第122話

『Good bye、役所広司』

(挿絵:シルバー隊員)


◇役所 広司◇ (やくしょ-こうじ)【人名】

《1956年1月1日~》俳優。長崎県諫早市出身。本名:橋本広司。

役所勤めを経て、仲代達矢主催の『無名塾』に加入し舞台公演を行う傍ら、1980年にTVデビューを果たす。1983年、NHKの大河ドラマ「徳川家康」の織田信長役により知名度を上げ、翌年の「宮本武蔵」にて初主演に抜擢。その後、映画「Shall we ダンス?」、「失楽園」などのヒットにより映画俳優としての地位をカッコたるものとする。

現在でも数多くのドラマ、映画、CMなどに精力的に活動を行っており、日本を代表する実力派俳優の一人である。










──ねぇ、広司。ボク、今でも君がいた時のことを、時々思い出しちゃうんだ。

オカシイよね。でも、ボクは悲しんでるわけじゃないんだ。それだけは安心してよ。

ただ、なんとなく。君といた日々が、どれもキラキラしていて、懐かしくて、眩しくて──

















◇sometime...◇


「ホントだって! まもなく共産圏が日本に攻め込んでくるんだよ!!」
「あーはいはい。それは良かったですね」
「グリーンもいますぐ『国民が知らない日本の危機』で検索してみて! うかうかなんてしてられないよ!!」
「はいはい、ちょっとコンビニ行ってきますから留守番頼みますよ」

必死の熱弁を適当に受け流したグリーンの背中を見送りながら、
ボクはなんでこんな大変な事をまともに聞いてくれないのか、不満で不満で仕方が無かった。
せっかく正義の味方として、ネットで表に出て来ない恐るべき悪事を調べていたのに、なんだかやりきれなかった。

「もういいよ! ボク一人だけでヤツラと戦うから!!」

既にグリーンには聞こえてないのを知りながら、ボクはおもいっきり怒りを爆発させた。
爆発が大きければ大きいほど、必ずそれに比例して大きな虚しさがやって来るのは自然の理だ。
ボクは両手で支えきれないほどの虚しさと、ボクの身体を突き破りそうな苛立ちの、内外両方の圧力に負け、ソファにどっしりと腰を下ろした。
普段は手狭に感じるこの部屋も、一人だけには広すぎる。

「いや、俺もいるんだけど」
「おわっ!」

おもいっきり真横に腰を下ろしていたグレーに驚き、ボクはソファからずり落ちた。
い、一体いつの間に、とボクが問う前に、彼は大きく溜息をついて、冷ややかな眼でこっちを見下ろした。

「……最初からいたし。なんで気づかないかな」
「ご、ごめん。あ、ほら、ボクそれどころじゃなかったからさ、グレーも知ったほうがいいよ、共産圏の奴等がさ……」
「オレンジって、最近なんかネットで胡散臭い情報見るたびに騒いでないか? この前の大企業の陰謀もただの鬱憤晴らしのデマだったんだろ」
「う……」

グレーの言う通りだった。
ボクはここ最近、ネットで見つけた情報を見る度「これは大変だ!」と騒ぎ続けていた。
しかし、よくよく調べて見ると、わかりやすいデマであったり、ただの鬱憤晴らしや、こじつけ、明確な情報ソースが無いなどと、
とにかく、みんなから白い眼で見られていた。

「なんで、急にオレンジが危機意識に目覚めたのかわかんないけど、あんまりしつこいとやばいんじゃね?」
「や、やばいって何が?」
「グリーン内心、相当キてるみたいだからな、辞めさせられちゃうかもよん」
「え……」
「いくらなんでも、16人は、多すぎだしさぁ。それにオレンジ、OFFレン内じゃあんまりキャラ立って無いし」
「そ……そっか……な」

へっへっへと意地悪く笑ったグレーを前に、ボクは静かにうな垂れた。

「じょ、冗談じゃん。そんなマジに取る事ないって」
「……」
「お、おい、オレンジ、ちょっと……」

以前のボクなら、こんなのちょっとした冗談だってわかっていただろうし、調子が良ければノリツッコミぐらいはしたかもしれない。
でも、今自分が置かれているこの状況で、グレーのその悪意の無い冗談は、悪意が無いからこそ残酷に、ストレート、にボクの心に突き刺さったのだ。
……そう、ボクがこんな風になったのは、まさにそれが原因なのだった。



──あれは、先月の末頃。金曜日の、からっと晴れた、夕暮れが綺麗な4時半を少し過ぎた頃だった。

マンションから徒歩10分のスーパーの駐車場に、突然暴れだした男がいるという報せが入り、ボク達はすぐさま急行した。
その日は珍しく全員(といっても、再集結してるメンバーの内での話だけど)が集まっていて、心強かった。大勢いるからね。

現場に到着すると、駐車場にはトイレットペーパーに巻きつかれた人や、洗剤の泡に塗れて倒れている人達がいた。
犯人の男は、スーパーの店員らしくお店のマークが入った制服という格好で、入り口の前に仁王立ちになって、こちらを見ていた。
額にコウモリのマークがついていて、いつものように何物かに取り憑かれているのが判り、少し緊張した。
お客さんのほとんどが逃げてしまった成果、いつも賑わっている駐車場はガランとしていて、そういう不気味な雰囲気も余計それに拍車をかけた。

「フフフ……今度はお前達が相手か……安かろう悪かろうを誇るうちの商品であっという間にひねり潰してくれるわ」
「その言葉、そっくりお返ししてやりますよ! みんな行きますよー!」
「おー!」

……最初は威勢良く叫んだりしてみたけど、結局はそれがピークだった。
いきなり走り出し、男に向って武器の剣を振り上げた瞬間、ボクはヤツの両手にあったラップであっという間に全身をぐるぐる巻きにされた。
剣を振り上げた格好で、手首の辺りまでキツく巻かれてしまったものだから、剣で切る事も出来ないまま、ずっとラップにくるまって地面に倒れる。

「俺はお前みたいな生意気なガキが一番嫌いなんだ。……おや、ちょうど良い物を持っているようだな。クックック……」

やられる……! ボクは、ぼやけたラップ越しにもハッキリと見える男の真っ赤に光る目を前にして、
『心臓が凍る』という言葉の意味が初めてわかったような気がした。まだあのアニメ見終わってないのに……!
こんな時そんな風に思ってしまったボクは今思うとなんだか哀しいけど、本当にそうだったからしかたがない。

「大丈夫ですか、オレンジ!」

横から何かが飛びかかって、男が倒れたのが見えた直後、ボクの視界は左右に割れ、クリアなグリーンの顔が現れた。
ボクはさっきのせいですっかり腰が抜け、頷くので精一杯だった。グリーンはそのまま店の方へと逃げてゆく男を追いかける。

「残念でした!」

逃げる男の左右から、ショッピングカートが現れ店の入り口を防いだ。機転を利かせたのはクリームとシェンナ。
あのまま男を店の中に入れてしまえば、お店や、まだ店内に残っているお客さん達を巻き込む被害は免れない。さすがだ。

「クソッ!」

踵を返そうとした男に、上空から網が落ちて、やつの身体は店の屋根と同じ位置まで吊り上げられた。
あの咄嗟の状況でこんな判断が出来たのは、ブルー。いつもはホワイトにしばかれていても、さすが副隊長。凄い…。

「皆さん、今の内に早く」

その最中、パープルとホワイトが店内に残った従業員やお客を誘導して外へ逃がしてゆく。
ボクは、何も考えてなかった事に気づく。そうだ。こうしてる最中、一番怖い思いをしているのは彼らなんだ……。

ボクは改めて周りを見回した。イエローは薬品銃で硬い泡を溶かして被害者を救出していた。
あんな下ネタとか意味不明な事ばかり言ってるシルバーでさえ、彼女と一緒になって人々を助けている。
ブラック、ガーネット、ピーターに、あのグレーまで。みんな、自分のやるべきことを見極めて、ちゃんとそれを果たしている。

そんな光景を、情けない事にボクは呆然と眺めている事しかできなかった。
そして、そんな自分がとてもちっぽけな存在に思えると同時に、ボクは、これまで目を逸らしていた一つの真実に気づいてしまったのだった。


──OFFレンジャーとして、ボクにしか出来ない事って、あるんだろうか……。

















人間、誰にでも生まれた理由がある。今のボクには、この言葉を最初に言った人の気持がよくわかる。
どんなに偏屈な人間でも、どんなに人生がくだらないと思っている人間でも、やっぱり自分が無価値だなんて思いたくはない。

こうして寝転がっているソファーも、天井の眩しい電球のエネルギーも、食べかけのお菓子も、
お腹の上に伏せたままの漫画も、今見ているTVも、この部屋の内装、いや、それだけじゃなくマンション全体だって誰かが……。
ボクの周囲は、当人の考えはどうであれ、社会的に見れば価値ある人間に溢れているから、気づけばとても息苦しくなるんだ。

そんなのどうでもいい。きっと世の中にはそう思って生きている人だっているに違いない。ボクみたいな人間に残された逃げ道。
……でも、ボクはただの子供じゃないから。一時的に社会に庇護されているだけの存在ではないから。とてもその道へは行けない。

“正義の味方”ボクがそういう立場にある以上、公共に、社会に寄与するべき存在である以上“自身の価値”からは逃れられない。
社会にとって無価値であれば、それはもう正義の味方ではないから、それは、無価値の人間が自称しているだけの、滑稽なピエロに過ぎないから。

「そういえば、大鶴義丹ってどこに行ったんでしょうかねぇ……」
「鶴か? 俺は、鶴は動物園にいると思うのだ!」
「唐十郎の息子ですよ。以前トレンディドラマに出てた」
「ドラマに出る鶴は知らないのだ……」

目の前で騒いでいるグリーンとガーネットの掛け合いを見ていれば、ボクも彼らと同じ平凡な青少年だと安心する事も出来る。
しかし、ボクは彼らと自分の間にある溝の深さを知っている。それが、どれだけボクの足をすくませるほどの絶壁かを知っている。
だから、この部屋でボクは“無価値”という事実だけが浮き彫りにされたまま、残酷なほど明るく、無残なほど賑やかな世界に、一人取り残されているんだ。

「ちょっとオレンジ。いつまでもソファ独占してないで、どいてよー。ドラマ見るんだから」
「……ん」

目を上げるとマグカップを手にしたホワイトが不満げにボクを見下ろしていた。
彼女の眼は、異質な物を見る眼に見えた。いるべきでない存在に向けられるような、怒りの眼。……そうか、邪魔なんだ。ボクは。

「ほらほら、男共はどいたどいた」
「あぁっ、せっかく良い所だったのに」
「ホワイトさんはドラマに出る鶴を知っていますか?」
「は? 何それ」

ボクは眼と鼻の先で起こっている喧騒を、どこか遠くに感じながら、ゆっくりと起き上がった。
胸元にこぼれたポテトチップスの食べかすを掃い、どこまで読んだかさえも、最早どうでもよくなった漫画本を閉じる。

「あぁっ、ちょっと! ソファの上に食べカスを落とさないでよ~! 汚いじゃん!」

ホワイトの声がして、ボクは顔を上げた。彼女は眼を吊り上げながらソファを指差していた。
何を言ってるのか、わからなかった。ボクはキミ達と違うから、何も出来ず、葦よりも弱い存在だから。

「ちょっとオレンジ。何ぼけーっとしてんのよ! 聞いてんの!?」
「ボクに、言ってるの……?」
「は、はっ!?」

彼女は変な顔をしたかと思うと、突然ボクを見下した様な、価値ある人間だからこそ成せる、侮蔑の表情をボクに投げた。

「あっそ。アタシはオレンジだと思っていたけど、どうやらアンタはオレンジじゃなかったみたいね。ごめんごめん。
た! い! へ! ん!申し訳ありませんが! もしよければ、お宅はどちら様か教えていただけませんでしょーかっ!?」

この人は何をそんなに怒っているんだろう。ボクにはそれさえもうわからなくなっていた。
名前を聞いているのか。名前……あれ、ボクの名前はなんだったっけ。

『役所広司です』

ボクの耳に男の声が聞こえた。テレビから流れる映画の予告編。内容を熱弁する中年男性の姿。
彼も価値のある人間だ。そうか、彼の名前を借りてしまおう。価値の無い人間には、そんな下卑た真似はピッタリだ。
そう考えた時、ボクはまるで素晴らしいイタズラを思いついた幼児の様に無邪気に微笑んでいた。何から何まで価値の無い、瑣末な顛末。

「ちょっと、聞いてんの!?」

ボクは彼女の方へ目を向けて、胸いっぱいに吸い込んだ企みを吐くように、口を開いた。

「……役所広司です」
「えっ!」
「役所広司です」

彼女の表情が凍りついた。驚いたようだ。
価値の無い人間が、価値ある人間を自称する……これぞ下克上。ボクの心は少しばかり晴やかになる。

「……ね、ねぇ、二人とも、今の、聞いた?」
「き、聞きました」
「聞いたのだ」

男と、男と、女。3人は、ボクのこの些細な反逆に眼を丸くしていた。
そんな様を見て、ボクはこれもある意味、ボクという存在の価値になりえるのでは無いかと半ば自嘲気味に思った。
無価値側から価値ある者達へ反旗を翻したレジスタンス……。武器は、ちっぽけな諧謔をひとかけら。

「役所広司です」

再び反逆の意を言葉にする。
大人しい羊の腹を食いちぎり、狼が姿を現した事に、彼らは恐れおののく。

「役所広司です」

……もう一度、もう一度。
ボクはこんな形で価値を創造してしまった自分と、それがもたらす効果に酔いしれていた。

「お、オレンジ……あんた……」

女はボクの肩を、興奮した様子で掴む。価値ある者からどんな言葉が投げかけられるのかボクは胸を躍らせた。
しかし、その言葉を前にして、どうやらボクは自分で生み出した価値の形状を、まるっきり勘違いしていたらしい事に気づいた。

「そのモノマネ、めっちゃ似てるんだけど!」























数日後、ボク達はマンション前のコンビニで強盗が立てこもっているという情報を聞き付けた。
やっぱり正義の味方としては、すぐさま駆けつけなきゃね! Go To GOUTOU! なーんてね! なーんてね!! オヤジギャグ!

「い、今すぐここへ現金1億円を用意しろ!」

駆けつけて見ると、貧相な顔のオッサンがバイトのお兄ちゃんに包丁をつきつけていた!
うはwwww お兄ちゃん超かわいそうwww 確実に犯人眼がいっちゃってますしwwwwおすしwwwww
警察の人らも、マイクスピーカー片手にコンビニ前でこう着状態。あ~さすがに抵抗できないか~。うんうん。
そりゃぁね~。人質がいちゃぁね。無理もありませんわな。きみらも、税金で養われているとはいえ大変な仕事、ほんっとご苦労様ですよ。

『わかった。1億円用意すれば良いんだな?』
「あ、あと、ステーキ用の牛肉400キログラムと、赤ワインを……あっ、ホットプレートも忘れるんじゃねーぞ!」
『赤ワインじゃなきゃダメなのか?』
「ばっ、ばっきゃろう! 肉には赤ワインって決まってるだろうが! ど素人め!」
『すまん。では、我々が用意するものは、赤ワインに、ステーキ用の1億円と400キロのホットプレートだな?』
「脳みそ腐ってんのかてめぇ! 何から突っ込めばいいんだ俺は!」
『すまん』
「いい加減にしねぇと、このガキのノドボトケ取り出して神棚に孫の代まで飾っちまうぞコラァーッ!!」

完全に交渉はこじれてしまって、場は騒然。顔を真っ赤にして包丁振り回して、店の棚けり倒す始末だ。
あーあ、お兄ちゃん泣いちゃったよ。こんな事に巻き込まれること普通ないもんね~。可哀相だなぁ。
きっと、彼はいま人質になった自分の運の悪さを呪っているに違いない、いや、もしかしたらもはや人生に絶望しているかもしれない。
でも、人生そんな捨てたもんじゃない。そう、何故ならこのボクがこうしてここへやって来ているんだから。お兄ちゃん、キミはラッキーだ!

「おらぁもう完全にブチギレたぞ! サツはさらにガーリックライス2膳分も追加しろ! 5分で用意しないとマジでこのガキ殺すからな!」

ボクは隊員達が所定の位置に付いたのを確認すると、側にいるグリーンの方へ目を向けた。
グリーンは頷いた。これはGOのサイン。ボクはまるでゲームのラスボス戦直前みたいに大きく息を吐きながら手首を回し、準備運動する。

『5分で用意するのはさすがに無理だ』
「ようし、じゃぁ用意するまで待つから早くしろ!」

警察官がお金や商品の手配に追われてバタバタしている脇を、ボクは悠々と歩き出した。
当然、目立ちたくなくても目立っちゃうボクだから「おい、何やってんだ!」なんて、声を掛けられるけど気にしない。
そうですよね~。こんな事やっちゃうなんて、そりゃぁよっぽどのバカか、バトル漫画の主人公くらいしかいませんよね~。
ボクが前者だったらこれは完全に死亡フラグ。でも、幸いなことに今のボクは、後者なんだな、これが!

「な、な、な、なんだおい! 来るな! コイツがどうなってもいいのか!」

とうとう警察の制止ラインを振り切り、ボクは相手の陣地へと足を踏み入れると、オッサンは包丁をチラつかせながら威嚇を始める。
あらら、お兄ちゃん、鼻水出しながら凄い顔で睨みつけてるよ。多分、ボクが死神に見えてるんだろうなぁ~。
……ホントは、悪を倒しに来た戦士なんだけどね。ま、それは今からわかることかな!

「コホン……あーあーあー、本日は晴天なり」
「曇りだよ馬鹿野郎! お前も殺されたいのか!」

ただの決まり文句なのに、無粋なオッサンだなぁなんて愚痴は飲み込んで、ボクの準備は完了。
どこから出ているのかわからない汁まで溢れて今では般若の様な顔になっているお兄ちゃんに、ボクはぱちんとウィンクする。
……なんでお兄ちゃん、食いしばった歯茎を剥き出すかなぁ……。ま、いいや。やっちゃいますか!

「おい、聞いてんのか!」

ボクはフッと口角を挙げた。

「こんにちは、役所広司です」
「!?」

オッサンの動きが止まった。第一刀目、鮮やかな切り口といった所かな。

「役所広司です」
「えっ」
「役所広司です、こんにちは」
「えっ」
「こんにちは、役所広司です」

続けざまの3連続の攻撃を終えると、オジサンは眼を点にしてボクの顔を見つめていた。
既にこの人の自意識の周りは、ボクの触手(エロい意味じゃないよ!)に手足を絡められている。

「役所広司です」
「あ、え、俳優の、ですか?」

遂にオッサンの心を掴んだ。
ボクは思わずほくそ笑みそうになったけど、ここで笑うのはカッコ悪いから我慢我慢。
ヒーローとカッコイイ男は、必ず最後に笑うものさ!

「今ですっ!」

裏口のドアが勢い良く開いて、わーっと隊員達が茫然と立っていたオッサンに飛び掛った。
我に変える素振りも見せず、ゆっくり包丁をブルーが取り上げる時間まで与え……僅か2分で強盗を取り押さえる事が出来た。

「あとは、警察にお任せしましょう」
「了解!」

縄でしっかりと縛りつけたオッサンをその場に残し、警察官達が店内踏み込んでくる最中、ボクらは颯爽と裏口から外へ飛び出した。
そのままコンビニから走り去ってゆく中、背後から割れんばかりに響く野次馬達の拍手が、長く、長く、ボクの耳へと届き続けていた。














ボクの快進撃はそれからも延々と続き、それに付随して生まれて行く武勇伝の数も、既に両手両足を全部使っても数え切れなくなっていた。
でもボクにはそんな武勇伝なんてどうでもよかったんだ。ボクはただ、何よりも隊員の皆がボクの事を必要としてくれて、
OFFレンの一員としてちゃんと意識してくれてることが、とにかく嬉しかったんだ。

「いや~私はまさかオレンジにそんな才能があったなんて全然思いませんでしたよ」
「しかもそういう使い方が出来るなんて。連戦連勝とはこのことっすよ」
「そんな事ないよ……戦うのはみんなで、ボクはただ、みんなの戦いを有利に進めることしか出来ないからさぁ」

いつもの様に、ボクは皆からの褒め言葉に慣れてなくて、ぽりぽりと頬をかく。
別に謙遜してるわけじゃない。目立つ事に不慣れなボクの本心だ。ボクはようやく皆の背中が見える場所へ追いついた、それだけのこと。

「いやいや! それでもオレンジのモノマネは天下一品です。私もTVでなんやかんやモノマネを見ますが、
どうも昨今は、勢いとか笑いで誤魔化す粗悪な芸が粗製乱造されている節があって、私自身辟易していたわけですが……その点オレンジは違います!」

グリーンがボクの背中を強く叩き、ボクは飲んでいたコーラを噴出しそうになった。

「オレンジの役所広司モノマネはとにかく凄い。仮装やそれっぽい動きをしなくても声だけで誰のモノマネかちゃあんと理解できる!
眼を閉じれば、まるで本人がそこにいるような、これはまさに奇跡の声帯の持ち主としか言い様がありません!」

コーラしか飲んでないのに、酔っ払いみたいなテンションになっているグリーンのご高説を話半分に聞きながら、
ボクは食べかけていたフライドチキンにかぶりつく。なんか大袈裟で逆に白ける気分になっちゃうよ。

「シェンナもモノマネできるですよー!」
「どれどれ、オレンジ先生に対抗できますかな」
「ですーーーーーッ!!!」

挿絵

シェンナは大声で叫びながらボクに人差し指を突きつけたけど、まったく似てもいなかった。
だけどシェンナは自信たっぷりに額の汗を拭った。やれやれ。さすがのシェンナもダメみたい。ボクは思わず苦笑いする。

「ま、とりあえず。今日も今日とて、オレンジのおかげで怪我人すら出さずにたった5分のスピード解決ですよ。素晴らしいじゃありませんか!」
「そのおかげでケンタッキーからお礼にいっぱいファミリーセット貰っちゃったから、オレンジ様々だね」

ピンクがニッコリボクに微笑みかけた。
そう、今この状況はボクが意図せず企画したフライドチキンパーティーみたいなものだった。
だからボクの席は上座にあって、皆がボクを口々に褒めてくれていた。思えば、ボクだけのパーティなんて初めてかもしれない。
12月はみんなバタバタしているから、こんな大々的な物は出来ないし、出来ても10日違いのグレーと一緒にまとめられている始末。

「ささ、オレンジ、せっかくですから一言ください。あっ、モノマネでいきましょうかねぇ。モノマネで!」
「え~、何か改まって言われると恥ずかしいよ。ハードル上がるじゃん」

ボクはおしぼりで手を拭きながら苦笑い。でも、今度の言葉は“謙遜”だった。
そうは言いながらも、ボクは既に腰を浮かせていて、ヒトコト言わせて貰う気マンマンだった。

「じゃ、ちょっとだけだよ」

ボクはコーラを一口飲んで、立ち上がった。皆からパチパチと拍手が起こる。
ここはモノマネパブじゃないんだけど……ま、良いか。ボクは軽く咳払いをして、息を吸い込んだ。

「こんにちは、役所広司です」

隊員からおぉーっという歓声が上がった。
何だか宴会の余興みたいだなんて考えが頭を過ぎり、ボクは参ったなという顔で苦笑した。
……でも、どうせこれくらいのこと、体力を使うわけでも無し。どうせなら宴会芸人に徹してやれと、ボクはすっかりその気になった。

「役所広司です」

またも「わぁっ」という声、そしてさっきよりも大きな拍手。
ボクは、皆の歓声が、驚きが、笑顔が嬉しくて、気分は完全に一流のパフォーマーになっていた。

「役所広司です、こんにちは」

「こんにちは」

「役所広司です」

「こんにちは、役所広司です」

ボクが喋るたび、皆は手を叩いて喜んでくれる。皆が笑ってくれている。皆が、ボクを見てくれている。
ボクは最後までひょうきんな芸人を演じていた。だって、そうしないと、ボクは、嬉しくて、泣いてしまいそうだったから。
マンションの部屋は大舞台に、十数名の人達は観客たちに、拍手の音は耳が痛いほどの響きになっていた。
ボクは今この全てを、彼に感謝していた。ちっぽけなボクを、特別なボクへと変えてくれた、彼に。

──広司、ありがとう。ボクと、友達になってくれて……。
















ボクは、ずっとそうやってOFFレンジャーの一員として、オレンジという一人の存在としてやって行くと思っていた。
でも、それは、違ったんだ。それは、線香花火よりも儚くて、そして、光さえも薄暗いものであったことに気づいてなかったんだ。

……ある日の事だった。ショッピングモールの中央広場で風船を配ってた男が暴れた事件。
彼の着ていた猫の着ぐるみの額にはいつものコウモリマーク。もう何度もこなして、すっかり慣れた状況だ。

「オレンジ、今回も頼みますよ。ちゃちゃっとお願いします」
「ま、任せてよ。今日は喉の調子が凄く良いんだ!」

グリーンの言葉に呑気にピースサインで答えていたボクは、今考えるとあまりにも愚かで恥ずかしい。
でも、まさか突然あんな事が起こるだなんて、ボクを含め、隊員の誰一人として思わなかっただろう。

「どいつもこいつも大人しくしてりゃ調子に乗って俺のケツ蹴り飛ばしやがってよおおおおおお!!!」

凶悪な顔付きの着ぐるみ男が、鉄の様に固くなった紐付き風船を振り回している前へ、ボクはいつものように駆け出した。

「待て! もうこれ以上破壊活動はさせないぞ!」
「なんだとォ!? 変な髪型しやがって、生意気だ!」
「フフン、ただの変な髪形のガキだと思ったら、痛い目見るよ?」
「ンだとこのガキ!」
「……こんにちは、役所広司です」

男の動きが止まり、彼の頭上で回転していた鉄の風船は男の後方へ墜落した。
怯んだら、あとは畳み掛けるだけ。そうしていつもの様に、言葉を繰り返す。

「こんにちは」
「…………」
「役所広司です、こんにちは」
「…………」
「役所広司です」
「…………」

着ぐるみ男は微動だにしないまま、ボクと対面していた。ボクは完全に彼の心を掴んだ事を悟る。
あとは後ろ手に、グリーン達へ合図を送るだけだった……。

「なぁ……」

着ぐるみ男が声をかけてきて、ボクは合図である○のサインを取り止めた。
まだ掴んでなかったのか、いや別に珍しい事じゃない。5回やらないと掴めなかった事だってあった。

「役所広司です」
「いや……」
「こんにちは、役所広司です」
「だから……」
「役所広司です、こんにちは」
「そうじゃなくてさ」

男が両手で「STOP」のサインをしたので、ボクは三回続けたところで相手の出方を待った。
彼は着ぐるみの上から後頭部をかいて、

「いや……確かに似てるし、本物みたいで、ビックリしたけどさぁ……」
「?」
「……二つしかないじゃん」
「えっ?」

ボクは男の言っている言葉の意味が判らず、思わず聞き返した。
すると、男は「え?じゃなくてさ」と、着ぐるみの中から、呆れた様な声をあげた。

「“こんにちは”と“役所広司です”の2つを組み合わせてるだけで、あとの分、全然代わり映えしないじゃん」
「え……」
「なんつーかさ……」
「…………」
「それ以外のやつ出来ないの?」
「!!!!!」

男の攻撃は、これまでボクが受けたどんなものよりも残酷で、破壊的なものだった。
ボクの心がひび割れて、粉々に砕けてゆくその音を、ボクは一番側で聞いていた。
視界が霞む、どこが地面で、どこが天井で、何がボクなのかがわからない。

「オレンジ!」

遠くでグリーンの声がした。でも、どこから?
体が無くなる、全てが無くなっていく。無限の暗闇に落ちてくよ……
ボクは何度も広司に呼びかけた。

広司……助けて、広司……苦しいよ……














『皆さん、はじめまして。テレビ見てくれてますか? 役所広司です』

──違う。

『一日一歩、三日で三歩、三歩進んで二歩下がる。役所広司です』

──違う。

『役所広司が働いてる所ってどーこだ? ……役所……これ現場なら受けるんですけどね。どうも役所広司です』

──違う違う違う!!!

ボクは、乱暴にデッキからカセットを取り出し、壁に投げつけた。
色々と試してみた。何十回も、何百回も、何千回も、いくつも広司の言葉を紡ぎ、それを録ってみた。
でも、ダメだった。ダメだったんだ。いくらやっても、スピーカーから流れてくる言葉はボクの声だけ。
“こんにちは”“役所広司です”これの前後に違う言葉を付けてしまえば、それは必ず乱れ、広司は答えてくれなくなる。

「……役所広司です、役所広司です、役所広司です……これが出来るのに、なんで、なんでだよ……!」

ボクは頭を掻き毟った。もう何日もお風呂に入っていなくて、いつもセットしていた銀髪は荒れに荒れていた。
それでも、広司なら、広司ならボクの気持ちにちゃんと応えてくれると思っていた。ボク達は、友達なのに。

──コン、コン

苛立ち紛れに拳を壁に叩きつけていると、ノックの音がした。

「オレンジ、もういい加減にしたらどう?」

パープルの声だった。

「もう何日も閉じこもりで、ご飯だって全然……」
「うるさいな!! ほっといてよ!!」
「でも、このままじゃ体にだって……」
「パープルには関係ないじゃん!!」
「……オレンジ」
「広司の言葉の一つも紡げないくせに、ボクに指図するのは辞めてよ!」

足元のティッシュ箱を投げつけると、ドアの向こうからもう声はしなくなった。
荒く吐いた息が喉に痛い。でも、辞める訳にはいかないんだ。辞めるわけには。

「役所広司です、役所広司です、役所広司でございます……違う」

もっとたくさん広司の言葉を紡げなければダメなんだ。
広司の言葉を紡げないボクは、広司と一緒にいられないボクは……。

「役所広司です、役所広司、役所広……うっ!?」

突如、ボクの喉をすっとナイフで切られたような感覚が走った。
息が上がってこず、僕は壁の広司のポスターに手を伸ばした。

広司は相変わらず、無邪気な笑顔でボクに缶ビールを手渡そうとしていた。
まだ飲めないんだ。でも、いずれ一緒に飲める日をずっと楽しみにしていたんだ。
ボクが最初にお酒を飲むのは、広司、キミだって、ずっと、ずっと決めてたんだ……。

「こ……うじ……」

ポスターにすがり付き、もはや誰の物でもなくなった声で、ボクは広司の名を呼んだ。
優しくて大きな広司の胸で、ボクは涙を零していた。

だって、だってボクは……

これが広司との別れになると、知っていたから──。












──神様はいじわるだ。

こんな台詞、今まで色んなアニメやラノベに出てきて、わかったつもりになってたのに、
ボクはこの言葉を発する登場人物の苦しみが、今になってやっとわかった気がするんだ。

これは決して、自己憐憫に溺れた人間の放つ言葉じゃない。

これは決して、自意識に自惚れた子供の言葉じゃない。

これは、神を呪わずにはいられないほどの苦しみを受けた者へたった一つ残された神へ放つ精一杯の呪詛だ。

初めから無ければ、こんなに苦しむことは無かった。

神はたっぷりと飴の甘さと美味しさを教えた後、すぐさまそれを取り上げて嘆き苦しむ人間をせせら笑う……。

広司を取り上げられたボクは、抜け殻という表現ですら足りないほど矮小な存在に成り果てていた。
広司とボクはひとつだった。ボクは広司で、広司はボクだった。身体の半分を引きちぎられたも同然だった。

『オレンジはオレンジなんですから……』

本当に?

『モノマ……じゃなくて、えっと、言葉を…紡ぐ、だっけ? そんなの些細な事だって』

本当に?

『シェンナ今日5円玉拾ったですー!』

……誰もボクの気持ちなんかわからない。広司と一番近くにいたボクにしかこの苦しみはわからないんだ。
広司がいなくなった今、ボクももうここにはいない。歩く死人。……いや、元からそうだったんだ。
ボクは広司によって、現世にいられる期限を少しだけ伸ばしてもらった、それだけの存在に過ぎないのだから。


──だから、広司。ボクももうすぐ君の所へ行くよ。















「待ちなさい……」

白い靄の中、下界へ踏み出そうとした右足を、その低く通った声が留めた。
僅かにつま先を乗せた足場が音も無く崩れ、遥か真下の波間に消えてゆく。
恐怖なんてなかった。ただ、ボクもそうなることを望む気持ちだけが中心にあるだけだった。

「若者が、そう死に急ぐものじゃない」

ボクはそのとき初めて声の主の方へ視線を向けた。
「何故?」そんな疑問も、言葉に出すことないまま、それはボクの中の衝動へ消えてゆく。

「キミがいなくなれば、悲しむ人がいる」
「月並みな言葉だね」

ボクは片頬で笑った。あまりにも定番の文句のあまりにも空っぽな空虚さに。

「ボクには、そんな人はいないんだ。もう、誰もいないんだよ」
「…………」
「在るべきでないものが、在るべき場所に還る……ただそれだけのことだよ」
「キミが気づいてないだけだとしたら」
「ありえない」

ボクは力なく笑って、首を振った。

「ボクの価値は全ての次元から切り離され、霧消したも同じなんだ」
「キミの価値とは?」
「親友さ」
「キミ自身から生み出される価値ではなくて?」
「ボクは月なんだ。太陽がいなければ輝くことが出来ない。輝かない月は、穴の開いた大きな石ころ……」
「しかし、太陽がなくても、月は確かにそこにある」
「ボクは、広司がいなければダメだったんだ!広司のいない世界に、ボクはいない!」
「キミは広司ではない」
「ボクはもはや広司とひとつだ」

男は黙っていた。ボクは答えを待つのを辞めた。
広司のいる入り口へ向き直えた時、ようやく男は口を開いた。

「キミは、広司と共にあった。本当にそうかい」
「そうだと言ってるじゃないか」
「キミは広司で、広司はキミだと」
「くどいな」
「それならば何故……キミは広司を同格の存在として認識しているのかな」
「何?」
「広司はキミだ。しかし、広司は太陽でキミは月。イコールではとても結ぶことなどできないんだ」
「っ……」
「キミは広司の価値が自分の価値だと誤認したに過ぎない。いや、気づいていて、キミは広司の価値を取り込んだんだ」
「そ、そんなことっ……」
「キミは、価値ある人間の隣に立っていた、それだけだけに過ぎない」
「黙れ黙れ黙れっ!!」

ボクは耳をふさいでうずくまった。そんなことはない。広司はボクと……

「広司は広司で、キミはキミだ。キミは、キミなんだ……」















「ハッ……!」

目を開ければ、そこはいつもの寝床だった。
わずかに切り目の入れられたダンボールの隙間から、太陽が差し込む。

「……夢……か……」

腕を伸ばして、柔らかな日差しを掴もうとする。
虚しくボクの手の平には何も残らなかった。

『『『キミはキミなんだ』』』

……夢に出てきたあの男の言葉がまだ頭に残っていた。
もう良い。そんなことはもうどうでも良いんだ。
かぶりを振って、ボクは外へ這い出した。ダンボールハウスの薄暗さと対極といえるほど、空は晴れていた。

…………あれから、もうどれだけの年月が過ぎたのだろうか……

土手の向こうを走る子供たちの声が、何だかずいぶん遠い世界から聞こえてくるように思える。
川のせせらぎ、風に運ばれる草の香り、爛々とまたたく光の粒子……。目元を押さえ、ボクは草むらに腰を下ろした。

「…………」

世界の明るさに、ボクはいつの間にかすっかり弱くなっていた。
これまえ薄暗さと、孤独だけを糧にして生きてきた。相反する糧など、受け付けることなどもう出来ない。
自らの死衝動(タナトス)さえ抗ってしまう人間には、価値ある物に溢れた世界など、苦痛以外の何物でもないんだ。

川辺に向かい、そっと水面を覗き込む。
穏やかな水の流れと相反して、時間はボクの上を、急激な速さで駆け抜けていた。
髪にはもう黒い部分が残っていない。毛並みも、肌も、かつてのツヤを失い、枯れ木の如く乾ききっていた。

──あぁ、そうか。もうそんなに経ってしまっていたのか。
ボクは、浦島太郎になった様な気分で、空を仰ぎ見た。あの後、彼はどうしたのか、その後は物語には書かれてはいない。
だが、きっと幸せにはならない。取り返しの付かない後悔を抱き、この生涯の残り時間を数えて……ただ、じめじめと……いじいじと……。
世界が白くなってゆく感覚をボクは感じていた。このまま、全てが消えてしまえば、この愚かな老醜と一緒に何もかも。

「おぉーい大変だ!」

土手の上を駆け抜けていく、誰かの声にボクは我に返った。
あのまま、白く溶けて行けばどれほど良かったか。半ば非難の目で、ボクは無粋な乱入者を見やった。

「大変だ大変だ! ここから橋を渡って道なりに進んで3つ目の信号を左に曲がって5分ほど直進した所にあるスーパーに立てこもり犯が出たぞぅ!」

犯人は、20代半ばほどのがっしりとした体格の青年だった。息を切らせ、大変だ大変だと、叫び続けている。

「OFFレンなんとかって奴らが戦ってるみたいで、もう大変な事になってるぞーっ! 大変だぞーっ!」

OFFレン……懐かしい響きにボクは思わず表情を緩めた。まだ彼らは自分の責務を立派に果たしていたのか。
同時に、身体の芯がじんわりと暖かくなった気がした。嗚呼、レッド、グリーン、イエロー……みんな、元気なのだろうか。

「しかもOFFレンなんとかって子らはその立てこもり犯にボコボコにされてもうまったく歯が立たないみたいだ! 大変だぞー!」

……ボクの脳裏に何かが火花の様に走った気がした。
しかし、そう思うより早く、体はそれを打ち消そうと全身を奮わせた。

「警察も役に立たなくて、このままじゃこの辺りみんな立てこもられるぞ! 大変だ大変だー!」

ボクには関係ない。耳を塞ぎ、しゃがみ込む。
OFFレンジャーがどうなろうと、ボクにはもうどうしようも出来ないんだ。行ったところで何になる?
もう広司はいない。広司がいなければボクは何も出来ない。ボクは何も出来ない役立たずだ。

『ここから橋を渡って道なりに進んで3つ目の信号を左に曲がって5分ほど直進した所にあるスーパーに立てこもり犯が出たぞぅ!』

やめろ、やめてくれ……。ボクは一生懸命耳を塞いでかぶりを振った。
もうボクは関係ないんだ。ただの、ただの老いぼれた、愚かな無価値の存在でいさせてくれ。
必死に心を覆った鎖の最後の錠にボクは鍵をかけようとした、その時だった。

──ドンンンンッッ!!!!

川を挟んだ向こう岸、家々の並んだ中から大きな爆音と共に黒煙が上がるのが見えた。

「爆発……」

思わず声に出していた。隊員の皆は。スーパーの店員は。客たちは。周りの人々は。
怪我人がいたら。もっと酷い人がいたら。火事になったら。子供は。お年寄りは。

『おーい!大変だぞ!大変だぞー!』

ボクはいつの間にか立ち上がっていた。気づいた時には、土手を駆け上がっていた。
足元がふらついて、何度も転んだ。草にまみれ、泥にまみれ、ボクは叫んでいる男に駆け寄った。

「おい、オジサン、大変だ。ここから橋を渡って道なりに進んで3つ目の信号を左に曲がって5分ほど直進した所にあるスーパーに立てこもり犯が出たぞ!」
「あぁ……あぁ。わかった。ありがとう」

私は息を整えつつ、そう答えると男はこくりと頷き、

「じゃぁオレは向こうの方でも叫んでくるから、オジサンもがんばれよ!」
「あぁ……」

青年は、そのままさっきと同じように「大変だ」と叫びながら、その場から去っていった。
なかなか感心な青年だと、ボクは思ったが、そんな事をしている場合ではなかった。

「……広司」

呪文にも似た心境でそうつぶやくと、ボクは橋に向かって駆け出した。
何もできないのは、わかっている。ボクは、それでも、走らずにはいられなかったんだ。














橋を渡って道なりに進んで3つ目の信号を左に曲がって5分ほど直進した所にあるスーパーに向かうと、
そこは想像以上の有様だった。駐車場のアスファルトは粉々に砕け、あちらこちらに地面が露出し、
そこへ、店のカゴやカート、さらには裏返った車までが、まるで空からばら撒かれたように散乱していた。

「……こ、これは……」

呆然としている最中、目の端に何かを捕らえた。
黒ずんでいるが、それは緑色の、ボクにとっては、もう幾年ぶりの……。

「グリーン!」

ボクは駆け寄り、懐かしき旧友の身体を抱き起こした。焦げた匂いに思わず顔をしかめる。
彼はボクの記憶とは何ら変わっていなかった。もし、状況が違えばボクはきっと彼を強く抱きしめてしまうだろう。

「お、オレンジですか……」
「あぁ、そうだよ。グリーン。ボクだよ……」
「あ、あなた、丸一日どこにほっつき歩いてたんですか……おかげで人手が足りず、こ、このザマですよ」

彼は息も絶え絶えにそう言って、咳と共に小石を吐き出すと力なく息を吐いた。
もはや立ち上がる気力さえないという表情だった。それはまるで、今のボクの様で……

「クックック……再びよみがえった三流店員のこの俺に歯向かうと、こうなるということがわかったか」

背後から聞こえたその声に、ボクは心臓が凍りついた様な気がした。しばらく息ができなかった。
その音域は、この冷たさは、忘れようとしても、忘れられない、ボクにとって、最悪の……

「おや……どっかで見たと思ったら、以前のでくの坊か……」

邪悪に光る紅い瞳、鈍い色を放つ金色の角、額の赤い蝙蝠模様。
そこにいたのはまさしく、以前もここと同じ場所の戦闘で、何もできなかったボクという存在を知らしめた、悪魔化したスーパーの店員だったのだ。

「あ……あ……」

ボクはすっかり萎縮して、その場に腰を抜かした。蛇に睨まれた蛙……無意識の恐怖が体を支配している。
何もできない。ボクにはもう何もできない。空っぽだ。ボクは空っぽなんだ。ボクは何もできない。黙って食べられることしか出来ない。

「クックック……ちょうどいい……まずはオマエを見せしめにしてやるか……」

男は声を出すこともままならいボクのところへ、残酷なまでにゆっくりと歩み寄った。
腕がボクの胸倉を掴み、すぐさまボクの両足は地面から離れた。男の目がボクの心を抉る。……ボクの心はもう形を失いかけていた。

「どうした。抵抗もしないとは、ずいぶんと情けないな……」

怖い。怖い。怖いよ……。

「それでは……」

男の右手が振り上げられる。ボクが消える。消えてしまう。
助けて。誰か、誰でも良い。でも、誰が。誰が誰が……誰が。

「これで終わりだ……!」
「──っ……!」

助けて。助けて……広司っ……!
そう思った瞬間、ボクはこみ上げてくる何かをおもいっきり吐き出していた。

「……役所広司です!」

──それは単なる恐怖から出た叫びだったのかもしれない。
咄嗟に飛び出した、他愛の無い、情けない叫びだったのかもしれない。だけど……。

「……や、役所さん……」

その時、ボクは確かに彼の言葉を紡いでいた……。
男は、目を見開いて、ボクの紡いだ言葉の魔力に体の自由が利かないといった様子だった。
ボクは“何故”なんて疑問を持つより早く、立ち上がり、そして男を見据えていた。

「役所広司です」
「……っ!」

その声に、男の表情が強張った。

「役所広司です」
「ぐぅっ……!」

男が頭を抱えだした。足元がふらつき、このまま立つ事さえままならないようだった。

「役所広司です!」
「がっ……あ、あぁっ……!」

その表情は苦痛に歪み、口の端から泡を吹き出していた。……いける!
ボクは既に確信していた。このまま、このままなら、こいつを……!

「こ、こんな小細工が俺に通用すると、お、思うなっ!」

突如、男の手からトイレットペーパーが飛び出し、ボクの口元を覆った。……マズイ!
そう思うよりも早く、紙の第二波はボクの両手を縛り付けてしまった。

「キサマが安かろう悪かろうの商品を甘く見るから、こうなるんだ……っ!」
「──!」

両手が縛られ、声までふさがれた。
いくら男が衰弱しているとはいえ、飛び道具を持っていては、どうにもならない。
このまま、やはりボクは惨めなまま、空っぽのまま、ボクは虫けらにさえ蔑まれる様な終え方をするのか。

「今度こそっ、とどめだっ!」
「──!!!」

ボクは死を覚悟した。その瞬間、神はボクに人生を振り返る時間を与えてくれたようだった。
ゆっくりとスローモーションに動く男。その手に掴んでいるフライパンが所定の経路を辿ればボクはすぐにでもこの世から旅立てるだろう。
倒れこんだ仲間達は、そんなボクを哀れむように、或いは表面上だけでも惜しむ様に、体の自由が効かない中、見届けようとしてくれている。

「(……あぁ……ボクなんかでも殉職って奴になんのかなぁ……)」

ふと脳裏にそんな考えが浮かんだ。……まだ旅立ちの切符の発行は遅れているらしい。
ボクはしみじみと最後の光景を焼き付けるべく、周囲を見渡していた。

「(あっ……!)」

その時、ボクの視界に飛び込んできたのは、スーパーの中に閉じ込められた市井の人々の姿だった。
恐怖に怯えた女性の瞳、泣きはらした男の子の瞳、悲しげな老婆の瞳……。
それら全てが、ボクに向かっていた。その感情は……哀れみなんかじゃない。絶望だ……。

「(そうだ……ボクがいなくなったら、彼らは……)」

もう、ボクしかもういないんだ。ボクがいなくなれば、彼らはもう絶望の底から這い上がる事さえ出来ないんだ。
彼らにも家族がいて、恋人がいて、子供がいて、友達がいて、大切な人がいて、生活があって、仕事があって、幸せがあって……!
……そう気づいた時、ボクは思ったんだ。

──助けなきゃ……!

一陣の風に吹き飛ばされた様に、ボクの胸の暗闇は吹き飛び、何か小さな光が見えた。
それはボクが戦う意味。そして、ボクが生きてゆく意味。ちっぽけでも、それは眩しく輝いていたんだ。

ボクは目を男の方へ戻した。鈍器はボクの髪を掠めようとしていた。
ボクは死ねない……いや死なない。守るべき人のために。守らなきゃいけない人のために。

「うあああああああああっ!」

ボクは身を屈めると、ぽっかり空いた男の急所に向かって突っ込んだ。
それは勢い良く、まるでボクの決心が後押ししてくれたように、突撃し、そして、男の身体はそのまま後ろへと崩れていった……。









──ワァァァァァァァァァァ!







それが歓声だと気づいたのは、男の身体から黒いオーラが飛んでいき、雲間から日差しが降り注いだ時だった。
スーパーの扉から出てきた人々が抱き合い、涙を流し、笑顔を浮かべ、安堵する、その光景が、ボクにはとても輝いて見えた。

『……こんにちは』

安心して立ち上がろうとしたボクの耳に、聞き慣れた声が飛び込んできた。
まさか、そんなわけが、ボクは後ろを振り向いた。そこには、空から差し込んだ光の中に、ボクの大切な親友の姿が、
もう二度と出遭えないと思っていた、彼の姿があったんだ……。

『……こんにちは』
「あ……」

その暖かい笑顔。

『こんにちは』

優しい声。

『役所広司です……』
「広司……!」

光の粒子の中で、広司は静かに頷いた

「今まで、どこに行ってたんだよ……! ずっと、ずっとボクは……」
『……役所です』
「もう、そんな冗談で誤魔化しちゃだめだよ」

ボクは思わず噴出して、広司への文句なんかすっかり出せなくなっちゃったんだ。

『じゃ、区役所では?』
「はいはい、もうつまらない冗談は終わり」
『ハハハ……ジョウクです』
「広司……ボク、ずっとキミに会いたかった」
『うん……』
「これからまた、ずっと一緒にいてくれるよね」
『……ううん』

広司は首を振った。その表情はどこか寂しげだった

『役所広司は、ここには、来んです』
「どうして!?」
『役所広司は駆除です』
「……そんなことないよ! ボクは、広司がいなきゃ……」
『ううん。』

今度は、しっかりボクの目を見据えたまま、広司は首を振った。

「え?」
『ここ、証拠です』

広司が指差したのは、人質から解放され、喜びに満ちた人々達の姿だった。
そして、駐車場に座り込んで、無事戦いが終わった隊員達のほっとした姿。

『ょうやく、進んで、役に』
「広司、まさか……」

広司はニッコリ笑った。

『広司、役、済んで』
「ボクがキミに頼りっきりになっていて、それがボクの為にならないと広司が気づいて、失踪して、
そして何も出来ない人間じゃないっていうことを教えてくれたってつまりそういうことなんだね!」
『うん……!』

ボクは、広司の屈託の無い微笑みに、胸がじんと熱くなった。
広司はボクを嫌ってはいなかった。ボクを突き放してはいなかった。広司は、ずっと、ずっとボクの親友のままだったんだ。

「広司……! ごめんよ。そんなにボクの事を思ってくれていたなんて……!」

ボクは広司に抱きついた。
広司の匂い、広司の温もり、広司の感触……。その全てがボクには嬉しくて、幸せだった。
ボクがボクであることを教えてくれた、最初で最後の大親友。

『役所広司は、懇々、我、視聴です……』

──ずっとボクを見守る。
広司のその言葉に、ボクは何故そんなこと言うの?とは聞き返さなかった。
もうボクはとっくにわかっていたんだ。ボクを一人立ちさせた広司が役目を終えた今、
そこに、広司がいたら、きっとまたボクは広司を頼ってしまう……

『既に、弱小ちやうです』
「……うん。ボクは悲しむ人々を救いたい。」

悲しいけれど、それは、誰もが経験する。新しいスタートになる。

『ワンニン、ちやうです』
「うん、もう“1人”じゃない」

ボクがそれを経験した時、ボクは新しいボクになって、胸を張って生きてゆける。

『好く。好くょ』
「うん、うん……ボクも、ボクもだよ」

ボクの視界は涙で滲んでいた。
広司の優しさが嬉しかった事、そして、彼の身体がゆっくりと光に溶けて行くのをボクは感じ取っていたんだ。

『じゃ……精進すんやで』
「広司!」

広司の身体に、ゆっくりと指が突き抜けて行く。
それは背中まですり抜けて、ボクの触覚がもう広司を感じる事が出来なくなって。

「広司! 広司っ!」

ボクはずっと広司の名前を叫んでいた。
悲しかったんじゃない。ただ、ボクはどうしてもこの言葉を最後に伝えたかったんだ。

「広司……ありがとう」

掌から広司だった光の粒子がゆっくりと空へと昇っていくのをボクはじっと見つめていた。
空はいつの間にか晴れ、雲一つない真っ青な青が目に眩しかった。
ボクは親友との別れを惜しまない様に、ぐっと拳を握り締めて、皆の所へ振り返った。

「……一人で何やってんですかオレンジ」

そこには、ボクの仲間がいた。同じ決意を共にした、仲間たちが。























あれからボクの前にも、あれほど出ていたテレビの中にも広司は現れなくなった。

広司……キミがいないと心無しか、日本全部が少しだけ寂しそうな顔をしている気がするよ。

でも、すぐに元通りになっていくんだ。人は誰しもそういう強さをどこかに持っている物なんだね。


『はいはい、こちらグリーンです。ピンク、どうしました?』


広司。キミはその強さをボクに気づかせてくれたね。そして、ボクはあの時よりずっとずっと強くなれたんだ。

キミはもしかして、天使だったのかな。それともら神様?……いや、やっぱり、キミはボクだったんだ。


『駅前のドーナツ屋で不振人物が暴れているとの報告です! 皆さん急ぎましょう!』


ううん。それも違うね。世界中の人々は広司なんだ。

誰もが心にキミという親友を持っている。

だから、見守ってて。



『では、ぐるぐる戦隊OFFレンジャー出動です!』


ボクは立ち上がり、隊員の皆の後を追った。


色んな人々の中の広司を守るために。


広司、ボク、頑張るよ……!