第124話

『カルマが街にやってきた』

(挿絵:レッド隊長)

「あ、この卵半熟になってない」

シオンのこの一言で、穏やかな朝食風景は突如、緊張の糸が張り詰める静寂の空間へと変貌した。
サラダに手を伸ばそうとしていたティオも、じっとガラスボウルの中のプチトマトを見つめたまま、その動きを止める。
もぐもぐとトーストに齧りついていたエコも、そのただならぬ様子にパンを咥えたまま、恐る恐る姉弟の動向を探る。

「(気をつけてたのに……もう卵無いし……ど、どうしよう……ねーさま、半熟しか食べないし……)」

ぐるぐると不安がウズマキ、心臓が飛び出しそうになるほどの恐怖を感じながら、ティオはおずおずと目線を上げた。
渦中の姉は場の空気を気にしてない様子で、黄身の固まった目玉焼きに目を落としたまま、「ふーむ」と何かを思案する様に唸っていた。

「ん~、どうしよっかなぁ……」

目を上げた姉と視線が合い、ティオは慌てて目を伏せた。思わず引っ込めたフォークに刺さっていたレタスを小動物の様にポリポリと齧る。
背中がじんわり濡れてくる気持ち悪さを感じながら、じっと次の言葉を待つことしか、彼には残されていない。さて、何を言われるか……。

「ま、いっか……たまにはね」
「へっ……」

思わず素っ頓狂な声を上げて、ティオはシオンを見つめた。
普段は半熟以外の目玉焼きは絶対に口にしない姉が、今日は珍しくカチコチの黄身を平然と口に運んだのだ。

「ん……。ま、これはこれで違った味わいがあるわね」

シオンは黄身をよく噛んで飲み込むと、最初から何事も無かったかのように、マグカップに入ったコーンスープに口を付けた。
小言の1つも言われないなんて、今日はずいぶんと機嫌が良いみたいだとティオは思ったが、
今朝になってここまで上機嫌が良くなるような出来事など、何かあっただろうかと首を捻る。だが、それらしき物は何一つ思いつかない。

「あっ、そうだ。ティオさまー、今日どうしましょっか。悪のエナジー集め」

たった今思いついたかのように、わざとらしくエコが未だ周囲に残るぎこちない空気を吹き飛ばすと、
ティオも、ようやくホッと息を付ける事が出来たような気がした。

「あ、そ、そうだね。じゃぁ後片付けしたら……」
「ダメよ。今日は部屋の掃除してちょうだい」

突然ピシャリと放たれた鋭い姉の一言が、ようやく和みかけた空気を冷徹に切り裂いた。
パステルカラーのリビングが、再び鉛色に変わりかけていくのをひしひしと肌で感じる。
すると、再びエコがパンと手を打って「あっ!」と、これまたわざとらしい声をあげた。

「じゃ、じゃぁ、あの、お昼ごはんどうしましょっかー!」
「そ、そうだね……エコは何食べたい?」
「えーと、えーと、オレは、エビピラフが」
「ダメ。イタリアンにして」
「ふぇ」

エコは、今から食べようとしていたお菓子をいきなり横取りされたみたいな情け無い顔でシオンを見た。
だが、当の本人は一切気にも留めていない様子で、コーンスープを一口飲み、

「そうね~、パスタはカルボナーラ。ピザとかも焼いて。あと、この前のリゾットおいしかったらそれも作って。他は…ま、適当に任すわ」
「ちょ、ちょっと待ってよ、ねーさま。ボクらだけでそんなに食べきれないよ……」

おずおず、ティオが口を挟むとシオンはキョトンとした顔で弟を見返した。

「当たり前でしょ。誰が3人でそんなに食べようなんて言ったわけ?」
「えっ?」
「今日、オジサマが来るんだからおもてなしするのは当然でしょ」
「お、オジサンって……?」
「そんなのディアボロスのオジサマに決まってるでしょ」

サラダを口に運びながら、シオンは呆れた目をするが、
それを聞くなり、ティオの人見知りセンサーが急激に反応し、顔色がサッと変わった。

「そ、そんなの、ボク聞いてないよ……!」
「はぁ? 昨日の晩、オジサマから電話かかってきたじゃない」
「ぼ、ボク、その時、洗い物してたもん……」
「えーそうだっけ? ま、いいわ。そういうわけでよろしくね」
「……ね、ねーさま、そんな……」
「お昼前に来るから、それまで家中の掃除と料理、ちゃんとやっといて。手抜いたら承知しないから」
「えっ!」

ティオは壁の時計に目をやった。午前8時5分。朝食を済まして片付けを急いでも30分。
たったの3時間半で5人分のイタリアンと、この広い部屋の掃除……。せっかく穏やかだったティオの表情が、一気にどんよりと曇りだした。

「なんかね、魔界のお仕事が落ち着いたから一度様子を見に来るんだって。私達の事心配してくださってるなんて、さすがオジサマよね」
「……別に来なくたっていいのに……」
「わざわざ来てくれるところがいいんじゃない。私、ディアボロスのオジサマってだ~いすき!」
「……ぼ、ボクはあの人、あんまり好きじゃない……」
「あ、そうそう、カルマちゃんも一緒に来るって」
「えっ、か……カルマも!?」

ティオは椅子から飛び跳ねるように立ち上がった。雲行きはますます怪しくなって行く。

「そーよ。あぁ~っ、カルマちゃんに会うの久しぶりだな~。きっと今じゃカッコイイ悪魔になってるはずよ」
「……そ、そんな……」

シオンは、もはや卓上ギリギリにまで俯いてしまったティオの頭にプチトマトをコツンと投げた。

「何暗い顔してんのよ。親戚じゃ唯一の同い年なんだから、仲良くやんなさいよね。じゃ、ごちそうさま」

シオンはうな垂れたティオを気に留めもせず、鼻歌交じりに自室へと向った。

「……オジサンだけでも嫌なのに、カルマまで来るなんて……」

もうティオの中には、先ほどまでの食欲が一気に失せてしまっていた。

「さ……最悪だ……」


















「あのビルを爆破したら日本人どもはこう動くに違いない……退路を断つ為には、やはりこの道を封鎖する必要があるな……」

マンションの前で、ブツブツと独り言を呟きながら、辺りを見回していたのはジュノであった。
全身黒づくめで道の往来に立ってそんなことをしていては、どこからどう見ても怪しさ満点であったが、
当の本人はすっかり有事の際の動き方や対策を脳内でシミュレーションする事に熱中しており、そんな細かい事はまったく気になっていなかった。

「いや、待てよ。そうなれば日本人どもはこう来るはずだ! うーむ、これは懸念事項として考慮しておく必要があるな……」

腕を組み、過ぎ行く車を目で追いながら、ジュノはその場に蹲った。
炎天下を物ともせず、血の巡りもよくなってくると、だんだん頭も冴えてきて、八方塞に思われた壁に突破口が見えてくる。

「ハッ! そうか、ヤツラがこう来る前に、あらかじめ先手を打って……あれをこうすれば……!」

グッと拳を握り締め、勝利の期待と共に、ジュノが立ち上がろうとした時だった。

「邪魔だどけ」

突然背後から何者かが彼の肩を掴み、ぽーんと、真横に向って突き飛ばされた。
起立の瞬間だったせいで重心が乱れに乱れ、もはや偉大なる革命戦士も「ぐぇっ!」と、情けない声をあげてフェンスに激突するしかなかった。

「だ、誰だぁぁぁぁぁぁっ!!」

ずれたサングラスを慌てて直し、ジュノは辺りを見回した。
不覚にも戦士である自分がこの様な目にあって、それが恐らく日本人であると思えば、見過ごしておくことは到底出来ない。
しかし、辺りの道路を見ても、今しがた自分を突き飛ばしたらしき人物の姿は確認できなかった。
となると、一体何処へ消えたのか……ジュノの目は背後のフェンスへと向けられる。

「あっ!!」

ジュノは、銀色のフェンス越しに、自分の住処であるマンションの玄関へ向っている二人組の姿を認めた。
突き飛ばされた方向、それからの時間と、歩ける距離、さらに声の感じなどから考えると、
奴等のうちの、前側を歩いているスカジャンを着たペパーミントグリーンの少年に間違いないと彼は確信した。

「(こ、この俺が、よりにもよって日本人のガキに愚弄されるとは……! クソッ! )」

金網に掴みかかりながら、犯人とおぼしき連中の背中を睨みつける。
二人はそのまま、玄関の中へ入り、エレベーターのボタンを押していた。

「(ここの住人か……ならば好都合だ……ククク……この俺を突き飛ばした事を後悔させてやらねばな……)」

犯人がどこのどいつか確かめて仕返しをするため、ジュノはここから見える各階の通路を見張った。
しばらくして、さっきの二人組が通路に現れた。すぐさま下から階数を数えてゆく。……そこは、ジュノらのいる7階だった。

「(……同じ階だったのか……?……ま、まぁいい。ククク、別の階まで向う手間が省けるというものだ……)」

そのままじっと様子を窺っていると、二人は702、703、704と、空き部屋のはずの部屋を通り過ぎ、
ジュノの住む706号室も、OFFレンジャーの住む707号室も通り過ぎ……。

「あっ……!」

思わず声に出してしまい。ジュノは慌てて口を抑えた。
二人が立ち止まったのは一番右端。シオンとティオの姉弟が住む708号室の扉の前であった。

「(あそこは……あの日本人女の……!)」

そんな事を思っているうちに、男二人は部屋の中へと入っていった。どうやら単なる来客らしいと判明する。
だが、ジュノはそれを見て苛立ちとは少し違う、どこか妙に腹の底からもやもやとした感情がこみ上げてきていた。














「きゃぁぁぁぁぁーーーーっ!!!! オジサマー! いらっしゃーい!」

悲鳴をあげるほど嬉しさを爆発させながら、シオンは叔父のディアボロスに飛びついた。
そのまま姉は丸太の様に太い叔父の腕に捕まって、何度も上げ下げされながらはしゃぎ声をあげる。

「ハハハ、シオンはこれが好きだからな」

叔父は人間に悟られぬように、真っ黒なスーツを着込んでいたが、ティオ達の3倍はある身長と、筋肉隆々の体格のせいであまり意味を成していない。
これが本来の姿になったら野獣の毛並みが揃うわけで、だからティオは毎回叔父に会うたび“牛みたいだ……”と思う。

「お、オジサン、こんにちは……」

そんな光景を見ながら、ティオは消え入りそうな声で小さく頭を下げると、
叔父はおぉっ!っと必要以上にバカでかい声を上げる。思わずティオの耳がキーンと言った。

「ティオか! ガハハハハ、元気がないな、次期魔王がそんなんでどうする! オラッ!」

ティオの背中に、座布団みたいな叔父の手がバシンと当たった。
彼はいつもスキンシップとして、笑う時も、怒る時も、泣く時も、ことあるごとにティオの背中をバシバシ叩くのである。
これこそ、ティオが叔父のことを嫌う一番の原因であった。

「い、いたいよ、オジサン……」
「ガハハハ! 男がこれくらいで弱音吐いてどうする! オラッ!」

再び、胃が飛び出しそうな一撃を背中に受け、ティオは早くも叔父が帰る事を心の底から望んだ。
しかし、今回は叔父だけでない。もう一人同い年の従兄弟がやって来ている。

「シオン姉様、お久しぶりです」

叔父の後ろから、スカジャンを着たペパーミントグリーンの少年が顔を出すと、またも姉は甲高い悲鳴を上げた。

「えっ、うそっ、ホントにカルマちゃん? 大きくなったわねー!」
「ええ。父様に似て成長が早いようで」

ティオは恐る恐る、従兄弟であるカルマの方へ目をやった。
最後に会ってからだいぶ経っているが、背も自分より少し高いし、伸びた牙も外へ飛び出していて、成長の差が伺える。
そして何よりもティオの苦手なのが、彼の蛇の様に吊りあがった細い目と大きな赤い瞳だ。

「人間の姿してるのに、なんか顔付きとか悪魔が隠し切れない感じ良いわー! ティオとは正反対!」
「ティオですか」

カルマはチラと真っ赤な瞳が向けられると、ティオは思わず目を逸らして、エコの後ろに隠れてしまった。

「それより、その青いのは?」
「あっ、お、オレ、使い魔のエキオンプスです。エコって呼んでくださーい」

叔父たちに自己紹介するエコの後ろで、ティオはまたチラリとカルマの顔を覗き見た。
子供の時と変わらぬ邪悪な顔つきに余計拍車が掛かり、同い年とはとても思えない。
ティオが人間界に来た時、テレビで見た“虫歯菌”の絵そのものだ。

「ま、取り合えずオジサマもカルマちゃんも上がって上がって! 朝から“私が”腕によりをかけてご馳走作ったの!」

エコの紹介も済み、姉が叔父達をリビングへ案内し始めるとティオもそそくさと後へ付いていこうとする。
と、突然その肩を誰かが掴んだ。頼みのエコも、既に目線の先。背中にじんわりと汗を書きながら、ティオは振り返った。

「……久しぶりだな、ティオ」

そこにあったのは赤い蛇の目だった。たちまち、全身が硬直し、鼓動が高まる。
そのまま、カルマは肩に腕を回し、ガッチリとティオの身体をその場に留めたが、ティオの視線は泳ぎまくっていた。

「相変わらずビクビクしてんだな、お前」
「…………」
「俺たち、従兄弟同士じゃねえかよ。昔よく一緒に遊んだだろ? 仲良くしようぜ」

グッと肩を掴まれ、カルマの顔がすぐ側まで迫った。
ティオはまともに彼の顔を見れないまま「う……うん……」と、心にもない返事をした。

挿絵

「今日は、ちょっとお前に話があるんだ……ちょっと耳貸せよ」
「な、なにするんだよ……」
「別に何もしねーよ。……ま、昔の俺だったら何したかわかんねーけどな」
「や、やめてよっ……!」

ティオが耳を押さえながら離れるとカルマはニイッと口元に笑みを浮かべた。

「安心しろ。俺はもうガキじゃねえ。俺は優れた一流の悪魔になるべく、日々父様の下で魔族の振る舞いを学び、分別は付いてる。
一流の魔族はそんなことはしない。しっかり目標を見据えて綿密な計画を立て、大胆に実行し、莫大な成果を確実に得る。これこそが優れた魔族だ」
「……じゃ、じゃぁ話って……?」
「それはだな……」

耳打ちしようとするカルマに恐る恐るティオが耳を近づけると、フーッと息が吹きかけられた。
全身を駆け巡る悪寒にティオは「わぁぁぁぁっ!」と声をあげながら離れる。

「ハハハ!“優れた魔族にも息抜きは必要”。……今度はちゃんと話すから、耳貸せよ」
「も、もう、いいよ……! か、か、カルマの話なんか、聞くもんかっ……!」
「おい待てって」

さすがにティオも腹が立ち、激しくカルマの腕を振りほどきリビングへ駆け込んで行った。
残ったカルマはポリポリと耳を掻きながら、ゆっくりとその後を追いかけた。

「ったく、相変わらずいじめ甲斐のある奴だな」














リビングに入り、窓にしっかり鍵をかけてカーテンを閉めると、ようやく本来の姿に戻った5人の悪魔による宴が始まった。
テーブルから落ちそうな程に並べられた料理の数々を前に、叔父だけでなくカルマまでもが様々な言葉でシオンを称賛するのを、
ティオは苦々しい思いで聴きつつ、自分がさっきまで焼いていたナポリ風ピザをかじっていた。

「いやぁ、人間の食い物など口に合わないだろうと思っていましたが、シオン姉様の手に掛かればこうも美味しくなるなんて驚きです」
「やだー。カルマちゃんって、いつの間にか口まで上手くなっちゃったんだから」
「いいえ、これはお世辞ではなく俺の本心ですよ。きっとシオン姉様が魔心(まごころ)を込めて作られたのでしょう。不味い物が一つとして無い」
「えへへ。まぁ、オジサマとカルマちゃんが来るっていうから、それなりに頑張ったけどねー」

シオンの料理を散々褒めちぎるカルマに姉の表情はますます綻んでいる。
もし今、「本当は自分が作ったんだ」と言えばカルマはどんな顔をするだろうかとティオは思ったが、
そんなことをすればカルマの間抜けな顔よりも先に出現するのは、姉の憤怒と鉄拳である事を身に染みている為、ぐっとその思いを飲み込む。

「シオン姉様のような方が人間界なんぞに住まわれている事こそが、今や魔界の最大の不幸と言わずにはおられません」
「どうしよう、照れるなー。でも、まぁまぁ人間界も楽しいんだよ~」
「……しかし、人間界には遊びで来られた訳ではないのでしょう?」

カルマからギラついた蛇の目を向けられ、ティオの身体は緊張で固まった。
そして、間髪入れずに隣の姉からも冷ややかな視線、ティオの全身はチクチク痛む。

「ガハハハ! ティオはまだチビだからなぁ! もっと肉食え! なぁ、肉だ! ガハハハハ!」

またも手の形がくっきり残る平手がティオの背中に飛んだ。既に彼は肉体的にも限界に近づいていた。
もう自分の事など放っておいて、黙って食事すればいいのに。
しかし、そんな彼思いを察しているかのように、カルマは意地悪げな笑みを浮かべてティオに追い討ちをかける。

「確かに、ティオを見ていたら俺と同い年とはとても思えませんね。シオン姉様」
「そう、ホントにそう!」

カルマのネチネチとした口撃に同調する姉の言葉に、ティオは泣きそうになった。
このままでは、吊るし上げ大会だ。助けを求めようと彼はチラと隣のエコの方に目をやった。
しかし、案の定、こういう時のためのお目付け役も、間の抜けた笑みを浮かべながらピザにかぶりついていたのだった。

「ほんっと。カルマちゃんみたいなのが弟だったら、どれだけ良いか……」
「もしそうならば、一日で人間界から戻り、王として俺が魔界を治めていることでしょうね」
「さすがカルマちゃん。その自信の1ミリでもいいからティオに分けて欲しいもんだわ」
「ハハハ、シオン姉様、俺をそんなに買いかぶらないでくださいよ」
「そんなことないわよ。だって……」

その時、シオンの言葉を、けたたましいベルの音が打ち消した。
一同の視線は部屋の隅に置かれた骨を組み合わせた様な装飾が施された魔界直通電話に集まった。

「もぉ、こんな時に……」

めんどくさそうにシオンが電話に向かい、受話器を取る。
そして彼女は電話の相手と二言三言交わすと、突如「えぇーっ!」と大声をあげた。

「どうかしたのか、シオン」

叔父の問いかけに、シオンは今にも泣きそうな顔で叔父を見つめた。

「魔界で何かトラブルがあって、オジサマにすぐ戻って来て欲しいんだって……」
「なに!? そうか、ひょっとしたらこの前の事かもしれんな、だったら急いで帰らねば!」

大岩が動いたかの如く叔父が立ち上がると、シオンは受話器を放り出し、目に涙を浮かべながら彼の太い足元に抱きついた。

「せっかくオジサマが来てくれたのに……私、もっとオジサマとお話したかったー!」
「ガハハハ!なぁに、仕事が落ち着けば人間界などいつでも来てやるさ」

来なくていい……と、その時ティオは心の中で呟いた。

「カルマ、ワシは一足先に魔界に戻るが、お前はシオンやティオとゆっくりしていけ、無論それだけでなく……」
「はい、父様。“人間界ともいえど何事も見聞を広め自らの知となり力とする”…ちゃんとわかっております」
「ガハハハハ! さすが我が息子だ! では、しっかり任せたぞ。シオンもティオも、またな」
「オジサマ待って。せっかくだからそこまでお見送りしてもいいでしょ?」

シオンがすがる様な目を叔父に向けると、彼はまたも地響きの様な笑い声を上げた。

「ガハハハハハ! シオンは相変わらず甘えん坊だな! よしよし、じゃぁそこまで送って貰うとしよう!」
「やったあ! オジサマ大好き! じゃぁ、ティオとエコ、あとカルマちゃんもちょっとの間留守番しててね」
「う、うん……」
「安心してくださいシオン姉様」

ティオが答えようとすると、その前にカルマがさっと割り込んだ。

「ティオの奴は俺がしっかり面倒見ておきますよ」
「うん、カルマちゃんティオをよろしくね。さっ、オジサマ行きましょ♪」

シオンが叔父と部屋を出て行くと、ティオはとりあえず不安の片方がいなくなった事にホッとした。
とりあえず肉体的なストレスは解消された……、ただ精神的なストレスの素も結構厄介なことには変わりないのだった。

「……おい、ティオ」

叔父達の足音が消えたころ、カルマはその真っ赤な目をチラとティオの方に向けてニッと口元を緩めた。

「エコとか言ったな。お前もこっちへ来い」
「ふぇ?」

カルマはエコも呼び寄せると、二人の肩に手を回し、それぞれの顔を近づけさせた。
邪悪な顔つきがますます影を帯び、それは120%間違いなく、何かを企んでいる表情であった。

「……なぁ、ティオ。シオン姉様、昔と比べてますます綺麗になっていると思わないか?」
「へっ?」

突然のカルマの問いに、ティオは次の言葉が出てこなかった。

「弟のお前から見ても、シオン姉様の美貌は魔界の中でも格別の物だと思うだろ?」
「……ま、まぁ……う、うん……」
「エコはどうだ?」
「えっとえっと、シオンさまは、オレもお綺麗だと思います」
「そうだろう、そうだろう!」

予想通りの返答を得て満足したのか、カルマは二人の肩を掴んだ手にぎゅっと力を込めた。

「では、そんなシオン姉様を妻としてもらうに相応しい悪魔は一体どんな奴だとお前達は考える?」
「そ、そりゃぁ、ねーさまは、お、王族だから……やっぱり王族同士かな……」
「そう、血筋を守る事は大切だな。エコはどうだ?」
「えっとですねー。オレはやっぱり、シオンさまには、魔界一の悪魔がぴったりだと思います」
「全くだ。シオン姉様に釣り合うのは魔界でもとびきり一流の悪魔しかいない!」

カルマはそう言うなり、鼻息を荒くして、ぐっと胸を張った。
一人でいい気になられても、ティオもエコも彼の言いたい事がさっぱりわからないままだった。

「か、カルマ……一体何の話をしてるのか、ぼ、ボクには、わからないよ……」
「へっ、相変わらず鈍い奴だな。そんなことじゃお前が一流の悪魔になる日は程遠いぜ」
「……わ、わからないから、聞いてるんじゃないか……」

ティオはムッとした顔で、カルマに反抗してみせた。

「ま、いいだろう。“命令を下す際にはしっかりと下の者との意思疎通を図る”父様の教えだからな」
「……?」
「今日、俺がわざわざ人間界なんぞに来たのは、シオン姉様を射止めるためだ」

イトメル……当初、ティオはその言葉の意味をまったく理解できなかった。
糸める、胃止める、衣とメル、射止める……その語が何を意味するかじわじわと理解できた時、ティオの衝撃は次のように発露された。

「えぇーーーーーーーっ!!!!!!!!」

普段の500%増の大声で、ティオは胸の内にあふれ出す衝撃を吐き出していた。
そして後に残ったのは、動揺と混乱、そして突然大声を出したことによる眩暈と息切れであった。

「そ、それってつまり、か、カルマが、ぼ、ボクの、ねーさまと、け、結婚したい、って、こと……?」
「そうだ」

さも当然かのようにカルマが答えると、ティオは思わずその場に座り込んでしまった、

「な、なんで、ねーさまなんかと……」
「フン、そんなの決まってるだろ。俺の目標は、父様を超える一流の悪魔になり、ゆくゆくは魔界一の悪魔になることだ!」
「は、はぁ……」
「魔界一の悪魔に相応しい妻は、魔界一の女悪魔と決まっている。魔界一の女悪魔といえば当然一人しか存在しない!」
「そ、それが、ねーさまってこと……?」
「その通り。シオン姉様のような方に相応しい悪魔なぞ、ゆくゆくは一流悪魔になるこの俺以外にいるわけがないだろ?」
「そ、そうかな……」
「そうなんだよ」

カルマは語気を強くして、ティオの肩をつねった。
彼は痛みに顔をしかめるティオの顔を見て満足したのか、ニヤリと笑って、

「このために今日はわざわざ父様に協力してもらったんだ。お前らにもしっかり協力してもらうぜ」
「えっ、ま、まさか、今日オジサンが来たのってもしかして……」
「俺がシオン姉様を射止めるために協力してもらったのさ。人間界で心細いシオン姉様に、この俺が悪魔として頼もしい所を見せるチャンスだと言ってな」
「な、なんでそこまで……」
「そんなの決まっているだろ。いずれはこの俺こそが、誰もが認める一流悪魔となって、この魔界を治めるべき王の座に着くからだ!」
「ちょ、ちょっとまってくださいよカルマさまー。次期魔王はティオさまに決まってるんですよー」

慌ててエコが口を挟むと、両手を広げて高らかに宣言していたカルマは「ハンッ」と憎たらしげに鼻を鳴らした。

「確かに、王位継承の優先権は魔王の息子のティオが持っているが、従兄弟の俺にも継承権はちゃんとあるんだぜ。
父様や親類は全て放棄しているから、ティオの次はこの俺に回ってくる! いや、順番を待つまでもなく、俺が魔王になることは決まっているんだ!」
「な、なんでそんなことわかるんですかぁ?」
「おいエコ。テメーの目は節穴か? この立派な羽根、角、尻尾、牙、この俺こそが魔王になるべくして生まれた悪魔の中の悪魔だからだ!」
「ふぇ……?」
「そのために、まずは次期魔王に相応しい嫁を物にしておくということだ。父様もさぞお喜びになるぞ! わーははははははははは!!!!

カルマは腰に手を当て、何がそんなにおかしいのか、大きな高笑いを延々と続けていた。
エコとティオは、そんな彼をなんとも言えない気持ちで見つめていた。

挿絵

「……だから、ボク苦手なんだ、カルマって……」

ティオはカルマの笑い声に掻き消える様に小さく呟いた。














「(えーい……たかが日本人女だ……俺には関係ない。関係などない。そうだ、俺は偉大なる革命戦士。任務の事だけ考えておればいいのだ。そうだ)」

思考とは裏腹に、そんな偉大な戦士であるジュノは、メゾンぐるてん7階の天井裏を黙々と匍匐前進していた。
新築のマンションのため、クモの巣もネズミも、変な虫も見当たらず、ただ断熱材が敷き詰められている綺麗な場所である。
唯一欠点があるなら、違う部屋の天井裏に行けない様、壁で仕切られていることだった。
だから彼の手には手回しの小型ドリルとノコギリが握られているし、壁に穴を開けてはノコギリでゆっくりと壁に穴を開けていたのであった。

「(そうだ。これは、いざという時の避難通路を確保しているのだ。退却も立派な戦略な事には変わりない。違う部屋に逃げ込む為だ)」

隣の707号室への壁が開けると、ジュノはそのまま真剣な目つきで再び天井裏を進んでいった。
当然、さらに向こうの部屋にいくには、壁を突破する必要がある。ヘッドライトに照らされて、708号室の壁がうっすらと照らされているのが見えた。

「(そうだ。スパイする必要もある。情報収集は大切だ。偵察できる部屋は多いほうが良いのだ。とりあえずあの部屋にも行かねばならない。
そうだ。俺は情報収集のためにあそこへ向うのだ。あの日本人女は、怪しい、怪しいからな、あのガキも、そうだ。怪しい。偵察しなければ。そうこれは偵察だっ!)」

無意識に息を荒くしつつ、ジュノは壁に接近すると、“任務のため”に、壁を切り崩し、とうとう陣地への突入を果たした。
蒸し風呂の様なこの空間で汗だくになりながらも、彼の爛々と輝く瞳は一点を見つめていた。

「(……あの女の部屋は、確かあの辺り……)」

そこまで考えたとき、彼の中に眠っていた戦士としての矜持が突如、彼自身を引っ叩いた。
“馬鹿者! 俺がここまで来たのは任務のためだ。決して覗きをするためではないっ!”その叱咤は彼の胸にぐっさり刺さった。

「(ハッ!……そ、そうだ。俺は、あくまで情報収集のために。あ、あ、あのクソガキへの報復計画の参考の為に……あっ、避難通路の確保もそうだ!
……おのれ、日本人どもっ、またしてもこの革命戦士である俺を愚弄してくれたな!!…………ま、まぁ、いい。ひとまずは情報収集だ)」

自分の中で長々とした邪心の処理を終えると、ジュノは手前にある断熱材を外し、天井板をあらわにした。
彼は胸ポケットから小さなキリを取り出し、手際よく板に小さな覗き穴を開けると、聞き覚えの無い少年の声がかすかに耳に入ってきた。

「(おっ、いるな。どれどれあのクソガキは。…………!?!?!?!?)」

何の気なしに穴を覗き込んだジュノは、真下の部屋の光景を見るなり、全身が一気に硬直してしまった。
なにせ下にいるのは、どいつもこいつも角や羽根を生やし、野獣の如き黒い毛並みに覆われた少年の姿だったのだから。
それが“何か”は、ジュノにはわからなかったが、一つだけ確信できた事があった。

「(……ば、化け物だ……!)」

ジュノの脳裏には、祖国に古くから伝わる人間を捕って食らう化け物の話が思い返されていた。
確かその化け物は、普通の人間に成りすまして近づき、一人になった所で正体を現し、獲物を毒牙に掛けるという……。
ということは、あの少年はもしや、その類の化け物の一種ではないのか。

『なぁに、安心しろ。今日でシオン姉様をモノにするために、俺がばっちり作戦を考えているからな!』
「(なっ……!?)」

下から聞こえてきた言葉に、ジュノはこの蒸し暑い空間にいながらにして、全身に寒気が走った。
シオンをモノにする……それはつまり、シオンを自分の物にする=捕食するという意味ではないのか!?

「(な、なんてことだ……。あ、あの日本人女を食らう気か……? まさかこの国にもいるとは……)」

ジュノの身体は衝撃的な光景を前に、じりじりと後ずさりを始めていた。
いくら銃器を駆使して戦うよう訓練された者でも、人知を超えた存在には恐怖心を抱かずにはおれないものだ。
それに、どちらかというと彼の祖国ではそういう存在をどちらかというと信じているのが一般的だ。

「(……ど、どうする……)」

後退しながらも、彼には闇の中に覗き穴がら飛び出す淡い光が見えていた。
それはまるで、この事実が夢でもなんでもないとハッキリ示しすためのスポットライトであるかのようにも思えた。

「(……ええい、所詮あいつは憎むべき日本人だ。や、奴が化け物に取って食われようが、俺の、知った事かっ……!)」

ジュノは素早く身体の向きを変え、来た道を黙々と戻って行った。
















散々高笑いしたカルマが落ち着いた頃、見送りに出ていたシオンが部屋へ戻ってくると、
「おかえりなさい」と言おうとしたティオを押しのけて、カルマが前に出た。

「おかえりなさい、シオン姉様。父様は無事帰られましたか?」
「うん、ちゃんと人間にも見つからないように帰ったみたい。オジサマに絶対また遊びに来るようにね!ってお願いしちゃったー♪」
「ははは、シオン姉様らしいですね。ところで……」

カルマの目が向けられ、ティオは緊張で思わず唾を飲み込んだ
これは、カルマから脅迫まがいに何度も念を押されていた計画の始まりを告げる“合図”であった。

「あ、あの、ねーさま……」
「ん? なぁに?」

ご機嫌な姉が反応すると、ティオは震える指を胸の前で無意識に絡ませた。

「あ、あのね……か、カルマが、せっかく、人間界に、き、来たから……ねーさまに、街を案内して……」
「そう! 一流の悪魔となる参考に一度人間界を見学したいと思いまして、是非とも案内を“シオン姉様”にお願いしたいのです!」

最後まで言い終わらないうちにカルマはシオンの前に飛び出し、彼女の手をそっと取った。

「シオン姉様が連れて行ってくださる場所ならば、きっと悪魔としての良い勉強の機会になるはずです」
「カルマちゃん……」

なんともキザったらしい仕草に、ティオは口には出さなかったが「バカみたい」と胸のうちで呟いた。
が、当の姉はそんなカルマを前に満更でもなかったらしく、ぱぁっと顔を綻ばせていた。

「よーし、OK! 人間界も結構面白いからカルマちゃんも覚悟しといてよねー!」
「そうと決まれば、ティオはすぐに出掛ける準備。エコは留守番だ。なに、もう出来てる? それはよかった。ではシオン姉様、早速参りましょう」
「あら、今日のあんたたちは珍しく手際がいいのね。じゃ、行こ行こ!」

前もって準備させていたのをおくびにも出さず、カルマはシオンと玄関へと向かった。
ティオは留守番のエコと別れ、カルマ達の後へと続いたが、もう嫌な予感しかしなかった。今日という一日を、真っ黒な闇が貫いていくのが見えた気がした。
嫌だなぁ、嫌だなぁ……そんな気持ちが渦を巻きながら、玄関を出ると、前方のシオン達がふと足を止めていた。

「あ……あ、あれっ、し、シオンさんもおでかけですか!?」

姉の前方には、年中花粉症みたいな格好をした706号室の住人、ジュノが立っていた。
さすがに暑いのか、彼はいつものようなコートは着込まず、代わりに『あつはなつい!』と明朝体でプリントされたシャツを着ていた。

「あれー、ジュノさんもおでかけなんですか?」
「え、えぇ。せっかくの、あの、その、休みなので……」
「シオン姉様、なんですかこいつは」

見知らぬ男の登場に、カルマは眉間に皺を寄せ、あからさまに不愉快そうな顔でジュノを見た。

「あ、この人は706号室に住んでる高校生のジュノさん。ご両親が海外にいて、一人でこっちに住んでるの」
「……ふうん」
「ど、どうも……」

ジュノはそう挨拶したが、カルマの方をじっと見つめ、会釈すらする素振りをまったく見せなかった。
そんな光景を見て、ティオはいつも自分に会う度、ペコペコとうっとおしいまでに平身低頭で礼儀正しい彼が、カルマに対してそんな態度を取るのを不思議に思った。
見えないはずのサングラスの奥の目が、なんだかカルマを睨んでいるような気までしてきた。

「ジュノさん、紹介しますね。こっちは私の従兄弟のカルマちゃん。……えっと、都会に出てきたばっかりだから、
今日は一緒にこの辺を案内してあげようと思って。これから出掛ける所なんですよー」
「そういうわけだから、邪魔すんなよな」

カルマの方も、ただでさえ鋭い目付きがジュノに対しては余計に鋭くなっていた。

「じゃ、邪魔だなんて、そんな、ぼ、僕はただ……」
「そうよカルマちゃん。ジュノさんは礼儀正しいくて良い人なんだからそんな言い方しちゃダメよー?」
「それはすみません。さぁ、シオン姉様、この方のお出かけを邪魔しちゃ悪いですから、我々も早く行きましょう」

シオンの手を取り、ジュノの脇をカルマが通り過ぎていこうとすると、

「あっ、ど、どこへ行かれるんですっ!?」

慌てたように、ジュノが声をあげた。
シオンは、ニッコリ微笑んで「とりあえずショッピングモールに行こうかなって思ってます」と答えると、

「あ、ちょ、ちょうどよかった。ぼ、僕もですね、あの、そこへ行く所だったんです。ご一緒しても良いですかっ!?」
「悪いが数年に一度の親戚付き合いの日なんだ。断る」
「ぐっ……」

ジュノは出掛かった言葉を飲み込んだように喉をゴクリと鳴らして、小さく肩を震わせた。
ティオは、それを見つめるカルマとの間に雷が走ったような気がした。

「まぁまぁ、カルマちゃん。いいじゃない。みんなで行った方が楽しいんだから」

姉の能天気さにとてつもない外面の良さが加わって、二人の見つめあいに絶対的な裁きが下された。
一方のティオは、同行者が増えたことに、元来の対人恐怖症がズキズキとうずいた。ジュノの様にあまり喋らない人もかなり苦手なのだ。

「じゃ、いきましょいきましょ♪」

浮き足立って歩き出す姉の両隣では、カルマとジュノが互いに互いを気にしているようにチラチラ目線を合わせていた。
それは、ティオの様に人見知りから成るものではなく、もっと何か別なものようにティオには思えた。
エレベーターへ向かうわずか数十メートルの距離を歩く4人の中で、楽しげにしているのは、最早シオン一人だけだ。














「(ケッ、余計な奴が付いて来ちまったな……ここが魔界ならこんな奴、半殺しにしてるところだ)」

シオンの話を穏やかに聞く一方で、カルマはその向こう側でしつこいくらい相槌を打っているジュノの様子を伺っていた
素顔がはっきりとわからないが、年上のくせに体格を見る限りひ弱そうだし、なんだか気も弱々しい感じなのが気に入らなかった。
その一方で、そんなジュノ自身も、その胸の内は平凡そうな好青年を演じている表向きとは180度異なっていた。

「(……フン、上手く化けたつもりだろうが、俺にはわかってるんだぞ、この化け物め。……こっ、こんな日本人女など本当はどうでもいいが、
俺達の日本制圧計画の邪魔になるだろうからな、始末しておくに越した事はない。そ、そうだ、俺は計画を遂行するために動いているのだっ!
ククク……見てろ。キサマが正体を現すなり、すぐさま俺の愛器でぐうの音も出ないようにしてやる! そして我らが計画の足がかりとしてやるのだ! )」

シオンは、よもや両隣の男達が互いに火花を散らしてるとは想像だにしていておらず、通りの向こうのパン屋が美味しい事を話していた。
だが、ガイドされる側の二人にとって“チョココロネを買うなら昼過ぎが狙い目”などという情報など、もうどうでもよかった。
彼らの心中はただひとつ、一刻も早い邪魔者の排除だけであったのだから。

「(……もう嫌だ……帰りたい……こんなとこにいたくない……帰りたい……)」

そしてもう一人、もう何もかもどうでもよくなっているティオが、彼らよりかなり遅れて歩いていた。
嫌いな従兄弟に、苦手な近隣住人、恐ろしい姉のお供、人の多い場所というフォーカードが揃い、彼の精神はピークに達していた。

しばらくして一同はショッピングモールへと到着したが、さすがに休日なだけあって中は人でごった返しになっていた。
家族連れからカップル、中高生の集団にオジサンオバサン、果てにはどこから迷い込んだのかゴールデンレトリバーまでが窮屈そうに歩いていた。

「シオン姉様、ここは人間の収容施設か何かですか?」
「もう、カルマちゃんったら。まぁこういう場所魔界には……」
「マカイ?」

シオンは、隣にジュノがいたことに気づくとハッと口を抑え、フフッと誤魔化すように笑った。

「ま、まぁ皆目検討がつかないわね。カルマちゃんの地元じゃ、確かにこんな場所ないだろうし」
「あぁ、従兄弟さんは田舎者なんですね。それは珍しいでしょう」

ジュノが田舎者に強くアクセントを置いてわざとらしく何度も頷くと、カルマの眉がピクリと動いた。

「そういえば、なんとかというお前。用が無いならとっとと失せないか、親戚づきあいの邪魔だ」
「何だとキサ……あ、いや、ぼ、僕はここへ買い物に……来たんですよ……」
「そうよ、カルマちゃん。ジュノさんはそのためにここまで一緒に来たんだから」

そういうと、シオンはジュノの方を見て、小さく手を振った。

「じゃぁ、ジュノさん私達はこれで」
「は、え、えぇっ!? ちょ、ちょっと待ってくださいっ!」

そのまま先へ行こうとするシオンの前に、ジュノは慌てて飛び出した。

「あ、あの、僕もご一緒して良いって、シオンさん今さっき……」
「え?」

シオンはキョトンとした顔でジュノの顔を見つめ返していた。

「え~? ですから、ここまで一緒に来たじゃないですかー。うーんと、何かおかしい所ありますー?」
「へっ……?」

ジュノは予想外の返答に、二の句を次ぐ事が出来ないまま、その場に固まってしまった。
そんな脇を「じゃぁこれで」と、会釈しながらシオン達が通り過ぎていく中で、カルマの「ざまーみろ」という囁きが鼓膜をブルブルと振るわせた。
その振動が収まるにつれて、今度は彼の中に怒りの炎が全身を焼き尽くさんばかりに、激しく燃え上がった。

「(あ、あの日本人女……この俺をハメやがったな……!!! お、俺の計画の邪魔にならぬように化け物を始末するついで、そう、ついでだ!
そのついでに! お情けであの女も助けてやろうと思ったのに……! キサマがそういう態度を取るなら、お、俺にも考えがあるぞっ!!)」

ジュノはキッと吹き抜けの天井を睨み付けた。















「シオン姉様、暑いので飲み物でもいかがですか?」
「いらなーい……あっ、ヤダー! 何あれ可愛い!」

いつの間に持ってきたのか、カルマの両手に握られている紙コップに目もくれず、
シオンは案内そっちのけで、次から次へとファッションブランドの新作に飛びついていた。
おかげでこの1時間のあいだ、カルマの細やかな“頼りになる男アピール”の猛攻撃も、付け入る隙が全くないままだった。

「どうしよ、こんなにいっぱい可愛い服が……! ちょっと試着してくるから二人ともここで待ってて!」

とうとう姉は両手いっぱいに服を抱えたまま試着室に入ったきり、早30分も出てこない。
こんな調子で姉に振り回され続けて、多少応えているのか、カルマの表情は前より険しくなり、額も汗ばんでいた。

「(ふふっ、カルマの奴、困ってる……)」

そんな様子を後ろで見ながら、ティオは内心ほくそ笑んでいた。
嫌いな従兄弟が右往左往する中で、それを姉が筋金入りの自己中心ぶりで華麗にスルーしていく様は、実に痛快であった。

「……なんだ?」

俯きがちに笑みを堪えていると、不機嫌そうなカルマに声をかけられ、ティオの表情からは瞬く間に笑みが消えた。

「あっ、い、いや……なんでも、ないよ……」
「お前、何か妙な事を考えていたんじゃねーだろうな。あァン?」

カルマから凄みながら胸倉を掴まれると、さっきまでのちょっとした優越感は一瞬で吹き飛んで、
ティオの中には、再び恐怖心しかなくなってしまった。全身がガクガクと震えて、喉が一気に絞まり、汗が止まらなくなる。

「そ、そ、そんな……そんなこと、あ、あ、ある、わけ、な、いよ……」
「俺の前でニヤつくな。そんなことしてる暇があれば、ちょっとは協力しろ、わかってんのか?」
「わ、わかってる、よ……」

胸倉を掴む力が緩まり、ティオがホッとしたのもつかの間、カルマは腹部にパンチを入れてきた。

「うぐっ」

胃液が上がり、視界が一瞬ぐらつく。そしてその後からじわじわやってくる鈍痛に、思わずティオはその場にうずくまると、

「大袈裟だなおまえ。めちゃめちゃ軽くやったんだぜー?」

ほとほと呆れた様子のカルマに、ティオは何も答えなかった。
答えればまた絡まれるのはわかっているし、殴り合うにしても圧倒的に不利なのは明白だった。
だからここはじっと我慢して、早く今日という悪夢が終わってくれるのを願うことしかできなかった。

「(もうやだ……帰りたい……こんなの嫌だ……留守番してればよかった。……もうこれ以上嫌な事がありませんように……!)」

しかし、そんな願いも空しく、彼の耳には、さらに非常に聞き覚えのある声が飛び込んできた。

「あれ、ティオくんじゃないすか?」

その声に、ティオの心臓はキュッと握り潰された。
恐る恐る振り返ると、そこにいたのはまさしくマンションの隣人であり、いつも自分達の邪魔をするOFFレンジャー隊員の姿だった。

「ティオくんも買い物っすか?」
「つーことはシオンさんもこの辺にいるのか!?」

“すっすっす”うるさいブルーと、その頭上のブラックという男二人
人見知りの彼がこれまた大嫌いな『中途半端な知り合いとのプライベートでの出逢い』に遭遇し、ティオの精神は完全に参っていた。

「(……来るんじゃなかった……ねーさま、早く帰ってきてよ……嫌だ嫌だ嫌だ……)」
「おい弟、シオンさんはどこだ!?」

すぐ逃げ出したい衝動に駆られながらも、この危機的状況とブラックからの問いかけが加わり、ティオの体は硬直して動く事はできなかった。
そして、いつもの様に目付きだけはどんどん鋭くなり、傍目から見ればウンコ座りしながらガンを飛ばしているようにしか見えなくなっていた。

「こいつ、睨み付けてないでなんか言えよな!」
「シオン姉様は今、取り込み中だ」

身を乗り出すブラックの顔をカルマが押し返した。
同じ対象を狙っている物同士の直感がここでも働いたのか、押し返されたブラックも負けじとその手を首の力で押し返そうとする。

「なんだテメェ……! シオンさんとどーゆー関係だ!」

鼻をめり込ませながらブラックが応戦すると、カルマはフッと口元を緩めた。

「俺か……俺はシオン姉様と婚姻関係を結ぶ者だ」
「……はぁ!? シオンさんがお前みたいなガキを選ぶわけねーだろーが!」
「俺以外に選ぶような奴などこの世に存在するわけがない。俺こそがシオン姉様の夫に相応しいのだ!はーははははは!」
「ざけんなこのヤロー!」

カルマの底知れぬ自信と、それをまともに受け取って対抗するブラックとの間に出来た火種はじりじりと燃え上がっていた。
そして、そんな火花に引き寄せられるかの様に彼らの周囲には徐々に野次馬達が集まってきていた。
ただでさえ人間界のことをよく知らないカルマだ。下手に騒ぎになれば姉に怒られるだけは済まない。

「や、やめなよカルマ……ひ、人が、集まってるよ……」

蚊の鳴くような声でティオは勇気の一言を放った。
しかし、そんな決死の努力も、振り返った際の"蛇の目”を前に無残にも粉々となった。

「おい、ティオ」

カルマはティオの肩に手を回すと、

「俺達は悪魔だ。そうだよなぁ?」
「う、うん……」
「俺たち悪魔が人間なんかに舐められていいのか? そんなこと見過ごせるわけねえよなぁ。ん? そうだろ?」

肩を掴むカルマの手に力が入った。ティオは震えながら「う、うん……」と声にならない声で答えた。
もうこの段階でティオの中には先ほどの勇気が一瞬で吹き飛んでいってしまったかに見えた。
だが、それよりも怖い姉の存在により、かろうじてまだ”それ”は僅かに残されていた。ティオはゴクリと息を飲み込んだ。

「で、でもっ、人間達が、さ、さ、騒ぐ、かも、しれない、から……ほ、ほら、一流の悪魔になる、ために、ここは、お、大人にならないと……」
「……そうか、それもそうだな」

カルマは思案するように腕組みをして、

「確かに、ゆくゆくは魔界一の悪魔となるこの俺が、たかが人間相手にムキになるなど無意味にもほどがあるな……」
「で、でしょ……! ここはさ、に、人間なんか、無視しちゃおう、よ……!」
「よし、わかった」

"一流の悪魔としての心得”を持ち出したおかげか、尊大な従兄弟はさらに尊大なまでに胸を張ると、
険しい顔でまだこちらの出方を伺っているらしきブラックを指差した。

「おいお前、今日の所は見逃してやる」
「なんだと!? ビビってんのかオラァ!」

ジャブを打つ真似をしながらブラックはなおも挑発しようとするが、カルマの中にはもはやそれは道端の小石が揺れている程度にしか感じなくなっていた。
そんな小石を前に、彼は腰に手を当て、

「勝手にほざくがいい。己が相手にしようとしている者がどれほど恐ろしい存在かいずれ知ることになるだろうからな! はーはははは!」
「……な、なんだこいつ……」

ブラックの方も、カルマの意味不明な尊大ぶりにただならぬアブナサを感じ、あっという間に戦闘意欲は掻き消えてしまう。
対戦相手がいない以上、何も起こりえないわけだから集まったギャラリー達も、三々五々に散って行き、ショッピングモール内には平穏が戻った。

「(よ、よかった……これでねーさまに怒られなくて済む……)」

ティオは、心の底から安堵しながら、思わず神に感謝しそうになった。
隊員達の方もこれ以上めんどくさいことにならないように、さっさと買い物に戻ろうとしているらしく、こちらに背を向けようとしていた。
あとは姉が試着から戻ってきて、家に戻ってしばらくしたら従兄弟も魔界に戻り、最悪の一日は終わりを告げる。
ティオは自分を奮い立たせるように、胸の前で拳を握った。もうすぐ、後もうすぐで、クライマックスまで一直線。
どうせ、これ以上面倒な事なんて、まず起こらないだろうし……



ズ ガ ガ ガ ガ ガ ガ ガ ガ ガ ガ ガ ガ !!!!



最初はどこかで花火でも鳴らしているのかと誰もが思ったその僅か5秒後、カルマの右隣に何かが落ちてきた。
それは、薄黄色で円筒状のプラスチックだった。その上部からは一本の細い金属の棒が飛び出しており、その先っぽは酷く損傷していた。

「……?」

上を見上げると、その正体はこのショッピングモールの天井一帯に吊るされているはずの照明器具だった。
しかし、やけに大きな照明器具だ。いや、よく見るとどんどん大きくなって行っているが……

「みんなにげろおおおおおお!!!!」

誰かが発したその一言に、その場はパニックとなった。十数メートル上部に吊るされたそれらが、一気に地上へと降り注ごうとしていた。

「うわぁぁぁぁっ!」

ティオは逃げ惑う人々を前に混乱し、わけもわからず傍の店の中に駆け込み、Tシャツの棚の間へしゃがみ込んだ。
その直後、あちこちで小さな爆発みたいにドン!という落下音と、粉々になったプラスティックカバーが散らばる音が絡み合い、反響し、
あるときは豪雨のように、あるいは砂嵐のように音を変えながら、そのノイズは鼓膜を激しく振るわせた。

「……」

永遠に続くかと思われた音の洪水、ふと気づけば辺りは静寂に還っていた。ティオは恐る恐る目を開いて、棚の向こうから店の外を見た。
辺り一面、無数の黄色い破片が散乱し、目に痛いほど真っ白かったタイルの上を埋め尽くしていた。
と、その中に、一人立つ影があった。黒いスカジャン、ペパーミントグリーンの毛並み……。

「か、カルマ……!」

ティオが慌てて駆け寄ると、カルマは脱いだスカジャンを頭に被せた格好で、ぶっきらぼうに「なんだ」と答えた。

「け、怪我は、してない……?」
「当たり前だ。この俺が、たかだか数十個の落下物に対処できなくてどうする」

カルマは頭上のスカジャンを掴んで、僅かに積もったプラスチック片を振り払うと、

「それにしても、この俺に宣戦布告を仕掛けてくるとは、ティオ、奴は良い度胸だと思わないか。ん?」
「えっ……?」

不思議そうなティオに、カルマは吹き抜けから見える上の階の通路を顎で指した。
先ほどの騒動で人気のなくなった3階通路。目の部分に穴を開けている紙袋を、すっぽり頭から被った迷彩服姿の男が立っていた。

「アイツの仕業だ」

スカジャンを床の上に放り投げて、カルマはキッと紙袋の男を見上げた。

「おい、お前。一体これはどういうつもりだ?」
「フン。なかなかやるようだが……この俺には、全てわかっているんだぞ。この化け物めっ!!」

彼は両手にマシンガンを持ち、肩で息をしながらじっとこちらを見下ろしていた。

「おいティオ。アイツ、お前の知り合いか?」
「えっ……し、知らないと思う……」
「……人間だな」

カルマの目は、獲物を狙う蛇そのもののように妖しく光った。

「……人間の分際で、悪魔に挑んでくるとは、良い度胸だぜ……」

その様子に、ティオの危険を察知するセンサーが激しくサイレンを鳴らした。

「ま、待ってよ、カルマ……! こんな、とこで、騒ぎにでも、なったら。……もしかして、何かの、間違いかも、しれないし……」
「くだばれ、この化け物め!!!」

言い終わらないうちに、紙袋の男は手にしたマシンガンをカルマに向けて連射した。
弾丸が足元に来るより早く、カルマは漆黒の翼が露わにして、空に飛び上がっていた。

「おい。人間ごときが、いい気になるなよ」
「あぁぁっ……カルマ……!」

悪魔の翼でがっつり宙に浮いているカルマの姿に、ティオは思わず頭を抱えた。

「か、カルマー! だ、ダメだよ……!」

何とかカルマを落ち着かせようと、ティオは激しい動悸を胸の上から押さえながらカルマに叫んだ。
ひいき目に見れば、まだ翼を出しただけだ。まだ一応誤魔化すことはできる状態ではある。

「そ、そだ、一流の悪魔は……もっと、えと、あの、冷静な、対応を……」
「……父様は、常におっしゃっている」
「へ……?」

カルマは、あの恐ろしい邪悪に歪んだ笑みをティオに向けた。

「……一流の悪魔たるもの、いざという時、その矜持を守るために戦わなければならない」
「えっ? えっ?」
「見てろティオ! 魔族の恐ろしさをこの人間に叩き込んでやるぜ! はーははははは!」
「だ、だめだって、カルマ……!」

もはや制御不能になったカルマは、その額にコウモリを象った魔族の紋章を浮かびあがらせた。
たちまち彼の全身は紫色の光に包まれ、みるみるうちに頭部から角が生え、下半身は漆黒の毛並みで覆われて行く。

「とうとう本性を現したな化け物め!」

人間ではない存在を前に、紙袋男が銃口を向ける。
カルマはそれを一瞥すると、男の方へ人差し指を向け、クイッと自分の方へそれを曲げた。

「!」

その直後、男の被った紙袋は、勢い良く天井に向かって引っ張りあげられ、
緑や茶色の迷彩ペイントで覆われた少年……ジュノの顔が露わになった。

「お互いに本性曝け出して、フェアに行こうぜ? さっきの真面目気取り君よ」
「なっ……!」

正体を見抜かれていた事にジュノは激しく動揺し、思わず息を呑んだ。すると、その驚きの表情は、徐々に怒りの物へと変わっていた。
完璧なはずの自分の変装がバレるわけがない。バレたのは化け物だからだ。化け物の能力のせいだ。ならば早く始末しなければならない!

「がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!! 化け物めくたばれぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!」

頭の血管をブチブチと切らしながら、ジュノは怒りと勢いに任せ、化け物に向かってめちゃくちゃに銃を撃ちまくった。
そんな乱雑な弾道を、恐るべき化け物は軽々と避けて近づいてくる。焦りと怒りに任せていたせいで、とうとう、弾が切れた。

「なんだ人間、そんなモンか?」
「ひっ……!」

目の前に降り立った悪魔の姿に、弾丸が無いと知りつつも、ジュノは引き金を引き続けながら後ずさった。
ずかずかと歩み寄るカルマは、とうとう尻餅をついてしまった彼を見下ろしながら、不敵に口元を歪めた。

「人間ごときが、悪魔に楯突くなんて百億年はえーんだよ」
「や、やめろっ! 俺は美味くないぞっ……!」

錯乱しているジュノは手にしていた二つの銃を投げたが、カルマは呆れた顔でそれらを叩き落すと、

「バカか、お前は」

右手を伸ばし、ジュノに向けて紫色の光を放つ。 その光がジュノの全身がに包まれた直後、彼の身体は突如宙に浮かび上がった。

「おわぁぁぁぁぁぁ!?!?!?!?」

人知を超えた現象に、ジュノはパニックを起こしながらジタバタと暴れた。
彼は現実的な現象の対処だけを学んできたせいもあり、このような非現実的な出来事の前では赤子も同然だった。

「ちょっくら遊んでやるぜ」

カルマが右腕を上げると、それに呼応してジュノの身体はさらに高く浮かぶ。
頭上に高く掲げられた腕がぐるぐると回り始めた。すると同じようにジュノも回転を始める。

「や、やめろっ、なにを、やめろっ! うぐぅっ……!」

徐々に回転は速くなり、酔い始めたジュノは口元を押さえる。が、それでも回転は止まる気配はない。
腕を回しながらカルマは通路の柵に歩み寄っていった。下を覗き込むと、薄黄の破片がモザイクの様になった一階の広場が見えた。
その中で、ティオがこちらを見上げて何か叫んでいるようだったが、よく聞こえなかった。

「おい、ティオ。お前もこの人間と遊んでやれよ!」

カルマはそう言い放つと、右腕を広場の方に向けて振り下ろした。
それに反応して、ジュノの体は高速回転を続けたまま、一気に一階めがけて急降下する。
そして一階は一階でも、その緑色のプロペラは、おもいっきりティオ目掛けて、飛んできているのだった。

「えっ……ちょっ、ちょっと……!」

前から見事に人間の直撃をくらい、ティオの身体は3メートルほど吹っ飛んだ。
さすがの悪魔といえども、十数メートル上から同じ背丈の人間を投げつけられては、ティオは完全に目を回すより他無かった。

「う……うぅ……」

その横でうつ伏せになっていたジュノは、ゆっくりと身体を起こした。あれほど衝撃を受けても、彼は気を失っていなかったのだ。
そんな光景を塀の上に立ったまま見下ろしながら、カルマはフッと口元を緩め、

「ほぉー。人間のくせに、なかなか頑丈みたいだな」
「……こ、この……偉大なる、革命戦士である、この俺を、ここまでおもちゃにしてくれるとは……っ……」

ジュノは全身をわなわなと震わせながら立ち上がる。
その顔にはさっきまでの"人ではない者"に対する畏怖も混乱も全てが抜け落ちていた。

「化け物だろうが、関係ない。我らの任務を邪魔する者は全て排除する……!」

ジュノはキッと、こちらを見下ろす不敵な悪魔を睨み付け、

「ここまでくれば、もう、絶対に! 絶対に!ぜーーーったいに許さんぞ、キサマっ!!!」

革命戦士としての戦闘意欲をふつふつと湧き上がらせた彼は、迷彩服の中から手榴弾を取り出し、歯でピンを引き抜いた。

「うおおおおおおおおおおおおおああああああああああああああ!!!!!」

針を振り切り、もはやただの暴走と言えるようなやけくそぶりで、偉大なる革命戦士は勢い良く手榴弾を放り投げた。


















「こっちっす! 早く早く!」

ブルーから騒ぎを聞いて、慌ててショッピングモールに駆けつけた隊員たちは、目の前の光景を呆然と眺めていた。
辺りの柱や壁には銃弾らしき物の跡や、破片が突き刺さり、床には爆弾でも破裂した後の様に抉れている箇所まで見受けられている。
中央にあった噴水もすっかりその名残は見当たらず、ただ上から落ちてきたらしい2階の通路が、水たまりの中に堂々とそびえ立っていた。

「これはまた派手にやってますねー…」
「お、俺らが逃げたときはこんなんじゃなかったんだけどな……」

ブラックは何ともいえない顔で呟いた。隊員を招集したのは銃声と照明の雨が原因だったはずが、どうすればこういう状態になるのか。
それは下のブルーも同じ気持ちなようで、この異様な現状を把握する事で精一杯であった。

「あっ! 誰か倒れてますよ!」

面食らっている男二人より先に、グリーンが柱の影に倒れている人影に駆け寄った。
起こしてみると、それは顔面を真っ赤に腫らした不良少年ティオであるとグリーンはすぐさま気が付いた。

「ちょっとアナタ、一体これはどういうことなんですか? あなたがやったんじゃないでしょうね!」
「おい、ちょっと待てよ! それよりシオンさん! シオンさんも一緒にいるはずだよな? シオンさんは無事か!? オイ、弟!」

グリーンを押しのけ、ブラックは気を失っているティオに掴みかかった。
しかし、肝心の弟は「う~ん……」と呻くばかりで、すっかり伸びてしまっているようだった。

「やべぇ! シオンさんに、もしものことがあったら俺、どうすりゃいいんだ……!」
「別にどうもしないんじゃないですか?」
「うおおおおおおーーーーッ!!!! シオンさああああああーーーーーん!!!!!」

グリーンの冷たい言葉を受け付けず、ブラックは、その小柄な身体のどこにそんなエネルギーがあったのか、喉も枯れんばかりに絶叫した。

「なんですかぁ~?」

突如、背後から聞こえた甘ったるいシオンの声に隊員は一斉に振り返った。
そこには、ショップの奥に設置された試着室のカーテンを開けたまま、両腕に大量の洋服を手にしたシオンが、
一連の騒ぎがあったことなど微塵も感じさせないほどキョトンとした顔でこちらを見ている姿があった。

「シオンさん! だ、大丈夫でしたっ!?」
「え~? 何がですか?」
「いや、あの……ずっと試着室にいたんですか?」
「はい、そうですよ。可愛い服がいっぱいあって、どれにしようかな~ってすっごく迷っちゃって!」

あどけない笑顔で答えるシオンに、隊員たちは疑問を挟む余地は無いことを悟った。

「あれっ、ティオ? どしたの大丈夫?」
「ええ、まぁ……とりえず、お二人とも無事でよかったです。弟さんと一緒にマンションまでお送りしましょうか、ね。」
「え?」

不思議そうな顔でシオンが試着室から出ると、彼女はようやく目の前に広がる光景に「えーっ!?」と声をあげた。

「えーっ、何ですかこれー? 一体何があったんですか~?」












その頃、テロリストVS悪魔というハリウッド映画のような戦闘は、屋上の駐車場へと場所を移されていた。

「ハァッ……ハァ……ハァ……!」

大量に仕込んだ弾薬も爆弾も底を突き、ジュノにはもはや闘志しか残っていなかった。
いくら兵器を駆使しようと、相手は空を飛べ、力を使う。圧倒的にこちらが不利であった。

「……ふぅ」

一方、長く伸びた電燈の上に立ったカルマの側も、文字通り息つかせぬ激しい戦いの末、ようやくここで息をついていた。
一見有利に思える魔力というものも、無限に使えるわけではない。使えば使う分だけ体力も消耗する。
間髪入れずに放たれる銃弾を常に見据え、力を使って避け、飛び、そして攻撃するのだから、条件としては大差は無い。

「…………」
「…………」

兵士は悪魔を見上げ、悪魔は兵士を見下ろす……そんな光景がもうかれこれ10分は続いていた。
お互いに相手の出方を伺っていたが、両者とも、次に再び今までと同じペースで戦闘を繰り広げれば、体力的にも精神的にも厳しくなる事を感じ取っていた。

「……人間の中にも、なかなか骨のあるやつがいるようだな」

先に口を開いたのはカルマだった。

「人間など、我ら魔族と比べればずいぶんと劣った存在だと思っていたが……フッ、少しはその認識を改める必要があるらしい」
「なっ、何の話だっ!」

噛み付くようにジュノが叫ぶと、カルマはニイッっと口角を上げ、鋭く生えた牙を光らせた。

挿絵

「父様曰く。“一流の悪魔は押すだけでなく、大事な局面には引く事も必要”……今日の所は見逃してやる」
「なにっ!?」
「だが、シオン姉様をモノにするのはいずれ魔界一の悪魔となるこの俺、カルマだということを忘れるなよ! はーはははははは!」

最後まで高慢な態度で、カルマは高らかに笑いながら、空へと飛び立って行った。
その笑い声を遠くに聞きながら、緊張の糸が切れたジュノは、崩れるようにその場に座り込んだ。

「い……一応、勝利と言えるか……ふ、フン。偉大なる革命戦士であるこの俺が、化け物ごときに負けるわけが無いのだ。
……そうだ! なにせ俺は日本制圧計画の障壁を排除する為にここまで来たのだからな! ククク、ハーッハッハッハ……!」

腰に手を当て、ジュノはカルマに負けないほど高らかに勝利の声を上げた。
──夏の青い空に、男二人の笑い声は清々しく響いていた。














「それでは、シオン姉様。本日はありがとうございました」

深々と頭を下げて、精一杯の紳士的な態度でカルマはシオンに心からの感謝を告げた。
一方、そんな様子を見ている顔中絆創膏だらけとなったティオの心も、訪問客が帰ることへの感謝の気持ちでいっぱいになっていた。

「(や、やっと帰る……やっと帰ってくれる……! よかった……ぼ、ボク、がんばった……うん……すっごくがんばった……!)」
「……ティオ。お前“やっと帰るのか”とか思ってるんじゃねーだろうな!」

安心したのも束の間、カルマに小突かれ、ティオはやっと落ち着きかけた鼓動が再びバクバク音を立て始めた。

「えっ……そんなこと……お、思ってないよ……」
「そーよそーよ。久々にカルマちゃんに会えてティオだって楽しかったはずだもん。私だってもっとカルマちゃんと話したかったし」

本気で別れを惜しんでいるシオンの言葉に、カルマは満更でもなさそうに頬を掻いた。
いつも邪悪そのもののカルマの照れた様子を見るのは、ティオは初めてだった。

「はは……またそのうちいくらでもお話できますよ、ティオの奴が悪のエナジーを集めれば。な? ティオ」
「う、うん……」

できるだけ、悪のエナジー集めをのんびりしようとティオは思いかけたが、
そんな気持ちをまたもカルマに察されそうで、目を伏せたまま、シオンの後ろにそっと半身を隠した。

「じゃぁね、カルマちゃん。立派な悪魔になるために頑張ってね」
「はい、ありがとうございます」

カルマは再び会釈をすると、シオンの方を見つめながら後ろでにドアノブを掴んだ。
いよいよ涙々のお別れもクライマックス。ティオの心臓は少しずつ安定を取り戻しつつあった。
後は、厄介な従兄弟がドアを開き、廊下に足を踏み出し、ドアを閉めるだけ……

「そうだティオ、せっかくだからそこまで一緒に見送りに来いよ」
「え……えっ!?」
「……来るだろ? え?」

最後の最後にカルマからとっておきの眼光に凄まれ、ティオは覚悟を決めて、ゴクリと喉を鳴らした。
かくして、何も知らない姉の微笑みに見送られ、ティオはカルマと二人、廊下へと出て行った。

「……」

廊下に出ても、カルマは歩き出そうとする素振りもなく、押し黙っていた。
今日一日だけでも大なり小なり肉体的にも精神的にも参らされただけに、一体シメには何が待ち受けているのか。ティオの足は震えていた。

「ティオ」
「あっ、え、えっと……な、何……?」

恐る恐る目線をあげると、カルマは塀にもたれ掛かって赤くなった空をじっと見据えていた。

「今日一日でシオン姉様をモノに出来るだけの資質が俺にはあると思っていたが……どうやら俺はまだまだだったみたいだ」
「そ、そう、なんだ……」
「シオン姉様は俺が思っていたよりもずっと芯があり、そして決して奢らず、天真爛漫で……やはり俺が自分の妃に選んだだけのことはあると確信した」
「……へ、へぇ……」
「そんなシオン姉様だからこそ、魔族でない者まで魅力してしまうのだろう。人間相手とはいえ、俺もまだまだ悪魔としては半人前のようだ。
……とはいえ、父様に見栄を張った手前、このまますごすごと立ち去るわけにもいかないしな」
「……え?」

何の話かわからないティオの方へ目を向けたカルマは、ニッと口元を緩めた。

「俺はもうしばらく人間界にいることに決めた」
「え……えぇぇっ!?」
「このまま戻っては父様に会わせる顔もない。せっかくだから、見聞を広めるために人間界の事情も多少知っておきたいしな」
「で、でも、それだとオジサン心配するんじゃ……そ、そうだよ、す、すっごく心配するよ……!」
「父様曰く“一流の悪魔は一度決めたら最後まで必ずやり遂げなければならない”……むしろ父様も褒めて下さるはずだ!」
「で、でもっ……でも……っ」
「大丈夫だ」

カルマは慌てふためくティオの肩をポンと叩いた。

「もちろん、シオン姉様をモノにする事は忘れない。それが第一だからな。時々、理由をつけて魔界からやってきた事にするから、
お前やエコの奴にまたシオン姉様獲得作戦に協力してもらうぞ。だから俺が人間界に留まる事は秘密だ。いいな?」
「そ、そ、そうじゃ、なくて……!」
「なぁに心配するな。俺のような一流の悪魔になる者が人間界で生活するぐらい訳なんてねーんだ。魔力だって使えるわけだしな。
そしていずれは、シオン姉様も俺の猛アピールで俺の魅力に気づき、やがて俺のもとに嫁ぐ決心をするだろう! 楽しみにしておけよティオ!」

カルマはそう言うとバサッと背中から漆黒の羽根を生やすと、塀の上に飛び乗った。

「まぁ、そういうわけだ。これからはちょくちょく顔を出してやるからな。よろしく頼むぜ?」
「ち、ちが、だ、だから……!」
「俺こそがシオン姉様に相応しいということを、あの身の程知らずの人間に知らしめてやるぜ! はーははははは!!!」
「ま、待って、ちょっと、カルマ……!」

最後までティオの話を聞かず、カルマは塀から飛び立ち、蒼く染まり始めた空に向かっていった。
意気揚々と羽ばたくその悪魔の影は、夜のふちに紛れ、やがて見えなくなっていった。

「……う、うそ、だ……そ、そんなこと……」

ティオは一気に全身の力が抜けたように、その場にへたり込んだ。
そして、長く長く尾を引いて聞こえる従兄弟の高笑いを聞きながら、一人ぽつりと呟くのであった。



「さ……最悪だ……」