第114話

『お隣さんはテロリスト!?』

(挿絵:レッド隊長)

“メゾンぐるてん”
大きなショッピングモールが目立つ、閑静な住宅地に、そのマンションはあった。
25階建て、全200戸の新築……端から見れば立派な佇まいのマンション。
そんな物件の7階にある707号室こそが、我らがOFFレンジャーの新本部である。

大破してしまった本部の改修工事の目処が立つまでの暫定的な本部ではあるのだが、
早くもその立地と、部屋の広さのおかげで、隊員達は引越し後一週間もしない間にすっかりこの部屋へ馴染んでいた。
特になんと言っても、両隣が良い人たちと言うことがそれに輪をかけている。実に平和な事この上ない。

──しかし、隊員達は気づいてはいなかったのだ。実はその隣人こそがこの平和を乱す人物であるということを……。










『1、3、7、5、9、4、8、3、0、1、7、2、9、9、3……』

その日は泣く子も黙る日曜日だと言うのに、お隣706号室の奥の部屋はカーテンで締め切られていた。
この住居は、部屋がそれぞれ前と奥、縦に2つ並んでいる非常に狭い空間である。
だから、奥の部屋へ行くには、まず玄関を開け、一番目の部屋を突っ切らないといけない。

『9、8、5、2、6、1、0、0、3、2、9、7、5、4、1……』

しかし、間取りを知らずにこの部屋に入った者は、そんな奥の部屋に気づくことはない。
何故ならば、ここの住人は奥の部屋の存在を隠すため、内部に隠し戸の付いた洋服タンスで奥部屋の入り口を塞いでいるからだ。

『0、2、4、1、4、4、9、8、3、2、5、6、7、7、0……』

ここの住人がそこまで用心するのも当然のことだった。
なんといっても、この部屋には誰にも知られてはならない極秘の活動拠点に相応しい品々が並べられているから……。

『……9、5、3、0』

雑音交じりのラジオから、終了を知らせるピーッと言う短い音が鳴ったのを確認すると、
ここ706号室の住人ジュノは、ふーっと息を付き、手にした鉛筆を床の上に転がした。

「……よし」

続けて彼は、先ほどラジオから聞き取った数字のメモを片手に、壁に立てかけたライフル銃達の間に挟まれた薄汚れたノートへ手を伸ばす。
中を開くと、ページが線で2つに区切られており、その左側に数字の羅列が、右側にはどこか外国の物らしき文字列が記されていた。
彼はメモを見ながら対応する数字を探し、それが意味する言葉をメモへと書き込んで行くと、一つの文章が現れた。

「……ワレラガ、センシ、ショクン、カクイン、αケイカクノ、スイコウヲ、イソゲ、ケントウヲ、イノル」

文章を読み終えるなり、彼はメモを握り締めながらそれを胸に当てた。彼の心中は、任務を行える喜びに満ち溢れていた。
そして、ちょうどそんな彼を称えるかのごとく、ラジオからは美しいメロディーが流れ始めた。
伴奏だけであったが、祖国では誰もが知っているその歌に、思わず歌詞が口を付いて出てくる。ますます彼の胸は震えた。

「頑張らなければ。革命戦士の名に賭けて、何としてもやり遂げなければ……!」

興奮で頬を紅潮させながら、彼はメモをノートに挟み、再びそれを銃器と銃器の隙間に隠した。
無事に一仕事終えると、早速彼は日課である愛器達の手入れを始めるため、ハンガーに掛かっている布を手に取り、胡坐をかいた。

「さて、どれにするか……」

ご機嫌な表情で、彼は目下の銃器を見渡し、そのうち一つを手に取った。最初に選んだのは、ドイツ製AK-47アサルトライフル。
性能の高さに加え、威力もトップクラス。慣れが必要な所はあるが、既に彼にとっては自分の手足の如く化している。

「早くお前の出番が来ると良いな……いや、我らが革命戦士団の手にかかれば、こんな国などあっという間に制圧出来る」

まるで赤子の様にそれを抱きかかえ、布で丁寧に銃身を撫でていく。彼にとって一日のうち最も至福な時間であった。
幼い頃から兵士としての教育を受け続け、娯楽の一つも知らずに17年生きてきた彼にとって、銃こそが趣味であり、人生であり、魂だった。

「やはり狙うならば政治家、芸能人……いや、やはり総理大臣だな。きっと英雄になれる。その時はお前を使ってやるからな」

彼は瞼を閉じて、自分が仲間達を率いて総理公邸に突入する光景を思い浮かべた。陥落する政界。その突破口がこの俺。
もろ手を挙げて自分を褒め称える仲間達。その報せに涙を流して喜ぶ祖国の民達。思わず口元がにやけてしまう。

「ククク……日本人ども、このジュノが貴様らを支配下に置くのも時間の問題だ!」

つい格好つけて、彼は締め切られたカーテンの方へ、その銃口を向けた。
彼はそこに存在しないはずの、泣いて土下座する日本人の無様な姿を頭に浮かべると、満足したように銃を降ろした。
ふと、壁にかかっている時計に目をやる。針はまもなく正午を回ろうとしていた。

「……そろそろだな」

我が愛器をそっと壁に立てかけると、彼は部屋の戸を開け、隠し戸から洋服ダンスの中へ入った。
そして、多数のシャツやコートに挟まれながら、ジュノは扉の隙間から外の様子を確認する。
小さな机に、卓上テレビ、元から備え付けてある冷蔵庫に布団。あまりに殺風景な偽装用の部屋には当然誰も居ない。

彼はタンスの中から室内に出た。肩がこったらしく首をぐるぐると廻し、壁に貼られている鏡に目をやる。
軍隊服に革靴。頭に巻いたバンダナ。そして耳と顔には緑や茶で三段に彩られた迷彩のペイントが施してある。
これは彼が物心付いた時からの正装、いやもはや彼の私服と言っても差し支えなかった。

挿絵

しかし今日の場合、さすがに都市の中では目立ってしまうこんな格好のまま、部屋にいる訳にはいかなかった。
急いで洗面所に向かい、顔と耳のペイントを落とす。そしてサングラスと大きなマスクを付け、大きなコートを羽織り、全て完了。
あとは、座布団の上に座って静かに来客を待つだけだ。

──ピンポーン!

5分ほどしてチャイムが鳴り、彼はいそいそ立ち上がって、ドアレンズを覗いた。軽く舌打ちをする。
向こうにいたのは招かれざる客であった。とはいえ、出ない訳にもいかない。ジュノは渋々ドアを開けた。

「こんにちは~!」

僅かに開けたドアの隙間から割り込むようにして顔を出したのは、隣の707号室の住人だった。
今日やって来たのは白いのと、紫の。そして変な深緑色の服を着た女の三人。その笑顔の前にジュノはゲンナリとする。
前々から関わらないようにしようとしているのに、何故か隣人は時々こうして入れ替わり立ち代りここへ訪問しに来ていた。

「あの、これ里芋の田楽なんですけど。作りすぎちゃって、よかったらおすそ分けしようかなって」
「あ、ど、どうも……」

許されるのならば、すぐさま機関銃か何かで蜂の巣にしてやるのだが、これも自分と言う存在を怪しまれないため。
ジュノは少しだけ声のトーンを上げ、いつものように「ありがとうございます」と、言葉だけ丁寧に礼を述べた。

「田楽、お好きですか?」
「え……」

彼はパックに入った“デンガク”と言う名の食べ物を、怪訝に見つめた。日本の文化は前もってボロが出ないよう勉強しているつもりだ。
だが、彼の脳内には『電卓』はあっても、『田楽』は存在しなかった。里芋が芋の一種なのはわかるが……じんわり背中に汗をかく。
とはいえ、仮にこれが日本人の間で有名な食べ物だった場合、とりあえず知っているふりをしなければならない。

「こ……好物です」
「えっ、ホントですか?」

彼は『えっ!?』と思った。まさか一般的には嫌われている食べ物だったのか。
それとも、何か別な意図があるのか、焦りで頭の中を芋がぐるぐる輪を描いて踊る。芋の輪舞だ。

「あの、今夜私たちの部屋でご近所さんが集まって親睦会するんですけど、もし良かったらいらっしゃいませんか?」
「えっ、親睦会?」
「都合悪いですか?」
「いや、そ、その、あの……」

親睦会などに参加する気はさらさら無いし、日本人なんかと親睦を深めるなど、こっちからお断りだ。
しかし、下手に断って怪しまれると危険である。自分のせいで仲間に迷惑をかけてはならない。彼は覚悟を決めた。

「……よ、喜んで、参加させてもらいます」
「本当ですか! 良かったぁ、里芋の田楽もいっぱいありますから。よろしくお願いしますね。えっと……」
「はい?」
「そう言えば名前まだ聞いてなかったなって」
「あぁ……」

彼はホッとして、密入国するために用意してあった偽の日本名を脳裏に思い浮かべた。
その名は山田一郎……そういえば名乗るのは初めてだ、そう思いながら彼は口を開く。

「名前は、山田……」
「山田?」
「ジュノさぁ~ん! すいません、遅れました~!」

突然廊下の向こうから駆けて来る本当の来客の叫びに、ジュノは思わずよろめいた。

「すいません。先入っておきますねー」

サングラスの奥で、彼はキッと来客をにらみつける間も無く、
彼同様に、サングラスをかけ、パーカーのフードを被った少年達がいそいそと中へと入って行った。

「あ、今のはその、友達で」

慌てて、ドアを閉め、彼はハハハ、と苦笑いをして見せた。マスクのせいで伝わったかどうかはわからなかったが。

「ジュノさんですね。わかりました。じゃぁ、また6時前くらいにうちへ来てください」
「楽しみにしてますね。ジュノさん」
「ジュノさん、待ってますね」

会釈しながら部屋へと戻っていく女子達を固まったまま見送ったジュノ。
その扉が閉まった瞬間、彼はドアにもたれかかったまま、ずるずるとその場に崩れ落ちてしまった。

「お、俺の名前が、バレた……」
















名前がバレたとは言え、別に問題ではない。同じような名前など、探せばいくらでもいる。そうだ。そうじゃないか。
30分かけてそう自分の中で結論付けると、ジュノはいつもの“私服”姿に戻り、生徒が待つ、奥の部屋へと向った。

「ジュノさん、おはようございます!」
「おぉ」

入ってくるなり、ペコッと頭を下げる二人の生徒に、ジュノの機嫌はいくらかマシになった。
しかし、本来ならば三人いるはずで、すぐさま一人足りないと言う事に気づく。

「今日はお前らだけか? あとの一人はどうした」
「さぁ、何も聞いてないすけど、この前面倒だから辞めるかもとか言ってました」

“……たるんでいる!” ジュノの血管がプチンと音を立ててはじけた。まったくこの国の奴らは根性が無い!
昔の俺がもしそんなことをすれば、団長に一日中飲まず食わずで腕立て伏せをさせられるところだ。

「でも、俺らはちゃんと来たんで、大丈夫っす!」
「今日もよろしくお願いします!」

輝く目を見せる二人の生徒に、ジュノの怒りは急速に収まった。そうだ。兵士たるものこうでなくてはならない。
物心付いた時から軍事訓練を受けていた自分と比べ、彼らはまだ入って一週間だと言うのになかなか感心な態度である。
上手く育て上げれば、かなりの逸材にはなるかもしれない。立派に育て上げなければ。ジュノの拳に力が入った。

「よし、では今日からはいよいよ本格的な学習に入る。が、その前にいよいよ今日からお前達に名前を与えてやる」
「え? お、オレらの名前ですか?」

二人は不思議そうな顔でジュノを見た。名前は既にあると言いたげだ。

「お前はこれから我らが革命戦士団の一員となる存在なのだ! そのために汚れた国の名前など捨てなければならない!」
「そ、そうっすね!」
「本来ならば、日本人などが我が戦士団に入ること自体、あり得ない事なのだ。だが、お前らはこの国のつまはじき者……。
お前らもこんな国にはうんざりしているはずだ。俺は我が国の一員になるに相応しいと判断している」

生徒は自分が特別な存在であることに少し喜びを覚えたらしく、表情をほころばせた。
何も知らず、周囲のものにとにかく反抗している最中の不良少年など、少し褒めてやれば簡単になついてくるものだ。
無論、こんな事は各地の仲間が選ばれた者に言っているお決まりの台詞ではあるのだが……。

「というわけで、早速俺がお前達のために考えた新しい名前を与えてやろう。まずはお前だ」
「はい!」

ジュノはそう言って、こちらを輝く瞳で見つめている右側のぶち猫の少年に目をやった。
こいつは、運動能力が高そうだからまず良い戦力となるに違いない。目付きもつり気味で、実に勇ましい。
となれば、勇ましい名前を付けるに限る。ジュノはコホンと一つ咳払いをした。

「……お前は今日から、我が革命戦士団訓練生のライバだ。これは我が国の言葉で“勝利”を意味している!」
「はいっ!」
「続いて、お前だ」
「は、はい!」

続いてジュノは左側の生徒に目をやった。こちらは黒猫で背も少し低めだが、動きが機敏なことは既に体力テストで調査済みだ。
となれば、素早さにちなんだ名前を付けるに限る。

「お前は今日から、訓練生サイバだ。我が国では“疾風”を意味する素晴らしい言葉だ」
「サイバ……!」
「気に入らないか?」
「いえ、サイバって、なんかすげーカッコイイです!」
「俺も、ライバって名前、気に入りました」
「そうだろうそうだろう」

胸を張って、生徒からの好反応に満足した。丸一日考えただけのことはある。

「以後、お前らはその名前が本名となる。今まで使っていた名前は、あくまで素性を偽るための道具と化したと思え! いいな!」
「はいっ! わかりました!」

ビシッと敬礼してみせる二人に、ジュノは大いに満足した。この俺にかかれば、戦士を教育するなど朝飯前だ。
やはり俺はちゃんとやれば出来る奴だ。偉大なる革命戦士なのだからな。ジュノは思わず口元をほころばせ、生徒に向き直った。

「では、ライバとサイバ。続けて今日の授業に入ろう。一昨日の続きからだ。覚えてるな?」
「えぇと、は、はい」

早速、ジュノは部屋に立てかけてあった棒を持ち、壁に貼られたホワイトボードを指した。
そこには教科書の様に綺麗な筆跡で書かれた文字と、古びた異国の写真が貼り付けられていた。

「我が国は、花が咲き乱れ、木々は美しく枝を伸ばす、それは美しい国であった。俺は世界一の国だと確信している。
鳥は歌い、獣は野を駆け回り、そして人々は笑顔であった。だが、それらはもう既に我が国には存在しないっ……!」

ジュノの声には、だんだんと力が篭り始めていた。

「何故ならば、ある時、美しい花畑に日本の工場が建った! そこから出る水が川を汚した!
さらに、あちこちへ工場が建ち、煙が空を覆った! 魚や獣たちは消えた。民からは笑顔が消えたのだ!
それもこれも、全ては憎き日本人どものせいである! 自分達の富のために我が国を破壊したのだ!」

ジュノの目は怒りに燃えていた。ボードを叩く音はいっそう激しい。

「俺のかあ様は、そのせいで病気となり、俺を生んで間も無く……うっ……」
「ジュノさん……」

感情が篭りすぎた彼は一瞬下を向いたが、すぐにまた顔をあげた。復讐に燃える勇ましい顔つきであった。

「そこで我らが革命戦士団は、この汚れた国と民族に復讐するために立ち上がったのである!
この不浄の国を我ら組織の手中に収め、国民は皆奴隷とし、そして我ら革命戦士団が我が国民のため、ここへ第二の国を築き上げるのだっ!!!」

パチパチと涙ぐみながら生徒は彼に拍手を送った。
既に何度も聞かされたスピーチであったが、完全に生徒自身は感情移入してしまっていた。

「聞くところによれば、地球温暖化、世界的不景気、自然災害。全て日本人どもが世界を自分達に都合良くするために仕組んだ事だという!」
「ひ、ひどい……!」
「さらにそれを隠すために、教育・マスコミ・インターネット等へ政府の介入が行われ、自分達こそが正しいのだと国民を洗脳しているとも聞く!」
「本当の事を知ってるのは俺らだけなんすね……」
「我らはこのまま放っておく事など出来ない。我らはこの国を必ず我らが手で制圧してみせる! それが革命戦士としての使命なのであるっ!!」

肩で息をしながらジュノはそう大声で一気に言い終えると、肩で息をしながら二人に鋭い目を向けた。

「では、聞こう。ライバ、日本とは本当はどのような国だ!」
「はい。自分たちが金持ちになるためなら世界中の人間を平気で不幸にする最低な国です!」
「その通り! では、続けてサイバ、そのような国に、我ら革命戦士はどうするべきか!」
「は、はい! 一日も早い制圧のため、日々、訓練と鍛錬を欠かさないことです」
「よし……二人とも、その気持ちを忘れるんじゃないぞ」

ジュノは額の汗を拭くと満足そうに頷き、手にしていた棒で、トンと床を突いた。
俺も団長からこのような話を聞かされたときは、怒りで体が震えたものだ。彼らとあの時の自分が重なって見えた。

「ジュノさん。次は、何をするんですか?」

目を輝かせてこちらを見つめるライバとサイバを前に、ジュノの胸の中には使命感がふつふつと燃え上がってきた。
A計画。それは、この国の若者を革命戦士の走狗とするため、兵士教育を施し、内側から制圧の準備を進める計画……。
全ては順調。奴らめ、俺の実力にひれ伏すがいい! ジュノは、仲間からの賞賛の声を脳内に響かせながら、怪しく微笑むのだった。














それからしばらくの間、訓練生2名にみっちり教育を施した後、ジュノは顔や耳のペイントを落とし、
服を着替え、マスクと帽子を被り、サングラスを装着することで、彼はごくごく普通の一般人(?)へと変身した。
時刻は午後5時55分。部屋を出、隣室のベルを押す。待つまでの間、彼の脳内では目まぐるしい速度で日本文化の復習が行われる。

「(……箸は右で……茶碗は左手で持つ……『おかわり』は45度の角度でまっすぐ手を伸ばし、眼は前を見据える……)」

故郷で出発前に祝賀会をテントの中で行ったのを除けば、パーティの類に参加するのは生まれて初めての事。
だからこそ、おかしな真似をして自分が某国からこの国を制圧する為にやって来たテロリストだと知られてはならない。
まさかの敵地突入を前に、彼の神経はこれまでにない程張り詰めていた。パーティとはいえ実戦には変わり無い。

「あっ、いらっしゃい」

しばらくしてドアが開き、中から数時間前にも出会った白い毛並みの女が出た。
ジュノはすぐさま気をつけの姿勢をし、

「ほっ、本日はお招きいただき、どうもありがとうございました!」

──完璧だ。一字一句間違えること無く日本式の挨拶が出来たジュノは、心の中でほくそ笑んだ。

「ぷっ……」

しかし、女の反応は奇妙だった。突然彼女は噴出し、口を押さえ、そして自分から目を逸らしたのだった。
まさかイントネーションがおかしかったのか、いやそんなはずは無い。基本的な挨拶は完璧に覚えたはずだ。

「……ま、どうぞどうぞ。もう準備出来てますから」

中へ通されたジュノは、平静を装いながらも延々と頭の中で彼女の笑った理由を考えつつ、激しい動悸に戸惑っていた。
言葉の面では何も問題は無いはずだ。身だしなみだって、怪しまれぬよう気を使っている。特に服のチョイスには気を使った。
物心付いてからと言う物、彼は迷彩服以外着たことがない。だからこそ、日本人らしい服装を常日頃から意識しているのだった。

「あ、ジュノさんいらっしゃい!」

パーティー会場である部屋のドアを開けると、大きなテーブルに多数の和食が並んでいる周りに立つ、
10数名の少年少女達が明るく声をかけて来た。どうやら本名は完全にバレてしまっているようだったが、仕方が無い。

「本日はお招きいただき、ありがとうございました」

先ほど以上に姿勢やアクセントにこだわって、ジュノは隊員らに会釈をした。今度も自分からすれば上出来であった。
だが、顔を挙げると、やはり隊員達は変な顔をしてこちらをじっと見つめていた。何だ。何がおかしい。彼の心臓は破裂しそうだった。

「ですー」

すると、トコトコと、片方だけ眼鏡をかけた茶色い子供がこちらに駆け寄って来て、

「つららですー!」

と、ジュノを指差した。……それがどうかしたのか? ジュノは自分の着ているTシャツに目をやった。
白地にデカデカと青で「つらら」とプリントされた何の変哲も無いシャツであった。しかし、彼女の言葉で一同はドッと笑った。

「!?!?!?!?!?」

ジュノは激しく混乱していた。日本人だから日本語の書かれた服を着ているのだ。それの何が可笑しいのだ。
これが俺の祖国の文字だったら、「なぜ日本人がそんな物を」と、こいつらが笑うならまだ理解できる。
英語のプリントされたシャツを着るものも確かに居る。だが、日本語のシャツを着ている方が、より日本人らしいではないか!

「季節はずれですー」

思考回路がショートしかけたジュノの脳内を茶色女の言葉が駆け巡った。
なるほど、そういう事か。ジュノは自分が重大なミスを犯していない事がわかり、ホッと息を付いた。
冬はとうに過ぎたというのに、この時期に冬をイメージさせる「つらら」と言う文字がプリントされているから、
そのアンバランスさに、こいつらは笑っているのだ。つまり、これが「梅雨前線」とか「かたつむり」なら、何事も起きない訳だ。
……幸いにもそれらのTシャツは購入済みだ。念のために後日「じゃのめ」も購入しておこう。彼はマスクの奥でニヤリと笑った。

「いやぁ、これお気に入りなんでつい着ちゃったんですよ。良いシャツでしょう?」

機転を利かせたジュノの言葉に皆はハハハと笑った。それからジュノは彼らから簡単な自己紹介を聞いた後、奥の席へ向わされた。
無事椅子に座り、目の前に並ぶ料理を目にすると、これまで張り詰めていた全身の緊張が少しだけ和らぐ。

「(フ……この俺とした事が、少し焦ったではないか。まぁ良い。次から「かたつむり」のシャツを着れば済む事だ)」

ようやく落ち着いて部屋を見渡すと、ジュノは今までの緊張で気づかなかった様々な事にだんだん気づき始めた。
まず、部屋がバカみたいに広い。家電製品がどれも最新型だ。それに思い返せば廊下の奥にも多くのドアがあった。

「(俺の部屋と桁違いでは無いか。見た所俺と歳も変わらないのに。成金どもめ。日本人どもめ……! クソッ!
必ず俺達が日本を制圧して、この部屋を、いや、このマンションごとを俺のものにしてやるからなっ……!!!)」

若干、嫉妬心が混じりつつ、部屋を見るなりジュノの心中では使命感がメラメラと燃え上がった。
必ずやこのパーティーを無事に終え、我らが制圧計画の足がかりにしてやる。ジュノは小さな声でクククと笑った。

「シオンさん達、遅いねぇ」
「必ず行くって言ってたんだけどなぁ。せっかく、ジュノさんが来てくれたのに」
「ちょっとお隣覗いてこようか」
「やめとけよ。着替えてたらどうすんだよ」

ジュノは、隊員達の騒ぎを端で聞いていた。任務に情報収集は欠かせない。意識せずとも彼は周囲にアンテナを張っていた。
──シオン。名前からして多分女だろうとは予想が付く。隣ってことは、右隣の部屋か。ジュノは思考を巡らせた。
そういえば会った事は無い。そもそも隣人に興味は無い。興味があるのはただ一つ、憎き日本を制圧することだけだ。

「(……鼻の下を伸ばしやがって、軟弱な奴らだ。どうせ匍匐前進もまともに出来ないのだろう)」

シオンの話で妙にテンションの高くなっているブラックを、ジュノは冷ややかな目で見ていた。
人生の9割9分を男達と過ごし、銃器と泥と汗と血と根性で彩られた彼の武骨な人生の中では、異性という物の価値はゼロだった。
そんなものにうつつを抜かすよりも、銃器のメンテナンス、肉体強化、任務遂行のための学習、それこそが彼にとって最も価値ある物だ。

──ピンポーン

チャイムが鳴り、「あっ、来た!」とブラックが声を上げるなり、男子達は颯爽と玄関へ向った。
しばらくして、男子達のうわずった声に紛れ、可愛らしい声が聞こえてくる。

「(一応どんな奴が住んでいるのか、顔くらいは確認しておくか……)」

そう思ったジュノは、開いたドアの向こうへ、ちらと視線を向けた。

「……っ!?」

その瞬間、ジュノの全身に激しい電撃が体中を駆け巡った。息を呑み、鼓動が脈打ち、世界が躍動した。
彼の視線は彼女に釘付けとなっていて、自分の力では離す事は出来なかった。

「あっ、初めまして。708号室のシオンです。よろしくお願いしますね」
「え……あ……」

ジュノはうまく言葉を紡ぐことができなかった。電撃は、未だ彼の体内を乱走していた。
何だ。何だ。この女は何だ。俺は病気か。革命戦士とあろうものが、女一人に、何故ここまで緊張状態となるのだ。

彼はそれが“一目ぼれ”だという事に気づいていなかった。彼にとって異性という物の価値はゼロだったのは、
軍事訓練ばかりで、若い女性と交流をし初めたのは日本に来てからここ数日の間ぐらいであったこと、
そして、これが彼にとって初めて出会った“とびきりの美人”だったからだ。

「シオンさん、こちらは706号室のジュノさん。高校生で一人暮らししてるんだって」
「一人暮らしですかぁ、大変ですね」

勝手に紹介された事にも気づかず、軽く会釈をした彼女をぼんやりとジュノは見つめ続けた。
凛とした目元、きゅっとした可愛い唇、若干紫がかったピンクの毛並み、スレンダーな体付き。全てが、彼の胸に突き刺さった。
何がどうしてどうなってこんなことになっているのか、頭の中はパニックであった。

「あれ、ジュノ君。なんか顔赤いよ」
「もしかして、シオンさんに惚れちゃったんじゃないの」
「えっ……?」

側にいる女子隊員の『惚れた』という言葉に、ジュノは七転八倒中の脳細胞をなんとか使いその意味を思い出そうとした。
惚れる、惚れる……確か、異性に恋心を抱くことか。そこまで思い立った瞬間、彼の脳細胞は一気に沸騰した。

「ばっ、馬鹿なっ!!!!」

ジュノはテーブルにおもいきり手をつき、腹の奥から力いっぱい叫んだ。
一気に場が静まり返り、彼は「しまった」とマスクを抑え、慌てて椅子に座りなおすと、はははと力なく笑った。

「ちょ、ちょっと、風邪気味なだけです」
「あ、だから、マスクしてるんだ。ごめんなさい、それなのに誘ったりして」
「いえ、いいんです。栄養付けたいので」

それから隊員達の意識が再びシオンの方に向ったのを見て、ジュノはホッと息を付いた。
この国を制圧するという重大な使命を担った革命戦士であるこの俺が、よりにもよって日本人の女などに、
いや、日本人でなくとも、女などに心中を乱されるわけがない。俺の恋人は銃器だけなのだ。
彼はそう強く自分に言い聞かせると、再び、ジュノはシオンを睨みつけるようにして視線を向けた。

「弟ったら、せっかく誘ったのに出て行っちゃったんですよぉ」
「それは残念。あぁ言う子には暖かい手料理で反抗心の塊を溶かしてやろうと思ったんですが」
「ごめんなさい。今度は絶対連れて来ますからね」

グリーンと話しているシオンを見て、ジュノの胸の高まりは収まるどころか余計に激しくなっていた。
彼女の愁いのある横顔、頭を下げたときに垂れる髪と、その隙間から見える細い首筋。艶かしい体のライン……。
ジュノの体は、体温が上昇し、思考が低下し、汗が出、手が震え、次々と生理的な反応を示していた。
これは風邪だ。昨日は夜空の下で一晩中、腕立て伏せと腹筋をやっていたせいだ。風邪なのだ。

「じゃぁ、全員揃ったところでパーティ始めましょっか。シオンさんは……ジュノさんの隣へどうぞ」

シオンの瞳がこちらを向いた。彼女が妙な顔をし、ジュノは慌てて目を逸らした。睨みすぎた。心象を悪くされると厄介だ。
いや、勿論、任務に関して厄介なのだ。それを覗けばあの女の俺に対する心象などどうでも良い。彼女がこちらへ歩いてくる。

「初めまして、ジュノさん」

至近距離で見つめる、彼女の吸い込まれそうな深紅の瞳。それを前にして、ジュノは突然日本語を忘れた。
……何と言えばいいんだ。何も思い出せない。あれだけ勉強したのに。仲間内じゃかなり上手い方だったのに。
革命戦士のこの俺が……たかが女一人を前に……何故言葉が出てこない……。口ごもっていると、彼女の顔がフッと綻んだ。

「ふふ、面白いシャツ着てますね」
「………………は、はい」

彼女の笑みに、ジュノは笑い返していた。緊張が少しだけ解けた。口から出たのもちゃんとした日本語だ。
すると、さっきまでの身体の異常がすーっと潮を引くように収まって行った。風邪は治ったようだと安心する。
席に着くシオンを、ジュノはチラと横目で見た。今度は異常を感じなかった。安心すると共に、彼の中で何か熱い物がこみ上げてきた。


















その頃、一匹の悪魔がマンションの屋上に降り立つと、すぐさま柵にもたれ、そのまま崩れ落ちる様に座り込んだ。
彼はそう簡単に見つからない獲物探しのせいで、ほとほと疲れていた。

「……はぁ……」

角も生え、コウモリの翼を持ち、鋭い牙を称える、どこから見ても立派な悪魔であったが、彼はただの悪魔ではなかった。
彼の正体は、OFFレンジャーの住む707号室のお隣、708号室の住人であるシオンの弟、ティオであった。

「……見つからない……」

ただの一般人というのは仮の姿、実はあの姉弟はこの世を悪に満ちた世界にするためやって来た魔界の王の子供達だったのだ。
が、そんな恐ろしい印象とは異なり、彼の深緑色の瞳からは、今まさに大粒の雫がこぼれようとしていた

「ねーさま……無理だよぉ……」

ティオは指先から伸びる爪で瞳の雫を拭うと、膝の中に顔を埋めた。彼は既に市内を二周していた。
悪のエナジーを集めるため、デビルカプセルを埋め込むのに最適な強い負の心を持つ人間など、そう易々と市井を歩いてなど居ない。

「もう嫌だ……魔界に帰りたいよ……」

涙で視界が霞んで行く。端から見れば恐ろしい姿もこうなってしまえば何だか情け無い。
しかし、帰ろうにも、魔界の王となるために悪のエナジーを集めなければ帰る事は出来ない。だから、ますます泣けてくる。
となれば、やはり否が応でもターゲットを見つけなければならないわけで……彼は、無理やり自分の体を立ち上がらせた。

「はぁ……」

ティオは涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、漆黒の翼を大きく広げ、すっと垂直に飛び上がった。
遠い空の向こうでは、日が沈みかけていた。これで見つからなければ、今日の所は諦めるしかない。姉には叱られるが仕方が無い。
どうせ無理だろうなと思いつつ、彼は屋上から飛び立った。……その時。

「……!」

彼の手にしていたデビルカプセルのモニターが、激しい反応を見せた。まだマンションの駐車場も出ていない。
ティオは策の上に降り立ち、反応を頼りに目下の方へ目を凝らした。並んだ車、車、車、その隙間に二つの黒い影。
その影は、まだ新車だと思われる真っ赤な車の側面を、尖った金属の様なもので滅茶苦茶に傷つけていた。

「(ただのイタズラじゃないのかな……)」

イタズラにしては、カプセルの反応の高さは有り得ない。ティオは両耳をピンと立て、二人の会話に耳を澄ました。
彼は当然人間でないだけあって、聴力は魔級並み。デビルイヤーは地獄耳なのであった。

『おい、どうせなら他の車も全部滅茶苦茶にしてやろうぜ。しほんしゅぎのへーがいだからな!』
『日本人が車に乗るせいで地球温暖化が進むって、ジュノさんも言ってたしな』
『親も、先公も、近所の奴らも、俺らを邪魔者扱いする日本人なんか、思い切り不幸になればいいんだ』
『早く俺らもジュノさんみたいになって、こんなクソみてぇな国を制圧しちまおうぜ!』

ティオには彼らの言う言葉の意味がよくわからなかったが、彼らが自分達の不満を周囲に向けていて、
激しい憎悪の種が芽生えようとしていている事だけはわかった。これが花開けば、多くの悪のエナジーが手に入るのは間違いない。
ティオは手にしたデビルカプセルを闇色の炎に変えると、それを両手で二つに分け、二人の少年を見下ろした。

『なんたって、俺らもう革命戦士だからな。戦士』
『超カッケーよな』

……早く魔界に帰る為にも、たっぷり悪事をしてもらおう。ねーさまにも怒られずに済む。良かった。助かった。
口元の牙をキラリと光らせ、ようやく悪魔らしい表情を見せたティオは、二つの闇の塊を彼らの頭上へと放り投げた──。

挿絵
















宴が進行していく中で、これが日本の一般家庭のパーティかとジュノは料理をつつく一方でデータ収集に勤しんでいた。
念のため、誰かが口につけた料理から食べていったが、どれも彼の口にはあまりあわなかった。
食卓に並んでいるのはどれも和食和食和食。日本風の淡白な味付けよりも、もっと濃い味付けが彼の好みだった。

「(……カエルやヘビのが美味いが……これもなかなか……)」

だが、唯一彼が気に入ったのは天ぷらだった。マスクの隙間から突っ込みやすかったのもあり、箸が進む。
サクサクとした揚げ物特有の歯ごたえは、軍事訓練の最中じゃまず食べられないタイプの料理で、新食感だった。

「ジュノさんって、天ぷら好きなんですねぇ。それ、10本目じゃないですか?」

10本目のエビを咀嚼している最中にグリーンからにそう言われ、ジュノは自分が憎むべき国の食い物に惹かれている事に気づいた。
「えぇ、まぁ」と一応顔では苦笑いをしてみせる物の、その裏側で、彼は激しい狼狽ぶりを見せていた。

「(違う……! これは憎むべき日本の食い物だ……! こんなもの、美味くなどないのだ。調査の為に食ってるだけだ……!)」

動揺を悟られないよう、彼は小さく頭を振って、戦士としての使命を何度も脳内で反芻した。こんな物など、唾棄すべき劣等文化なのだ!
どうも今日の俺はオカシイ。彼は、長期に渡る滞在で精神的に疲れて来ているのだろうか。ジュノはふうっと大きく息を吐いた。

「ですですー!」

そんな自分とは対照的に、右隣で騒ぐシェンナを、ジュノは横目で冷ややかに見た。
バカっぽい顔だ。能天気だ。元々子供は嫌いだが、日本人だと思えばますます小憎たらしく見えてくる。
しかし、左隣に座るシオンは、そんな彼女の様子を愛玩動物でも見ているかのように、パァッと花が咲いたような笑顔で見つめていた。

「あっ、そうだ。すっかり忘れてました。シオンさんもジュノさんもまだシェンナとクリームを紹介してませんでしたね」

湯のみをコトリと置くと、グリーンは「いけないいけない」と呟きながら立ち上がった。

「実は今日の親睦会と、彼女二人の復員会も兼ねてたんですけどね。ついついいつも通りの感覚になっちゃって、
えっと、そっちの茶色いのがシェンナ、その隣はクリーム。つい先日、ようやく連絡が取れて集まっていただけたんです」

シオンが満面に笑みを浮かべて彼女たちに挨拶したので、ジュノも同じように会釈し、二言三言、型通りの挨拶を述べた。
その最中にも、ジュノは素早く二人をチェックしていた。チビの方は問題外として、その隣は女といえど油断できないオーラが漂っていた。

「(……こいつには注意しておいた方がいいかもしれんな……)」

戦士の感が、クリームの第一印象をそう決定付けた所で、ジュノはクリームと目が合った。
つぶらな瞳をフッと細めた彼女の仕草に、自分の心中が瞬間的に見透かされたようで、彼は慌てて目を逸らす。

「……こら、食べ物で遊んじゃダメでしょ」

相手はすぐに食卓の上でエビの尻尾を使って遊び始めるシェンナの方へと注意が向いた様で、とりあえずホッとする。
なるべく目を合わさないようにして、ジュノはかじりかけていたレンコンのテンプラを口に運んだ。歯ごたえがどうもクセになる。

「ジュノさんって、どこのご出身なんですか?」
「えっ、あ、え、あ……」

突然シオンから声をかけられ、ジュノは大きくビクつき、言葉を詰まらせた。どうもこの女は苦手だと改めて思った。
だが、答えないわけには行かない。必死に自分を落ち着かせながら、彼は偽りの設定を思い返す。

「……東京の八王子生まれです。こっちへは貿易商の親の仕事の都合で1年前からここに。あ、でも、その後すぐに、
父も母もアメリカのサンフランシスコに行く事になって、それで僕だけが一人こっちに残って暮らしているんです」
「へぇ、じゃぁ大変だねぇ」

なんとか上手く言えたことに、ジュノはホッと胸をなでおろした。設定には注意を払ったのだから当然といえば当然だが。

「じゃぁ、高校はどこ行ってるの?」
「……えっ!?」

さすがにそこまで決めてなかった事に気づき、彼の汗腺という汗腺から汗が滲み出していった。
よりにもよってこの場にいる全員の視線が、ジュノの答えを待つようにこちらに集中している。
早く答えなければ。バレる。バレる。バレる。心臓が早鐘の様に打ち鳴らされる。何か答えなければ。

「えっと……ひ、ひがし、高校……?」
「えーっ、この辺そんな高校あったっけ?」

オレンジの怪訝な顔を見た瞬間、気が遠のきそうになった。クソッ、変な髪形しやがって。大きく舌打ちする。

「き、北……?」
「えーっ! 北高校!? 名門の進学校じゃないですか。頭良いんですね。ジュノさん」
「……え、ま、まぁ」

なんとか上手いこと誤魔化せたが、ジュノは自分の偽設定が思いのほか甘かったことをひしひしと痛感した。
これ以上、質問攻めにあっては適わない。彼はその顔面に100%の作り笑顔を貼り付けながら、

「そっ、そうだ。またお腹空いてきちゃったから、おかわりしようかな。お願いします」
「はぁ……」

シミュレーション通りピッタリ45度の角度で差し出した茶碗を、クリームが受け取った。

「シェンナもですー!」

隣のシェンナもそう言って茶碗を箸でチンチン鳴らして、催促のビートを刻んだ。ロック元年到来である(?)。

「じゃぁ、シェンナ、そろそろ納豆の時間にする?」
「ですー!」

クリームの一言に、ジュノの全身に緊張が走った。

「(……納豆……)」

彼は目を閉じ、深呼吸をすると、クリームに決意の表情を見せ、

「……喜んでいただきます」
「え? ジュノさんも欲しいんですか?……じゃぁ、持ってきますね」

冷蔵庫に向うクリームを横目で追いながら、ジュノは薄々予感していたものの、やはり来たかと言う気持ちでいっぱいだった。
ジュノは再び目を閉じ、納豆が来るのをじっと待っている中、脳内である記憶がフラッシュバックした。

──納豆。日本人に成りすますにはこれが食えなくてはならない。食えないとなれば、それこそ確実に怪しまれる。

ジュノの所属する革命戦士団、その団長の言葉だった。納豆、これを食べる事は日本で任務を遂行する以上不可避。
日本の食事には必ず登場し、パーティーの席などでは、必ず最後のシメに皆揃っていただく事になっていると聞いた。

──納豆とは、腐った豆のことだ。ここに、俺が作った納豆がある!

団長が用意した納豆。壷の中に入った腐敗してぶよぶよした紫や黄色の豆達。変な虫やウジまでもが這うグロさ100%の物体であった。
日本人はそれら虫やカビまで一緒に食すと団長が言うものだから、当時の彼は日本人は劣等な民族なのだと嫌悪感しか出てこなかった。

「(こっ、こんな物を食う奴らなど……さっさと滅びてしまえば良いのだ……! やはり日本人は、俺達が制圧すべき奴らなのだな)」

革命戦士になるためにはこれを完食出来ねばならなかったせいで、ジュノの日本への憎悪はより激しくなってしまった。
最初の一口で謎の高熱と嘔吐が五日間続いて死に掛けたし、再チャレンジの時も自分の体が大きく伸び縮みする幻覚が二週間消えなかった。

「(これも……これも……革命戦士となって、日本を制圧するためだ……! 復讐のためだっ……!!!)」

幾人もの革命戦士候補が無残にも次々と散って行った中、当時のジュノをひたすら支えたのはその思いであった。
そして、彼はなんと壷に入った納豆の8割を一人だけで食べ続け、みごと鉄壁の胃袋を手に入れる事に成功したのであった。
組織の結成以来、最も納豆を食した勇気ある男として、その功績を称えられた事まであった。今でも彼の自慢でもある。

「(……日本人どもめ、この俺があっという間に納豆を平らげる姿を見て、まんまと騙されるが良い……!)」

クリームがこちらに向ってくる様子を感じながら、ジュノは小さくクククと笑い声をあげた。
もう俺は納豆など怖くはないのだ。テロリストであるこの俺が、納豆ペロリと食す姿を見せつけ、たっぷり優越感を感じてやる。
さぁ、来い。早く来い。目の前にご飯と一緒に置かれた納豆のパックを見ながら、思わず口元がニヤケた。

「ジュノさんそんな笑っちゃうほど納豆好きなんですか」
「……ええ、だって、日本人ですから。日本人は、納豆ですもんね」

ジュノは余裕たっぷりにそう言い放つと、真っ白な納豆パックを開いた。
そして目の前に飛び込んでくる紫のブヨブヨと、目が4つある虫達……

「(……あ、あれ……?)」

だが、納豆パックの中へいくら目を凝らしてみても、そんな物は何一つ存在していなかった。
中にあるのは、タレやからしの入った袋、そして透明なシートが乗った湿り気を帯びた茶色い豆だけだ。
あの洗っても二ヶ月は取れぬ激臭さえしない。これは、俺の知っている納豆じゃない。彼は0コンマ以下で察知した。

「(……わかった! この中に虫やらカビやらを練りこんでいるのだな……。ククク……なるほどそういうことか。
あやうくこの俺様が騙される所だったぜ……。革命戦士を舐めるなよ、日本人ども……)」

そうと決まれば、後は食すだけだ。あの口内にある歯という歯が一瞬で融解しそうなまでの感覚は既に慣れている。
ジュノは、バレぬようにちらちら横目でシェンナと同じようにタレを入れ、かき混ぜ、そのままご飯の上に乗せた。
準備万端。早速手を合わせ、

「いただきます!」

満面の笑みでジュノはご飯と一緒に納豆をかき込んだ。味を舌が感知しないうちに一気に飲み込むのがコツだ。
みるみるうちに減ってゆく納豆ご飯。楽勝楽勝。むしろご飯があるおかげで飲み込みやすいというものだ。

「ジュノさんって、本当に美味しそうに食べるのね。私、納豆嫌いだけど感心しちゃう」
「!?」

何気ないシオンの言葉に、ジュノの箸がふと止まった。今、納豆が嫌いだと聞いたが。空耳だろうか。

「私も納豆好きじゃないのよね。よくあぁ美味しそうに食べられるって思う」
「私も。シェンナが好きだから仕方ないけど……匂いがね」

え? え? え? ちょっと待て、話が違う。隊員らの言葉に、ジュノの脳内回路にバチバチと火花が走った。
団長は日本人は全員納豆を食べるって。食べられないと怪しまれるって。断ればそれこそ国賊ものだって。
断って良かったの? 嫌いだったら食べなくても良かったの? ちょっと待って、え、俺、あんなに食ったのに。
臭いから近寄るなって怒鳴られて、半年くらい一人だけ離れてテント暮らしまでしたのに。嘘、え、待って。おい、え、嘘。

「あれ、ジュノさん、どうしたの?」

ジュノは何もかも燃え尽き、真っ白になっていた。彼の脳みそは、はるか遠い宇宙の果てをさ迷っていた。
無意味な事をしてしまった。どうしてこうなってしまった。これも日本人のせいだ。日本人どもが俺を騙したのだ。
脳みそが帰還する最中、ジュノの心中では何故かメラメラと日本と日本人に対する苛立ちが募り始めていた。

「(絶対に許さん……! 日本人ども……絶対に許さん……!! すぐに制圧して、貴様ら全員を奴隷にしてやる!)」

彼は、ぐっと怒りで歯を食いしばった。口内に残っていた納豆達も一緒に噛み潰し、その味が口いっぱいに広がったその時、
ジュノは言い知れぬ感覚を覚えた。それは吐き気でも、悪寒でも、嫌悪感でも無く……

「(あれ……こ、この味……)」






──ドカァァァァァァァァァァァァァァァァァァン!!!!!






突然、爆発音と共に黒煙がパーティ会場を一気に埋め尽くした。
隊員達の叫び声。皿の割れる音、視界が見えないせいで場はパニックとなっていた。

「(……敵襲か!?)」

一方、ジュノだけは昔からの軍事訓練の賜物で、こんな状況に置いても一人冷静であった。
武器を何一つ持ってこなかった事を悔やみつつも、まずは逃げる事を優先するべきだと、
彼は床に這いつくばると、ぼんやりと向こう側に見える倒れたテーブルの裏側に隠れようと、匍匐前進して行った。

「キャーッ!」

その声にピクリとジュノの体が反応した。それは後方から聞こえた。シオンの声だった。
壁となるテーブルはもう目と鼻の先だというのに、戦場で私情を挟むなど愚かなことであると言うのに、
ジュノはその場で前にも後ろにも進めずに固まっていた。戦場ならば死を意味する行為だ。
なのに何故か、シオンの方に気をとられてしまう。あの女は日本人だし、俺は恋愛などに興味は無いのに。

「(……た、助けておけば何かと役に立つかもしれん……そうだ。そういうわけだな)」

そういう打算的な判断でこうなっているのだと自分を納得させ、ジュノは後方へと下がった。
が、そんな事をする必要はもうなかった。突如突風が吹き、部屋の中を多い尽くしていた黒煙を消し去ったのだった。

「ハハハ……驚いたか、日本人どもめ」

聞きなれた声に顔を上げると、ジュノは思わず息を呑んだ。
迷彩服に、軍靴、顔のフェイスペイント……どこからどう見ても自分と同じ革命戦士団の服装であった。
そして、そんな格好をしているのは数時間前まで戦士教育をしていた二人の少年。だが、何やら目付がいつもと違っている。

「いいか、よく聞くが良い日本人ども。俺達はこの邪悪な国を滅ぼすためにやってきた革命戦士! ライバと」
「サイバだ!」

二人は互いに背を向けながらニヤリと不敵な笑みを浮かべ、高らかに宣言した。

「(俺の教育が、まさかここまでこいつらを成長させるとは……)」

堂々と兵士らしい格好で、自分が付けてやった戦士名を言い放つ彼らを見て、ジュノは少し嬉しくなった。
たった数時間前までは頼りなさげだったと言うのに、なんとも様になっている。周囲に隊員達がいるにも関わらず、
彼はついつい立派な戦士然とした二人に感激してしまい、褒め言葉の一つでもかけてやろうと、立ち上がったが、

「オイ、貴様」

突如二人の教え子はどこからかライフルを取り出し、恩師に向って銃口を突きつけたのだった。

「貴様は日本人だな?」
「えっ……」
「妙な日本語のTシャツを着ているのだから日本人に決まっている!」

二人の目付は、激しい憎しみを抱いているような鋭い目付であった。
ジュノは教え子から銃口を向けられた怒りで我を忘れて『俺が判らないのか!?』と怒鳴りかけたが、

「日本人は敵だ!」
「敵だ!」

無慈悲にもその際に、マスクごと彼の口の中へ二つの銃口が突っ込まれた。さすがの彼もゴクリと唾を飲んだ。
青ざめた自分の顔を前に、ハハハと残虐な笑みを浮かべる二人を見て、ジュノは何かがオカシイと気づく。
そもそも、銃器の扱い方などまだ教えていないし…いや、待て。彼らの武器をよくよく見ると、非常に見覚えがあった。

「(……おっ、俺の愛器達じゃないか……!!!)」

支給品とはいえ、訓練生時代からコツコツと手入れし続け、幾度もの試練を乗り越えてきた戦友達を、
よりにもよってまだケツの青いガキどもが、無断利用している。しかもとびきりお気に入りの愛器を選んでいる。勝手に!

「お、おむぁえら……」

ジュノは怒りで震えながら、その苛立ちを言葉に出そうとしたが、

「貴様は黙ってろ!」
「弾丸ぶち込まれたいのか!」

より奥まで銃口を突っ込まれ、ジュノは苦しそうに顔をしかめなら言葉を引っ込めた。
革命戦士ともあろう自分がこんな惨めな仕打ちを受けるとは。彼のプライドは激しく傷ついていた。

「おい、そこの部屋の隅で固まっている日本人ども。貴様らもよく聞け」
「たった今よりこの場所は、我が革命戦士団の駐屯基地に決まった」
「ちょっと、勝手に決めないで下さいよ!」

グリーンの言葉に、右側の少年─ライバ─は、ジュノから銃口を引き抜くと、そのまま天井に向って発射した。
女、だけでなく男の物まで混じった悲鳴が部屋中に響き渡る。

「貴様らにどうこう言う権利などない! 貴様ら日本人どもは、心根の腐った奴らだ!」
「俺達はそんな劣等民族どもを一人残らず抹殺してやるのだ。ハハハハハ!」
「って、あんたらも日本人でしょうが!」

今度は左側のサイバが、先と同じようにして威嚇射撃をしてみせた。悲鳴がより一層悲痛さが増した。

「俺達はもう日本人を辞めたのだ! こっ、この国は最低な、最低な奴らの集まった最低な国なのだ!」
「そうだ! そうだ! どいつもこいつも、俺達をバカにしやがって、邪険にしやがって! 」

ライバとサイバの二人は、まるで魔物にでもなったかのように目を見開き、牙を剥き出し、その声を荒げた。
少年らが隊員達に気をとられている隙に、ジュノはそっと彼らの後方で倒れているシオンの方へ走り寄った。
彼女は気絶したフリをしていたらしく、彼が駆けつけるなり、瞳を潤ませて彼の胸に抱きついたので、心臓が止まりそうになった。
……が、そんな状態を前にしてさえ彼は恋だと気づかず、突然戦闘状態に巻き込まれ、緊張したせいだと結論付けたのだった。

「(とにかく、上手くやるしかない)」

ジュノはシオンを部屋の隅に向わせると、キッチンの方からフライパンとまな板を素早く調達した。
後は、人生の99%を費やしてきた軍事訓練で身に着けたテクニックだけ。ジュノは二人に飛び掛った。
──だが、彼が飛び上がった瞬間、目の前にいたはずの二人の姿は忽然と消えてしまっていた。

「(な……に……!?)」

そう思った瞬間、視界の左右から足が伸ばされた。その足は、すぐさまジュノの腹部を同時に蹴り上げた。
胃液が上がってくるほどの衝撃を感じ、ジュノの身体はそのまま宙を飛び、部屋の壁まで吹き飛ばされた。

「ジュノさん!」

隊員達の声がかすかに聞こえる中、ジュノは薄れ行く意識の中で、こちらに近づく二人の姿を捉えていた。
ろくに腕立て伏せも出来なかった奴らが、今こうして自分を簡単にやっつけられるほどの技術と体力を持っている。
何かがおかしい。一体、こいつらはどうなってしまったのだ。

「どいつもこいつも、みんな俺の敵だぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
「敵だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」

突如、少年たちの周囲を紫色のオーラが取り囲んだ。
唸り声を上げながら、その全身から邪悪なオーラを漂わせる少年たちを前に、ジュノの中に恐怖心が芽生えた。

「敵は始末だ!」
「始末だ!」

ジュノの眼前に、鈍い光を放つ銃口が向けられた。二人の目は憎しみと憎悪に満ちていた。
──こいつらは悪魔だ。悪魔に取り付かれてしまったのだ。人知を越えたとしか言えない状況に、彼の身体は震えた。

「……OFFレンボックス!」

その時、大きな声と共に周囲を白煙が覆った。銃声がし、ジュノは慌てて地面に伏せた。
白煙が消え、恐る恐る目線を上げる。ジュノはハッと息を呑んだ。少年たちがピンク色のゼリーみたいな物質に閉じ込められていたのだった。
二人はそれらに向けて発砲するが、弾丸はそのピンク色の中にズブリと入り込んだ瞬間、すぐさまその動きを止めた。

「これなら、あなた方も手出しできないでしょう」

やれやれといった表情で、ゼリーの中で暴れる少年達の側へグリーンが近づいた。
中にいる少年二人は、相変わらず憎たらしい形相で銃を乱射し、黒点だらけ。ピンクのゼリーはさながらごまピーチ味。
こいつらがこんな不思議な物を使ったのだろうか。ジュノは驚きの目でグリーンを見つめた。

「(実に確実かつ安全な解決法だ……クソッ……やるなこいつら……)」

彼が自分の国とは程遠い技術力の差(と言って良いのか?)にうな垂れつつも、無事に鎮圧した事に一安心していると、

「物騒な物を持って、大事な親睦会を滅茶苦茶にした挙句、反省の色無し。皆さん、たっぷりお灸をすえてやりましょう」

グリーンの一言で、隊員達はそれぞれ武器を取り出し、ピンクゼリーの周囲を取り囲んだ。

「え、ちょ、ちょっと待っ……!」

何やら嫌な予感がし、ジュノは立ち上がろうとしたが途端に足に激痛が走った。
恐らく少年達に吹っ飛ばされ、そのまま落下した際に足から行ってしまったらしく、足首の所が赤く腫れていた。
ヤバイ。は、早くこいつらを止めないと俺の愛器達が……! しかし、足の痛みで勢い余って転倒してしまう。

「行きますよ皆さん! OFFレンジャー、攻撃開始ですっ!」

彼らの武器は、外部から内部へとすり抜け、中にいる少年達に次々と攻撃を加えた。
そして、その武器は少年達だけでなく、彼らが勝手に持ち出してきたジュノご自慢の愛器達にまで及んだ。

「やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」

“AK-47”の銃身が、レーザー光線に焼ききられ真っ二つに。

「のぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」

ヘリや装甲車までも打撃を与えられる“バレット M82”が、鋭利な刃物でお魚の如く三枚に降ろされる。

「うあああああああああああ!!!」

2キロ先の相手まで簡単に狙撃出来る、武骨な“チェイタック M200”が、トンカツにピッタリなまでのみじん切りに。

「あがががががががががががが!!!」

“マウザー98K”が、“H&K MSG90”が、“M401A”が、“PSG1”が……。
長年大事にし続け、日本制圧のために持ち込んだ愛器達が、ジュノの目の前で無残にも破壊されてゆく。

「ば、ばばば、あばばば……」

そんな光景を前にして、彼の脳みそは最早耐え切れなかった。側にいたシオンがプチンと言う音を聞いたのを最後に、
偉大なる革命戦士ジュノは、マスクの端から泡を垂らしながら、床の上に倒れこんでしまうのだった……。




















「……ティオー。ちょっと来なさいよ」

帰宅するなり一番に自分を呼ぶ姉の声に、彼女の弟ティオは急いで駆けつけた。

「お、おかえりなさい。ねーさま……」
「…………」

姉の毛並みはボロボロになっていた。オマケに顔つきもいつもの外面とは違った悪魔にピッタリの怖い形相。
きっととてつもなく、嫌な事があったのだとティオはすぐさま悟った。

「ね、ねーさま?」
「…………」
「ぱ、パーティ、楽しくなかったの……?」
「……あんたの悪のエナジー集めはどうなってんの」

いきなりビックリするほど低い声で、問いかけられたティオはビクッとしたが、

「あ、そ、それは、ちゃんと……やったよ……いっぺんに二人も、悪魔化させて……
あ、メーターもちゃんと増えてて……さっき見た時は、10くらいになってたよ」

ティオは、顔をほころばせてデビルカプセルを取り出し、下部に付いているメーターに目をやった。
さっきは悪魔化させた少年達の心が生み出した悪のエナジーが、10の目盛りまでメーターが増えていたが、
取り出した矢先、カプセルのメーターはいきなり徐々にその数値を減らし、一直線にゼロへと向っていたのだった。

「あ、あれ……おかしいな……な、なんで減ってくんだろう……」

──その直後、弟は魔界一と謳われた姉の恐ろしさを極限まで体験する事となる。
もちろん、その理由は一切聞かされないままに……。



















既に11時を過ぎた706号室。ジュノの部屋。

「クソッ!!」

ちょうどこの瞬間、十発目の重々しいパンチが壁に叩きつけられた。これはAK-47の分。

「……あの日本人どもっ……絶対っ、絶対に許さん!!!」

続いて十一発目のパンチ。これはM401Aの分。大粒の涙が次から次へと零れた。

「許さんっ! 許さんぞ日本人どもぉぉぉぉ!」

挿絵

十二発目。これは教え子を失った分。
あれから気を取り直した少年達は、ひどく衰弱し、暴れていた記憶が無かったという。
ということは、戦士になれる高揚感から浮き足立ってあんな事をしてしまったのだろうとジュノは納得し、
帰り道でかなり見込みがあるから、明日からもバシバシ訓練して行こうと語ったのだったが……。

──あの人ら、すげぇ俺らに親切にしてくれて。怪我も治してくれたし、ご馳走も食べさせてもらったし。

クリームが、彼らが気を失う瞬間彼らの身体から黒い影が抜けていくのを目撃したと言う事で、
なにやらタオル男事件の時のように、何かの影響で少年達がこうなったという話になり、
隊員達はボコボコにさせてしまったお詫びに、少年らに残り物のご馳走を食べさせ、手厚く治療してあげたのであった。

──俺達、親も先生も親戚もみんなからいらない奴みたいに見られてて。

十三発目。思い出せば思い出すほど腹が立ってきた。

──ジュノさんが言う様に、日本人なんか全員クソみたいなヤツなんだって思ってたけど、
そんなに悪い人らばっかじゃないのかなって。だから、もう俺ら辞めます。あ、ここでの事は誰にも言いませんから。


「そんな訳があるかあああああああ!!」

十四発目。パラパラと天井からホコリが落ちてくる。

──ジュノさんも、正義のために日本の悪い奴らを倒すの頑張ってくださいね!

「ちがうちがうちがあああああああああああう!!! 誰がこんな国などを守るものかあああああああ!!!!
にっ、日本人など、全員憎むべき奴らなのだっ! 制圧し! 奴隷にし! この地球上から抹消すべき劣等民族なのだっ!!」

十五発目。喉が枯れて来た。そろそろ彼の体力も限界であった。彼は自分の中で必死に日本人に対する憎悪を高まらせていた。
油断をすれば、ある事が思い返されてしまうため、彼は懸命に怒りと憎しみでそれらを誤魔化そうとしていたのであった。

「ハァッ……ハァ……おのれ……日本人……どもめっ……」

壁に手を付き、息を整える。シオンの微笑みが何故か頭から離れない。ただか一人の女の顔を思い返す意味がわからない。
なのに、シオンの顔、声、匂い、仕草、言葉、その一つ一つが胸を高まらせ、彼を動揺させていた。

「や、奴はっ、俺の祖国を滅茶苦茶にした、憎むべきっ、日本人……!」

続けて、彼の脳内に納豆の事が思い返される。元々自分が知っていた納豆は、この世の物とは思えない嫌悪すべき食べ物。
しかし、実際は異なっていた。あの時、噛締めた納豆は嫌悪どころか、むしろとても、味わい深くて、つまり……。

「違うっ! 違う違う違うっっっ!」

ジュノは頭をガンガンと壁にぶつけた。一発、二発、三発。壁にはフェイスペイントの塗料が付着していた。

「劣等民族の食い物など、美味いはずが無いのだっ!! あれは偽者なのだっ、俺を騙すために、日本人どもが仕掛けた罠なのだっ!!
罠だ。罠だ。あいつらの食い物など、美味いはずがないのだっ!!! 日本人どもは、そんな、最低な人間達なのだぁぁぁっ!!」

しかし、振り払おうとすればそうするほど、それらの記憶は彼の中で余計に鮮明になっていく。
憎むべき敵であるこの国の物に1%でも好意を持つなど、彼のプライドとしてあってはならいこと。彼の頭はもうパンクしそうであった。

「うがああああああああああああ!!! だああああああああああああああああああ!!!!!!」

錯乱したジュノは手当たり次第に、周囲の銃器を壁に投げつけ、叩き、蹴り、頭突きをし、体当たりをし、大声で叫びまわった。
既にキレたナイフとなった彼は、もう誰にも止めることは不可能であった。……そのはずだった。
突然、彼の部屋のドアを何者かが激しく叩いたのだ。

『下の階の者ですけど、いくら防音でもね、床伝いに下に響いて寝られないんですけどねぇ!』

弱弱しい、中年男の声であった。
苛立ちが収まらないジュノは、もうどうにでもなれと、床に転がった銃器を手に取り、玄関に向った。
偉大なる革命戦士として、日本人に毅然と言ってやらねばならん。彼の闘志はメラメラと燃えていた。

『こんな時間まで夜中に騒ぐのもね、いい加減にしてもらわないと警察呼びますよ!』

──警察。その言葉にジュノの足が止まった。

『ちょっと、聞いてるんですか!? わかってんですか!?』

男は余計に激しく部屋のドアを叩き続けていた。どうにも簡単に収まる様子は無い。どうやら言ってやらないと仕方ないらしい。
そうして、ドアの前に立ったジュノは“偉大なる革命戦士”として、男に向って毅然と言い放ってやったのであった。


「……すみませんでした……ごめんなさい…………もうしません……」