあえず、彼の機嫌が良いうちに、色々と済ませたほうが良いかと自分の中でそう納得させた。
早速、シルバーを叩き起して朝食を作らせなければ。イエローの足は隊員の部屋の方へと向けられる。

「……オイ」

彼女が角を曲がろうとした時、後ろから声をかけてきたのは、未だ本部に宿泊し続けてる聖獣、白虎であった。

「例の怪我人の様子はどうなっている」

振り向いたイエローに、彼は声を潜めるようにして尋ねた。
そういえば、昨日もやけにウィックの事を心配していたなと思いつつ、彼女は簡潔に答えた。

「順調ですよ。感染症の心配も無いみたいですし、今日からリハビリも始めます」
「……そうか」
「心配なんですか」
「いや……」

白虎はそう言って、どことなく不安げに目線を脇に逸らした。

「そりゃまぁ、私まだ学生で? 医師免許持ってないですし? ぶっちゃけ違法行為してますよ? でも、知識はちゃんとありますから!」

自信たっぷりに答えるイエローだったが、再び目を上げた白虎の瞳に彼女は驚いた。彼の眼差しは、どこか真剣さを帯びていた。

「あいつについて、聞きたい事がある」
「……わかりました」

イエローは彼に同調するように表情を引き締めて、重々しく頷いた。

「実は私にもウィックがホモかどうか判断がつきかねています。でも、BC団は男ばかりなので、もしかしたら白虎さんが気に入られる可能性も」
「ちっがぁーーーーう!」

真剣な目で答えたイエローに、白虎は思わず大きな声をあげて反論した。

「あれ、違うんですか? ホラン君と同じホワイトタイガーだから、ひょっとして白虎さんもそうなのかと」
「俺は聖獣だ! 例え男だろうが女だろうが、恋愛ごとにうつつを抜かすなど、聖獣としてはあってはならないことであって……!」

白虎は顔を赤らめながら、聖獣はかくあるべきかを機関銃の如くまくし立てていた。
だが、ある所を境に、そこまでご立派な聖獣である自分が、現在進行形で取り乱している事に気がついたらしく、
急に目を泳がせたかと思うと、彼は誤魔化す様にそっぽを向いて、小さく咳払いをした。

「……とにかく、俺が聞きたいのはそんなことじゃない。もっと真面目な話だ」
「はぁ」

ずいぶんともったいぶって何を聞きたいのか、早くシルバーに朝食を作らさないといけないのに。
めんどくさそうにイエローはこめかみの辺りを掻いた。

「数日前に、変な猫達が例の男を運び込んできた時、血だらけになった奴の姿を見て、俺は少し気になった」
「やっぱり……今しがた口ではああ言いながら……」
「“気になった”というのは、そういう意味じゃない!……あぁ、もういい。率直に聞く」

白虎は周囲を窺うように辺りを見回し、そして誰もいないのを確認すると、彼はようやく話を切り出した。

「……奴のいるブラックキャット団とはどういう組織だ」
「え?」
「いつごろから、誰が、どこで、何を目的に、どんな奴と作ったのか。教えてくれ」
「どうしてそんな事を」
「訳は、後だ」

イエローは『さては、恋人候補の査定ですか?』などと言おうとしていたが、彼女はさすがにその様な言葉を出せなかった。
あまりにも険しく鋭い、琥珀色をした白虎の眼が、それ以上とぼけた事を言わせないことを、ハッキリと彼女に伝えていたからだった。

これまで、ホランに似ていたり、朱雀とケンカばかりしていたり、妙に几帳面だったりと、小物っぽさを感じていた彼女であったが、
今の彼の瞳からは、何千年も生きてきた聖獣としての風格を感じると共に、そのあまりもの崇高さから、イエローは微かな畏怖すら感じていた。

「わ……わかりました。とりあえず私の知っている範囲内の事で良ければ……」

イエローはそう言って、白虎にブラックキャット団の基本情報を説明していった。
初めはどこか別な街にいたこと、数年前に尾布市に移って来たこと、その際はブラックキャットと言う首領がいたこと、
そいつがメカチップだったこと、世界征服を企んでいること、そして今はウィックが新たに首領の座についていること……。
どれもイエローが思うに、大した内容ではなかったが、白虎は最後まで真摯な態度でそれを聞いていた。

「……なるほど」

話を一通り聞き終えた白虎は、そう呟いて思案するように口元に手をやった。
一体何を考えているのか、あの説明のどこに考えるような所があるのか、イエローの中にじれったさが募った。

「もういいですか。次はこっちの質問に答える番ですよ」
「ん……」

白虎は目を上げて、一瞬躊躇ったような表情を浮かべた。
すると、彼はすぐさまその色を打ち消すかのように、俯きがちに微笑した。

「いいだろう。聖獣として、嘘をつくわけにもいかないからな」

そう言って彼は先ほどと同じように、真面目な顔でイエローをじっと見つめた。

「……奴らの額には、変な模様があるだろう」
「あぁ、あの派手な」
「だが、奴にだけ頬にも同じような模様がある」
「あ、でもそれは彼だけじゃ……」
「びゃっこ~!!」

突然、白虎の姿が消えた。かと思えば、瞬間移動でもしたかのように玄武が姿を現した。

「見て見て白虎! エコの描いた絵ったらすっごくおかしいんだよ……ってあれ?」

幼稚園児のようなヘタクソな絵を手にしながらはしゃいでいた玄武は、床の方へ目をやった。
イエローも同じように目線を下げて見ると、そこには泡を吹いてうつ伏せに倒れている白虎の姿がちゃんとあった。

「もー。だめじゃないかへびくん。また勢いで白虎に噛み付いちゃったの?」
「しゃー」

どうやら、玄武の尻尾のヘビがいつものように白虎に噛み付いてしまったらしい。
毒があるのか何なのかはわからないのだが、すっかり白虎は気絶してしまっている。これも毎度の事だ。

「あーあ。また僕が運ばなきゃあ……よいしょっと」

玄武は白虎の右腕を首の後ろに回してその身体を立たせた。そんな中、主犯のへびくんだけはどこ吹く風で、右へ左へと爽やかに揺らいでいた。

「ここは僕に任せていいよ。あの人の朝ごはん作らないとだめなんでしょ? 急がないとー」
「あ、そ、そういえばそうでした。それじゃ後はよろしくお願いします」

そこで、イエローはようやく自分の目的を思い出した。白虎が何を言うつもりだったのか少々気になるが、
意識が戻ってからでも遅くは無いだろうと、後を玄武に任せて、イエローはすぐさまシルバーの部屋へと急いだ。














その日以来ウィックは、隊員たちも目を見張るほどリハビリに対して努力を続けていった。
そうしてイエローが思っていたよりも早い期間で、壁伝いにではあるが、彼は一人で歩行が出来るくらいまでになった。
それもこれも、幸い刺されたのが腹部の左下部であったため、暴猫の爪が頚椎や致命的な臓器から外れていたおかげだった。

「ウィック、無理しなくて大丈夫だから」
「……俺の体は俺自身がよくわかってる……貴様は黙っていろ」

隊員達はいつも医務室の側にやってくると、カスミに憎まれ口を叩きつつも、廊下の壁に手を付いて、
端から端まで3メートルあまりの距離をゆっくりと往復するウィックの姿を見かけるようになっていた。
そして皆が見かけるたびに、彼の危なげな足取りは徐々に正されて行き、彼の表情も少しではあるが、穏やかな物へと変化して行った。

──よかった。これであの二人も本当の親子になりつつあるんだ。

リハビリ風景を見かけるたびに、口には出さないが隊員たちは皆そうやって安堵していた。
母親の子を思う愛情、そして愛情を知らない子供が初めてそれに触れた。親子はやっぱりこういう物なのだ。
隊員たちには、リハビリ風景を通して、ずっと自分達と戦ってきた相手が、本当の親と一緒に暮らしている幸せな光景が目に浮かぶようだった。

改造猫達も同じ思いを抱いたようで、昼から夕方の間にやって来て、ウィックのプライドを刺激しないよう、
物陰からリハビリ風景を覗いては、皆一様に安心したような表情を浮かべて、帰っていくのだった。

そんな生活がしばらく続いた頃、ウィックは病室を出て、地下にある倉庫を改装した空き部屋へと移動することとなった。
ほぼ歩行にも日常生活にも支障が無いまでに回復した際、ウィックがこれから母と始めるであろう新しい生活の準備として用意した場所だった。
それは隊員たちからの気遣いでもあり、カスミからのお願いでもあった。当の本人は、多少文句めいた事を言っていたが、結局の所大した反抗は見せなかった。

二人の部屋は10畳でタタミ敷き。中央には円卓、部屋の隅には小さな電気ストーブと、電気ポット。折りたたまれた布団が2人分。
今風の物といえば、空のダンボール箱の上に乗せている20型のテレビ。本当にただそれだけだった。
食事の際に、台所や冷蔵庫、食器などは本部の物を使わせてもらっていたが、それ以外、カスミは隊員達の前にほとんど姿を見せなかった。
恐らく、これからなるべく自分の手で彼のこれまでの不幸を埋めていく覚悟が彼女をそうさせるのだろうと皆は思った。

また、時々、隊員達は適当に作った用事にかこつけて部屋の様子を調べに行ったりもした。
しかし、隊員達はほぼ決まって同じ場面にばかり遭遇していた。それは、湯のみを置いた円卓を挟んで、
終始ムスッとしてTVを見ているウィックと、そんな彼にカスミが色々な事を話しかけている光景だった。
そして、隊員達はいつもそんな光景を目の当たりにしては、笑いたいのを押し殺した顔で部屋を出ていた。

「いや~、カスミさんと話してるとき、ウィックが何度もチラチラこっちの様子窺ってんだもん」
「耳がピクピク動いてましたよ。あれはテレビの内容頭に入ってないんじゃないですかね」
「湯のみの茶柱が立ってたですー!」

隊員達は次々と素直になれないウィックの様子に気づいては、これからの彼らの生活が現実の物として見えてきた事に胸躍らせていた。
きっと純粋な母の愛に、彼もいつの日か素直になって、親孝行する時が来るはずだ。なんという感動。全米が泣く事間違いなし。
そして、隊員達の予想は当たったらしく、ある日を境に二言三言だけ、会話を交わしている光景をよく見かけるようになった。

「……腹が減った」
「あら、ホント。もう6時半」
「わかったならとっとと持ってこい……」
「そうね。じゃ、ピンクさん、パープルさん、ちょっと台所お借りします」

とまぁこんな具合である。

……もちろんその間もリハビリは続け、ウィックは階段の上り下りも出来る様になった。
身体を貫通するほどの大怪我も、イエローの尽力もあって、よほど無理な事をしなければまず痛みもしなくなっていた。
残るは抜糸だけ。すると、隊員達の間には、新居となる物件情報や、ウィック用の求人情報を探す者も出始めた。
いよいよ、新たなスタートを切ることになるウィックとカスミ。指令本部には早くも二つの意味で『春の気配』が近づいて来ていた。




















「……では、包帯を取りましょうか」

そしてやって来た抜糸の日。
病室のベッドの上に座り、ウィックは少しずつ少しずつ、イエローの手で包帯を解かれていった。
傍でカスミが見守る中、彼は険しい表情でじっと床の上に目を落としていた。

「はい。じゃ、ガーゼ剥がします」

包帯が取られると、背中と腹の両面にガーゼを貼った箇所が見えてくる。
それらを慎重にはがすと、紺色の毛並みが楕円形に刈り取られている中に、生々しい7センチほどの手術跡が現れた。

「……そしたら、抜糸はじめますね」

イエローはそう声をかけたが、ウィックは何も答えないまま、下へ視線を落としていた。

「多分大丈夫だと思いますけど、痛かったら言って下さい」

そう言ってイエローは傷口の結び目をハサミでぷちぷちと切っていった。
そうして、傷口から生えているかのようになった糸を1本ずつピンセットでつまみ出していく。
痒みが走るのか、時折ウィックの背中はくすぐったそうに小さく震えた。

「はい。背中は終わりました」

ガーゼの上に置いた糸くずをゴミ箱に放り込み、イエローは白衣のポケットから手の平大の絆創膏を取り出した。
彼女は手際よくシールを剥し、抜糸した跡を覆うようにそれを近づける。

「待て」

ウィックが突然声をあげた。
いきなりだったため、イエローは手にしていた絆創膏の両端をチグハグに張り合わせてしまった。

「何ですかいきなり。どうかしました?」
「……鏡だ」
「鏡?」
「いいから渡せ」

めんどうな患者だなと思いながら、イエローはミスした絆創膏をゴミ箱に投げ入れ、机の上からスタンド式の鏡を手に取った。

「はい、鏡ですよ。傷口見たいんですか?」
「……見せろ」
「はいはい。傷口は綺麗なもんですよ。ホラ。見えますか」

ウィックに見えるよう、わき腹の方へ鏡を持って行った。
彼は脇の下へ顔を向けて、鏡に映った自分の傷口をまじまじと見つめた。
驚いているのか、それとも思ったほど傷が大きくなくて安心しているのか、表情からは窺い知る事は出来なかった。

「……残るの、か」

傷口を見た彼の第一声は、思わずイエローにも聞き逃しかけるほどひそやかだった。

「え、えぇ、年月がたてば多少はどうにか。でもまぁこれだけの傷ですから、ツルツルスベスベってわけにはいきませんね」
「…………」

ウィックはおもむろに鏡から顔を背けて「もういい」と呟いた。
まさか、ナルシストって訳じゃあるまいし。傷が残るくらいでショックを受けるような繊細な奴ではないだろう。
イエローはフッと口元を緩めると、彼の背中をポンと叩いた。

「大丈夫大丈夫。毛が伸びてくれば傷なんかすっぽり隠れて全然わかんなくなりますって。気にしない気にしない」
「………そう、だな」
「そうですって。シルバーなんかそりゃもう全身傷だらけですからね。傷の無い所を探すほうが難しいくらいで」
「……そうか」
「そうそう。んじゃ、とっとと抜糸済ませちゃいましょう」

絆創膏を貼り、イエローはすぐさまウィックをベッドに寝かせた。
そして手馴れたようにガーゼを剥す、糸を切る、糸を抜いて行く……。先ほどと同じ作業を繰り返していった。
だが、その間も、終わった後も、ウィックの表情はずっと険しいままであった。
















それから数日たったある日。
カスミが買い物から帰ってきた際に、改造猫達が部屋から慌てて飛び出していく姿を目撃した。

「ウィック様、どうなされたんですか! ウィック様!」
「ボク達、お見舞いに来ただけなのさー!」
「そうです。オレ達は、ウィック様の事を心配して……」
「黙れ黙れ黙れ!!!」

開け放たれたままのドアから、彼らに向ってテレビのリモコンらしき物が飛んで行った。
それはすぐさま壁に当たって、外れたカバーの中から廊下へ電池を散らばらせた。

「出て行け……! 二度と俺の前に姿を見せるなっ!」

中から叫んでいたのは紛れも無くウィックだった。
酷く激昂しているらしく改造猫は怯えながら、扉の前からそそくさと離れて言った。

「ごめんなさいね。本当に、ごめんなさいね」

通り過ぎていく改造猫達を、カスミは頭を下げながら見送った。
今まで大人しかったのに一体どうしたのだろうかと、不安になる。

「ウィック、どうかしたの」

彼女が部屋の前に立つと、室内には、ひっくり返った円卓の横で背を向けているウィックの姿があった。
彼は肩で息をしながら、掴んだままの枕をぽとりと畳の上に落とした。

「……ウィック」
「何でもない」

少しだけ顔をカスミの方に向けて、ウィックはその場に座り込んだ。

「色々あるから。仕方ないよね。ウィックも大変だったもんね」

カスミは笑顔を作って、明るい声で彼の背中に声をかけた。
そして円卓を直し、買い物袋から割り箸の束やタオルなどを取り出して行った。

「そうだ。ウィックは知ってるっけ、一緒にお弁当屋さんやってる黒末くん。凄いんだ。
アメリカのワールドコロッケセンターって言う会社から引き抜きの話が来ててね。私、寂しいけど行かせてあげようかなって思ってるの」
「…………」
「そしたら私一人じゃ大変だから、ウィックにもお店手伝ってもらおうかな」
「…………」
「そんなに難しくは無いから大丈夫。接客が不慣れだったら、奥で作業してくれるだけでもとっても助かるな」

ウィックはあぐらをかいたまま、俯きがちにずっと黙り込んでいた。
カスミは再び笑顔を作って、彼の正面に回った。畳を見つめる彼の瞳は、実際何ものにも向けられていない様だった。

「今日はカレーにしようか、ちょうど材料揃ってるし。私のカレー食べたことないでしょ。美味しいよ~?」
「……あぁ」

力なくウィックは答えた。カスミは、彼の肩をポンと叩いて、

「誰にだってむしゃくしゃする日もある。お腹一杯になれば元気になれる!」
「…………」
「じゃ、今から作ってくるから。テレビでも見ながら待っててね」

カスミはテレビの本体のスイッチを入れて、彼の体をそちらの方へと向けさせた。
そして部屋の隅に脱ぎ捨ててあったエプロンを着、「それじゃぁ、お楽しみに」と再び明るく声をかけて、部屋を出て行った。

「…………」

扉を閉めると、廊下は急に薄暗くなった。
テレビ中の笑い声がここまで漏れて来る。地面の電池が鈍い光を放つ。
カスミは一瞬不安げな目をすると、すぐさま頭を振って、階段に向かった。




















布団に入ってどれくらい経ったのか。無論、深夜である事は間違いない。
カスミは、ふと目が覚めてしまっていた。くすんだ天井。冷えた静けさ。いぐさの香り。

「…………」

カレーを食べ終えて、しばらくテレビを見て。
今日も、この部屋で生活するようになってから何も変わらないいつも通りの日常だった。
ウィックも何だかんだで、一皿丸々平らげた。少しだけだったがお代わりもした。

「…………」

会話もした。もちろん元気はなかったが、ある程度返してくれている。
順調だ。順調に親子としてやり直しを出来ている。そう思っていたのに。

「……っ………」

──どうして、と、カスミはウィックに尋ねなかった。
そんな疑問が浮かぶより先に、「やっぱり」と言う気持ちが彼女の胸中に現れていた。
そしてそれは、これまでの二人の生活の中で、彼女自身が心のどこかで感じていた気持ちだった。

「ぅ……っ……」

目が慣れてきて、カスミは彼の頬に一筋、流れるものを認めた。
それは哀しみなのか、後悔なのか、それとも喜びであるのか、彼女には判断がつかなかった。
しかし、彼の心中は判っている。ウィックは、まだ……。

「…………っ……ぅ……っ……」

ウィックの手の力が強まり、彼女の首を少しだけ圧迫した。
我が子に首を絞められ、さらに呼吸が苦しくなってきたというのに、カスミはどこか冷静だった。
──こんなに近くでウィックを見たのは初めてだな。目の辺りが少し父親に似ているかもしれない。彼女は漠然とそんな事を考えていた。

「…………」

手の力が弱まった。もはや首に触れているだけとなったその手が震えているのが、皮膚から確かに伝わって来た。
それは、母親を殺すことへの躊躇いではない事は、カスミには判っていた。だって、だって私も……。

「……何故だ」

ウィックは顔をあげ、責める様な目でカスミを見つめた。彼の瞳の表面を、小さな光が流れて行った。

「……何故、抵抗しない」

声を詰まらせていたが、彼は必死にカスミを睨みつけ、その体裁を保とうとしていた。
その姿が、彼女の胸をチクリと刺した。

「実の息子に殺されるならば、本望とでも言うつもりか……?」
「…………」
「それとも、俺への罪滅ぼしのつもりか。それで気が済むなら、喜んで罪を受け入れるとでも言いたいか……」
「…………」

ウィックは両手にぐっと力を入れた。カスミは思わずうめき声を上げた。

「言え!!! 言わないならば、本当に、貴様を殺す!!!」

カスミの目の前で、闇と光が点滅していく中、彼女は唇を微かに動かした。

「わから……ないの……」
「!?」

彼女の目じりを哀しみが湿らせた。

「あなたに……なにをしてやるのが、一番、いいのか……それとも……あなたに、このまま、こうして……」

ウィックは思わず彼女の首から手を離し、その体を起こした。
その途端、胸の中に流れ込んでくる空気にカスミは大きく咳き込んだ。

「……バカなことを……バカなことを言うな……!!」

ウィックが再び彼女の首に手をかけようとした時──誰かが扉を叩く音がした。

「どうしました! カスミさん! 何かあったんですか!?」

それはクリームの声だった。カスミは咳き込みつつも、何も答えようとはしなかった。
扉が開いた時、クリームは部屋の中の光景を見て、目を見開いていた。

「どけ!!」

ウィックは突然駆け出し、入って来ようとしたクリームを突き飛ばすと、そのまま部屋を飛び出していった。

「大丈夫ですか、怪我はありませんか」

階段を駆け上がる乱れた足音が遠くに聞こえる中、クリームはカスミの側へ来て背中をさすった。
やがて足音が消え、上から隊員達の騒がしい声が廊下まで響いてきた。

「どうしたんですか。一体、何が……」

質問を言い終らないうちに、カスミは彼女に抱きついた。そして、とめどなく体の奥から溢れてくる物が一気にはじけた。
クリームも後から駆けつけて来た隊員達も、今まで見せたことの無い、彼女の号泣する姿を茫然と眺め続けていた。















頭の中がいっぱいになっていた。
何もかもがわからず、どこへ行くのかもわからず、暗く冷たいアスファルトの上をウィックは歩いていた。
後ろから、ぽつぽつやって来る車のヘッドライトが、彼の歩く僅か手前を照らしてくれる。
しかし、その光はどれもが彼の行く先に広がる暗闇の深さを引き立てているばかりだった。

「…………」

飛び出したものの、アテなどなかった。かと言って今更戻る気も無い。戻れるわけが無い。
あの時、目が覚めて、隣にいたカスミを見て、気がつけば、突然体が動いていて……。

頭を掻き毟った。声にならない唸りをあげた。
いろんな物が体中に圧し掛かってきて、そしてそれが彼の体の中まで入り込んできて。
逃げられない。逃げることなど出来なくなっている。

自分で自分が「何」に苛立っているのか、「何」がそんなに苦しいのか自分でも判断できない。
全てがない交ぜになった形容しがたい感情、それが今、彼をここでこうして逃げるようにして歩かせている。

「……!」

眩しさが広がって、ウィックは顔をあげた。夜の囲いの中にぽつんと佇んでいるファミリーレストラン。
彼が外出した時に、その安さからよく入っていた店だった。そして、アイツと出会った場所でもあった。
暖色が広がるその店内を見て、ようやく彼は自分の全身が芯まで凍えている事に気がついた。指の感覚がすっかりなくなっていた。

温もりに惹かれ、ウィックの体は自然と店に向って一歩踏み出していた。
しかしその時、彼の目に映った物が、もう片方の出掛かった足を止めた。

──アイツだ。

仕事帰りなのか、それとも以前のように残業の合間なのか、スーツ姿のケンジが店の奥に見えた。
ここから離れようと思った。厄介だ。アイツは嫌いだ。もう会いたくない。アイツは嫌いだ。嫌いだ。
そのまま、逃げるようにして踵を返そうとしたその時だった。彼の目はある物を捉えた。

──笑ってる。

端から見れば、なんてことの無い携帯片手の会話風景だった。
仕事相手か、友達か、恋人か、はたまた家族なのか、そんな事は彼にとって問題ではなかった。
アイツには、こんな時間に、あんな気楽な顔で、電話で話せる相手がいる、アイツには、そんな相手が、いる……!
頭の奥が熱くなった。足は自然に店内へ、アイツの方へと向っていた。店員が何か声をかけたようだったが、耳には入ってこなかった。

迫ってくるウィックに、向こうも気がついたようで、ケンジは少し驚いたような顔をしてから通話口を手で抑えた。

「どうした。いきなり」
「…………」

ウィックはじっとケンジを睨みつけたまま、テーブルの側に立ち尽くしていた。少しでも動くと、殴りかかりそうだった。
奴の丸い瞳には、醜悪さの欠片が微塵も感じられなかった。目を背けたくなる感情に彼は悔しさで唇を噛んだ。

「……悪い。今日はここまでにしてくれ……あぁ、じゃあな」

ただならぬウィックの様子に、ケンジは先に気を回してくれたようですぐさま電話を切った。

「話があるなら座れよ」

ケンジは顎で向いの席を指した。しかし、ウィックは相変わらず立ち尽くしたまま動こうとはしなかった。

「……何故だ」
「え?」

ウィックは、拳を震わせながら微かな声でやっと声に出した。

「何だ? どうかしたのか」

ウィックはケンジの胸倉に掴みかかった。テーブルの上のグラスが落ちる。割れる音、悲鳴、制止の声。
それら全てが頭の中でこんがらがって、もう彼は自分自身が何をしているのかもわからなくなっていきそうだった。

「何故だ……!」
「おい、やめろ! ここじゃ迷惑……」

ケンジはハッと息を吸うと、言葉を途中で飲み込んだ。
そこには、目の前に立つ男が、彼に初めて見せた泣き顔があった。


















ココアをゆっくり口に運んで一息つくと、カスミは向かいに座る隊員達に頭を下げた。

「……だいぶ落ち着きました」
「ならよかったです」

第一発見者のクリームは彼女を安心させる意味も込めて微笑んだ。
シェンナを部屋に寝かせたままなせいもあって、リビング内はとても静かに感じられた。

「一応、ウィックは男達に探しに行かせていますから」
「どうも……。いつも皆さんにはご迷惑ばかりかけて……」

まだ湯気の立つカップを両手で包み込むようにして、彼女は表情を強張らせた。

「平気ですよ平気。男どもはいつもダラダラしてて最近お腹周りがあれだから、むしろちょうど良い機会で」

ホワイトが冗談めかして答えてみたが、彼女の表情は少しも変わる様子はなかった。

「……大丈夫ですよ。反抗期がまだ続いている様な物で、そのうち彼も大人しくなりますよ」

クリームは穏やかなトーンでカスミに語りかけた。

「カスミさんの愛情はちゃんと伝わります。現に部外者の私たちだって微笑ましい親子の愛情に…」
「違うんです……!」

カスミは突然かぶりを振って、まるで怯えた虫のように背中を丸めた。垂れた前髪がカップの中に入りそうだ。

「私は、優しい母親なんかじゃ、ないんです……」

その声は悲痛さを帯びて、苦しみに満ちていた。















夜風に吹かれる尾布公園のベンチは、塗られているブルーに相応しく、氷のように冷えていた。
時計は既に深夜を回っていて、辺りを通る人はまったくいない。
普段電燈の周りに飛んでいる様な羽虫も、この寒空の中には出たくないらしい。

ガタンと音がしてウィックはちら、と二本の缶コーヒーを手にやって来たケンジを見た。

「寒いだろ。飲めよ」

差し出されたコーヒーをウィックは左下の方へ顔を背けたまま、彼の手から奪い、両手で大事そうに抱えて暖を取った。
さすがの彼でも口には出さないが、こんな場所では温もりが欲しいものだ。

「……こんな所で悪いけど、店も追い出されたからな。まぁ、ここなら広いし、どれだけ暴れても叫んでも大丈夫だ」

隣に座ったケンジは「おー寒い」と言いながら両手の平で缶を転がす。
深刻な場面でも、こんな風におどけた様な仕草を見せるのはあの頃と何も変わっていなかった。

「でも珍しいよな。今日はお前の方から会いに来るとかさ。それにあそこまで取り乱すのもお前らしくないし」
「…………」
「……なんか、あったんだろ?」

ウィックの缶を持つ手に力が入った。こいつに弱みを見せている自分に気づく。

「……仕事は終わってるし、朝までなら待ってやるよ。再会した時から、相談には乗るって言ってたしな」

しかし、ここを動くことも出来ない自分にも気づく。どこかへ行くアテもない自分にも、気づく。
もう、残っているのはこいつしかいないのだ。自分と、年も、境遇も、背格好も同じだったはずの、こいつに。

「……なにも、かも……」

口を開いたウィックの声は、見た目からは想像できないほど、か細く震えていた。

「何もかも、わからなく、なった……」
「……だったら、一つずつ言っていけばいいさ」

ウィックは目を伏せて、手の中の缶を見つめた。

「……俺は、施設を脱走してから悪の組織に入った」
「またまた。お前は」
「そこでは、盗みもやったし、破壊行為もした、一般人を拉致して改造し、部下にしたこともある。全て本当の話だ」

真剣なウィックの言葉に、ケンジは困惑したような顔をして同じように目を伏せた。

「そこで、俺は着実に出世していった。それもこれも全ては復讐のためだ」
「……復讐」
「この世界の人間ども全て、そして、その中にいるであろう俺の親への復讐。そのために、俺は何でもやって来た」

ウィックの瞳に邪悪な光が走った。その先は聞かずとも、わかるだろう。まるでそう言っているようだった。
ケンジは彼の言葉が事実である事をこの時ようやく肌で感じ取れたらしく、手の平で転がしていた缶をぐっと右手で握った。

「そうか……大変だったんだな」
「大変だと? そんな言葉じゃ足りんな……俺の、苦労は」

ウィックは頬に触れながら目を上げ、宙を睨んだ。

「復讐のためだけに俺は生きてきた……しかし、もう、その望みも、俺には断たれた。
俺にはもう、何も残っていない。金も、地位も、部下も、悪としての誇りも……何一つ」
「まさかお前……」

ケンジは腰を浮かしたが、ウィックはその鋭い目で彼をそこに留めさせた。

「……だが、俺は死ぬのは嫌いでな。あいにくそんなつもりは無い」
「なんだ、お前、急に深刻な顔するから」

ホッと安堵するケンジを横目に、ウィックは口の端を皮肉げに持ち上げた。

「……死ぬつもりなら、どんなに楽だっただろうな」
「そんな事言うなよ。悪から足を洗ったなら、どうにだって生き様はある。幸せの形ってのは…」

ケンジが彼の肩に手を乗せようとした時、ウィックの目の端に怒りの色が垣間見えた。
その色を捉えた瞬間、ウィックは彼の手を叩くと歯をむき出しにしてケンジを睨んだ。

「どうしろと言うんだ!……俺が、俺がどうやったら、幸せになれると言うんだ……!!」

ウィックはそう激昂すると、すぐさま頭を抱えて、前屈んだ。
ケンジにはその姿が、怯えた子猫の様に見えた。















「……私があの子と再会した時、とても嬉しかった反面、とっても怖かったんです」

重々しく口を開いたカスミの言葉を、女子隊員達はじっと静かに聞いていた。

「20年以上の間、あの子はずっと一人で苦しんで……怒りのぶつけ所がわからないまま、悪い仲間に加わって……」
「…………」
「あの子が私を憎んでいることは、やっぱりわかっていたんです。誰も信じられない様な、冷たい目をしていたから。
あの子の憎しみを受け止めるのがとても怖かったんです。でも、それは私には大きすぎて、潰されそうで……」

カスミは指で目頭を抑え、小さく鼻を啜った。

「だから、私は、聖母になることを務めていました。子供の事だけを懸命に考える素晴らしい女性。
でも、それはあの子への罪悪感でも、哀れみでもなかったんです。恐怖心だったんです……」
「恐怖心?」
「こうすれば、きっとこういう風に接すれば、あの子はまともになる、私に心を開いてくれる、
私はそんな、そんな、恐怖心を押し隠して、あの子に接していたんです……。でも、それでもダメだった」

彼女の手の甲に、ぽたりと雫が落とされた。

「あの子の、苦しみの前では、そんな取り繕いは意味が無かった……。それほど、あの子の苦悩は大きかった。
心からあの子にちゃんと向き合わなきゃいけないとわかっていたのに……私、怖かったんです。ずっと怖かったんです」

彼女のふら付きそうになる体を、クリームはそっと押さえた。
よほど心身ともに堪えていたらしく、彼女の横顔は少しだけやつれているように見えた。

「あの子に、私はどうしてやるのが良いのか……考えれば考えるほどわからなくて、過剰な優しさに逃げていたんです……。
でも、優しさは責任が付き纏うんですね。ずっと、こんな気持ちのまま、あの子に優しくし続けるのは違うと、わかっていて」

隊員達は黙っていた。見かけだけ親子として取り繕うことは出来る。もしかすると自分達もそうしていたかもしれない。
でも、それは解決にはならなかった。

「親として、どうしてやるのが一番なのか……何があの子のためになるのか……どうすればあの子の苦しみは……」

彼女はそう言ったきり、口をつぐんだ。まるで苦しみの重圧で息ができないかのように、衰弱しきった表情を見せていた。
子供同様、親自身も苦しんでいたのだ。
















「…………母親に会った」

しばらくして、ウィックはポツリと呟いた。

「母親って……」
「俺を産んだ女だ……」
「どうして」
「……偶然だ。馬鹿げた偶然だ」

ウィックは両手で自分の頭の毛を鷲掴みにしていた。

「……DNAも一致した。間違いない」
「そ、そうか……よかったじゃないか。良い人だったか」
「……腹が立つほど俺には良くしてくれる……」
「なんだ。だからお前、あの時あんなこと言ってたのか。感動の再会だな」

ケンジの表情が緩み、彼はウィックの身体を小突いた。
しかし、ウィックは大きく息を吐いただけであった。

「……部下に背中を刺された」
「え?」
「正しくは、洗脳する前の部下だ。奴は土木工事で働いていた。出稼ぎだったらしい。
力仕事が得意そうだったから、俺はそいつを誘拐して無理やり改造猫に仕立て上げた。だが、洗脳前に脱走した」
「どうしたんだ突然」

ケンジの言葉を遮るようにして、ウィックは言葉を続けた。

「そいつは突然、再び俺の前に姿を現した。俺へ復讐すると言う。俺が改造させたせいで、奴の人生は破壊されたそうだ。
……無理も無いことだ。常人の何十倍の力、邪悪な外見、どう考えても、悪の界隈以外では受け入れられない」
「…………」
「……刺されてから、俺はある場所で伏せっていた。あの女は俺を手厚く看病してくれた。
俺は怪我を治すために必死になった。そして、頭の片隅では、あの女といずれ一緒の生活も考えた。だが」

ウィックは自分の腹を労わる様にして撫でた。ケンジは彼が撫でているその辺りだけ、毛の生え方が薄いように見えた。

「……背中と腹に大きな傷が残った。一生消えない」
「そんなの、ちゃんと毛が生え揃えば……」
「だが、それは消えたことにはならない」

ウィックは顔を上げてケンジを睨んだ。瞳は少しだけその表面が波打っている様だった。

「傷を見るたび、何かの拍子で疼くたび、俺は苦しむ。現に俺はあの時の恐怖と、少しばかりの後悔を感じて……」
「どうか、したのか」
「俺は……」

ウィックは両手で目を抑えた。怒りか、それとも罪の意識なのか、彼の身体は震えていた。

「どうせならば、最低な親であって欲しかった……ならば、俺も、憎しみを糧に生きていけたのだ……
なのに、あの女は俺に優しく接する、最初はくだらん罪滅ぼしの意識だと思おうとしていた、なのに、あの女は、俺に、俺に……」

ウィックの語気は徐々にその強さを増すと共に、潤みを含みはじめていた。

「そこまで俺を大事に思うならば、何故俺を捨てた……! あの女が、俺を捨てなければ、俺はここまで苦しむことなどなかった……!
そう考えると、息苦しく、頭の中がかき回されて……! 憎しみで身体の中の血が熱くなって、だから、だから俺はあんなことを……」
「おい、まさかお前……」

ケンジが手を伸ばそうとしたのを、ウィックは口元の自嘲じみた笑みでそれを制止した。

「殺しはしなかったさ……もっとも、殺せばいくらか気は晴れただろうがな。……静かにしていたつもりが、目を覚ましやがった……」
「…………」
「泣いて謝るか、俺をそこまでさせた自分の過去を詫びれば、まだ良かった。なのに、あの女は、それが俺のためになるのか等とほざきやがった」

ウィックは顔を上げ、星さえも見えない真っ暗な空をしばらく睨みつけた。

「……そんなこと、俺にわかるものか……」

言葉を詰まらせているその声は、どこか不安そうなか弱い子供のようであった。
しばらくケンジはそんな彼を険しい表情で見つめていた。と、彼は目を細めてこちらを向き、またあの自嘲的な笑みを浮かべた。

「歳も、捨てられたのも、時期も、体格、顔かたちだって、俺と貴様は大して変わりはしない」
「…………」
「なのに、俺とお前は正反対だ……」
「…………」
「教えろ。貴様は、どうしてそんなに、楽しげに生きていっているんだ。金だって、ろくに無い。出世の見込みも無い。
幸せになれる保証など、ありはしない。くだらん雑事に振り回され、くだらん事ばかりを糧に生きて行く。そう、判っていてお前は……」
「……そんなこと」
「そんなことだと!」

ウィックは激昂するように叫ぶと、出し抜けにケンジの胸元に掴みかかった。

「俺にはわからないままだ! 貴様と、俺と、何が違う! 一体何が違うと言うんだ!!」

彼の瞳に、小心が、虚勢と狼狽で包まれていた。
ケンジは、彼の妙に軽くなった腕を払い、彼の小心と、しっかりと向き合った。

「……だったら、教えてやる」

ウィックの目が一瞬泳いだが、それでも彼は本当のウィックから目を離そうとはしなかった。

「居場所だ」
「……居場所……だと……」
「そうだ。居場所だ。自分がそこにいられれば、幸せになれると信じられる。そういう場所だ」
「そんなもの……ある訳が無い。そんな物、あるわけがない!」
「ちゃんと聞け!」

顔を背けようとしたウィックの顔を、ケンジは掴んだ。信じられないほど、強い力であった。

「いいか、ちゃんと俺の話を聞け。俺だって、俺だって、お前みたいに、孤独に打ちひしがられる事は、しょっちゅうだった」
「…………」
「施設でバカもやって、人を笑わせてたのも、明るく振舞っていたのも、自分が誰かに嫌われたくないからだった。
孤独になるのが怖かった。一人で生きていくことが、怖くてたまらなかった。たった、たった5歳の頃からだ」

ウィックは目を背けたが、彼の手の力は依然強いままだった。

「奨学金でなんとか大学にも通えた。俺はそこでも人の顔色ばかり窺っていた。でも、そこで初めて、俺は……」
「…………」
「大事にしたい、人を見つけた。本当に、他人のことをそう思えるまで、4年掛かった」
「……それが、貴様の居場所だと言うのか」
「そうだ。俺が必要とする、俺を必要としてくれる、人生をかけて大切にしたい“居場所”だ」
「…………」
「それを見つけて、俺は、孤独から、解放された。生まれて初めてのことだ」
「…………」
「……女じゃなくたって良い。仕事でも、友達でも、何か物でも。それのおかげで自分が幸せでいられると思える場所。お前もそれを見つけろ」
「そんな物、見つかるはずが無い」
「何年かかっても見つけろ。お前が一人で見つけるんだ。がむしゃらになって探せ。俺だって、そのために散々苦悩してきたんだ。
きっと見つかる。見つかるまで絶対に死ぬな。そこへ辿りつけられれば、どんな不幸が来ても、きっと今より孤独じゃないはずだ」

ケンジから手を話されると、音もなくウィックは身体を後方へ傾けたまま、ずっと目を伏せ、黙していた。
……そんな物、本当にあるのだろうか、この俺が、心の底からそう思える、そんな居場所が、本当に。
背中の傷がちくりと疼いた。


















「オレンジたちから何か連絡はあった!?」
「全然無いっす、一体どこまで行ったのか……」

夜の道路沿いで出くわしたレッドとブルーは、困惑した顔で周囲を見回した。
既に深夜を回っているため、人通りも車の通りも少ないせいで、かえって闇に紛れて捜索が難しくなっていた。

「やけになって何か妙な事件でも起こさないといいんだけど……」

レッドが額の汗を拭いながら、息を整える。
発見と言う事では何か目立つことをやらかしてくれれば良いが、捜索人が捜索人だけにそんな事はあってはならない。

「皆さん! あの人は見つかりましたかー!?」

通りの反対側からそう言ってこちらへ駆けて来たのは、聖獣の青龍と白虎だった。

「青龍さんに白虎さん。どうしたんですか一体」
「いや、私達も気になって、彼の捜索を手伝おうかなと。玄武と朱雀も、別の場所を今」

爽やかに笑う青龍だったが、その顔には物凄い汗が流れていた。

「聖獣さんはお客様なんだから、そんな、手伝わせるなんて」
「いえ、良いんです」
「良くないっすよ。隊長の言う通り、せっかくの旅行なんすから、ここは俺らに任せて本部へ」
「ホントに、良いんです!」

穏やかな青龍には似つかわしくない、強く、荒々しい語調だった。
レッドもブルーもそんな彼の様子に当惑していると、

「……青龍。ここまで来ればもう今更隠す必要も無いだろう」

隣にいた白虎が青龍の肩をポンと叩いた。

「白虎。辞めないか!」
「……このまま俺達だけで事を進めようとする以前に、ヤツラの力は強大になっている。青龍、お前にも判っているはずだ」
「な、なんの話ですか? あの、ヤツラって……」

白虎は黄色い瞳でレッドを見つめた。
その姿は、闇の中でもある種の輝きを伴っていて、ある種の神々しさを感じさせた。

「……俺達が日本にやって来たのは観光のためじゃない。本当は、不穏なオーラを察知し、その原因を確かめるためだ」
「不穏な、オーラ?」
「……初めは気のせいだろうと思った。しかし、ここへやって来てみてやはりそれは間違いではなかった……」
「な、何の事だか、僕にはさっぱり」

白虎はスッと腕を上げて、自分の頬を指差した。

「ブラックキャット団、とか言ったな。そこの構成員の顔には、赤と黄色の三角形が刻まれている。
それらは、ヤツラにとって特別な意味を持つマークらしい、そうだな?」
「そ、そうっすね……選ばれた者だけが、ほっぺたにもマークを入れられる、とか……」
「額と頬に、赤と黄色の三角形……。実の所、それは俺達にとっても、特別な意味を持っている」
「えっ!?」
「……俺達にとって、放っておくことの出来ない。特別な意味だ」

白虎は空を見上げ、その黄金色の瞳を細めた。まるで何者かを探すかのように、敵意を剥き出しにした、獣の目であった。


















「……おやおや、せっかくバリアを貼ったのに、どうやら気づかれてしまった様だな」

月の光さえ隠してしまっていた暗闇の中に浮かぶ3つの影。
それは飛行しているわけでもなければ、鳥でもなかった。文字通り彼らはそこに浮かんでいた。

「イヤだわ……もう少し待っててくれても良いのにねぇ」
「シシシシシ。まぁまぁ。ここまで来れば、力が感づかれてしまうのも、仕方ないよ」
「そうだな。どっちにしろ、今更奴らが我らの存在に気づいた所で、もはや遅い訳だが……」

フンと鼻を鳴らし、男はパチンと指を鳴らした。彼らを包むバリアがかすかに光った。

「まぁ、これでもうしばらくは大丈夫だろう。さて、久々のこの世界。どうするか」
「数千年ぶりに見ても、やっぱりなんだか醜いわ……」

色気がありながらも、どこか冷たさを感じるその女は、一際不機嫌そうに目下の町並みを見下ろし、眉をひそめた。

「もっとワタクシ好みに、美しくしてあげたいわねえ……」
「シシシ。ボクも同感! ねえ、白虎達ごと、ここいら全部ぶち壊してやろうよ!」

真ん丸く感情が無い様な目をした少年が腕を振り上げる。指先が黒く鈍く輝き始める。

「待て待て。楽しみは後に取っておくものだ。まずはじわじわ……」

三人のボスと思われる男は少年を制止すると、すっと指を真下のビルに向け、黒い光線を発射する。
途端、火が燃え上がり周囲が騒然となるのが上空からはっきりと確認できた。

「……フフ、今日の所はこれくらいでいいだろう」
「まぁ、綺麗」
「シシシシ。人間達、あんなに慌ててるよ。楽しいなあ! 明日はボクにいっぱい壊させてね!」
「いや、明後日にしよう」
「ずるいわ……。アナタばっかり。ワタクシだってずっと我慢していたのに」
「何千年と待ったんだ。たった二日くらい平気だろう……その時には、コイツも……」

そう言って、男は後ろに浮かぶ闇色の玉に目をやった。
そこには、一人の者が、目覚めの時を待ちわびるかのように、邪悪な目を見開いたまま、うずくまっていた。

「……フフフ。もうすぐだ。お前が目覚めた時が、我らが新たな時代を作る番だ……」
「楽しみね……」
「シシシシシ。力も強くなってるし、ほぼ完全に出来上がってるよ、ボクもう待ちきれないや!」

三人は、ゆっくりと紫に輝くその玉の側へと近づいた。
彼らは、色も体つきも全て異なっていたが、ある一点だけの共通点があった。そしてそれは、玉の中の者も同様であった。

「……ゆっくり、闇の力を吸収するが良い。じき、貴様も我らと共に素晴らしい世界を作る事が出来るのだ」

竜の様な尻尾を持つ男は顔を歪めて、闇の中で、興奮するように脈打つ少年に目をやった。

「……タイガーアイ……」

漆黒の毛並みに映える黄の縞。そして、その額と頬には、ひときわ目立つ赤と黄色の三角の模様がしっかりと刻まれていた。
そしてそれは、彼ら三人にも全く同じ箇所に、同じようにして刻まれていたのだった……。

「お前はもうすぐ生まれ変わるのだ……我らが闇聖獣の一員……闇虎として……」

挿絵




≪後編につづく!≫